武器としてのこころリテラシー【6】~自分のこころを見つめる2つの方法(理入・行入)(前半)~

みなさん、こんにちは。

 

最近ではやはりというか当然ですが、リモートワークを活用する企業様もかなり増えました。自粛期間中に「やろうと思えばできたんだ」という実感がリモートワーク、テレワークの活用を大きく推進したのである意味当たり前の話と言えます。そしてメディアでは「オフィスは本当に必要か?」というこれまでの常識に挑戦的なキャッチフレーズで、リモートでの働き方を推進していくトレンドも出てきていると感じます。

 

しかしやはりリモートワークだけでは仕事を進めるのは難しいだろうというのが私の感覚で、おそらく多くの方もそう思っているのではないかと思います。私のクライアント先での話ですが、リモートワークで仕事の効率化はできたのですが、ある社員が「やるなといったことをやったり」「やれと言われたことをやらなかったり」という事象が目立つようになったそうです。いわゆる意図が伝わらないコミュニケーションが増えたということです。もちろんそれが100%リモートワークのせいだというのではありませんが、要因の一つではあるでしょう。

 

その方は普段からいわゆる「マイルール」を押し通すという認知がある人でした。普段ならばそれを訂正させるためのフィードバックなりコミュニケーションを丁寧にやれば意思疎通が機能するのですが、リモートワークだとこうした方と意図をすり合わせていくというのは非常に難しいものです。これは業務ルール自体に欠陥があるということでもなく、論理的にルールを理解できないということでもなく、自分に都合よく解釈してしまうというモノのとらえ方、またその状態で仕事に向かっていくときのこころの問題だからです。しかしリモートワークではこうしたこころに目を向けてコミュニケーションをしていくことがどうしても難しくなります。

 

リモートワークを推進することで会議も実施しやすくなり、タスク管理という側面では意外とやりやすさを感じて、今後はリモートの割合も増やして有効活用していこうというトレンドは続くと思います。それは当然理解できますし私自身も日本の働き方改革として必要な部分だと感じていますが、それでも感覚のするどい経営者は、「仕事は効率化したように見えるが、前向きに仕事に取り組んでいく仕事の原動力ともいえるような空気感がパワーダウンしているのではないか?」というような懸念を持たれていると思います。

こうした前向きな気持ちを持ってリモートワークをツールとして活用するのは大賛成ですが、リモートワークやITツールに合わせてそれでしかやれないことに収終始しているとポジティブなエネルギーが減少すると危惧しています(もちろんITツールができる可能性を広げていくという努力は同時並行でやる必要がありますが)。

 

まさにここからは仕事のやり方が複雑化していく中で、ますます「こころ」の問題が大切だということを示す良い事例だと思いました。

 

~リテラシーを使いこなすための自己理解とそれを阻むもの~

ということで「こころリテラシー」をしっかりと広めて、ここからの時代に人のマインドバイタル(こころの活力)を高めていく支援を私もこれまで以上に推し進めていこうと改めて考えている次第です。

さて、こころリテラシーについて、前回までにこころのLIFTモデル(参考記事は下記ご参照ください。)という構造(フレーム)やそこから生じるこころの問題について解説してきました。

武器としてのこころリテラシー【4】~2つのこころの問題へのアプローチ(前半)~

 

ここからはそれをどう使いこなしていくかという話が大切になってきますので今回はその視点を書くブログにしたいと思います。こころリテラシーを使いこなすための最大のポイントは「自分のこころを見つめる」ということです。

 

自分のこころを見つめることでどこに対してアプローチをしていくかがクリアになるからです。よく「何が問題かがわかればその問題は半分以上解決したようなものだ」と言われますが。こころについても似たようなことがあります。自分のこころを俯瞰してみることができればゆがみをとったり、拡張していったりすることができるのです。

 

さて、では自分のこころを見つめるにはどのようにしていけばいいのでしょうか。いきなり身もふたもない話で恐縮ですが、基本的には「見つめようとしてみる」ことしかありません。いわゆる自分自身を理解しようとするということですね。

この自己理解のための方法論は様々な分野が本当にいろいろなツールを開発してきていますので折に触れてご紹介していきたいと思いますが、どんなツールを使ったとしても自己理解にはある種の難しさがつきまといます。科学の世界で物理現象を観測するようには理解できないのですね。そしてその難しさが私たちのリテラシー向上を阻んでいるのです。ということで、ここでは自己理解を阻むものについて考えを深めていきたいと思います。

 

皆さんは、自己理解をするために自分を振り返ってください、と言われたらどうするでしょうか?(「振り返り」というのも自己理解の一つの手がかりなわけですがそれはまた別の機会に。)

例えば日記などは一つの自分の振り返りなので、それだったらやっているよという方もいるかもしれません。仕事の振り返りは定期的にしているのでそこで自分自身についても振り返っているという方もいるかもしれません。

何らかの形で自分自身を振り返っているという方は結構いらっしゃると思うのですが、自分のこころの状態を理解できていると感じている方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。この質問になるとかなりの割合の方は「うーん・・・」となるのではないでしょうか。私としては、それは自己理解には以下の3つの壁が存在するからだと考えています。

 

①理解の壁

例えば何かしら苦しい思い、もやもやする思い、すっきりしない思いを抱えているときに、何がそれをもたらしているのか、今の状態はどういうことなのか、ということを理解することがなかなかできないということです。

そもそもこころは目に見えませんので、何が原因で今のイヤな状態が生み出されているのかを知ること自体が難しかったりします。例えば、私自身は新卒で入社した会社では新規開拓をミッションとした法人営業の職についたのですが、そのころはなかなか成果が出ませんでした。上司や先輩からも連日のように叱られ、かなり苦しかったことがありました。

なかなか初めてのお客さん先へアポなしで無理やりにでも行く、ということができなかったのが一つの原因だったのですが、ある時「自分は完璧主義になりがちで失敗を恐れている」のだなと気づいた時がありました。その気づかなかった自分の思い込みが今の苦しさを作っている原因だと理解したのです。それが理解できるとこころがふっと軽くなったことを覚えています。

そしてそこから行動を変えていくことができたということができたのですが(当然すぐには成果は上がりませんでしたが泣)、逆に言うとそれを理解するまでが結構大変でした。このように自分のこころの状態をあたまで理解することが結構難しいという問題があります。

 

※ちなみに、私の新入社員時代のようなケースでは、ほかの人はどうやっているのか?ということを知識として知ったり、うちの会社ではこういう指導のやり方だが、世間一般では〇〇のようなやり方が主流らしい・・・・みたいな話を知識として知ったりしていることなども自分のモノの見方やそこからくるこころの状態を理解するために有効だったりします。

 

②経験(体験)の壁

二つ目は経験(体感)の壁です。いいかえると体感的理解の壁とも言えます。感情に結びついた経験をどれくらいしているかとも言えます。端的に言うと「火の熱さは手をかざしてみなければわからない」ということです。

例えば、何かしらで非常につらい思いをしているときには、以前にそれを経験していればその状態について自分なりに整理ができるものですが、その経験の幅がせまければ、ネガティブ方向に働いていく情のエネルギーに負けて、こころを整えられなくなってしまいます。こうした体感の幅がないと自分のこころを見つめる前に情によってネガティブな方向に引っ張られてしまい、自己理解することが難しくなります。そして自分がいま抱えている気持ちや自分を支配している思考などに気づかなくなる。つまりこころの状態を見つめることができなくなります。

 

人に助けてもらった経験、人を助けた経験、失恋経験、挫折などそうした感情を伴うような経験がないと自分のこころが漠然と感じているイヤな状態の原因を自分で理解することが難しくなります。

またこうしたことは接する周りの人たちのこころの状態を理解することも妨げるので、周囲の人たちとの葛藤やちょっとしたいきがかりも多くなり、こころがネガティブになる要因を再生産しているという見方もできます。

(当たり前の話ですが、みじめな気持ちを持ったことがない人には、今この瞬間仕事がうまくいかない、周りに認めてもらえない、などのみじめな気持ちを感じている人のこころはわかりません。頭ではわかっても気持ちではわからないのですね。)結果としてネガティブな情に流されたままになるか、情を無視しようとして感情を伴わないように理屈で物事を判断しようとするようになります。いずれにしても自分のこころ、時に相手のこころにも負荷を与えていくことになります。

 

ちなみに、これに関連して、こころの回復力を見た研究をご紹介したいと思います。2001年に起きた9.11テロという大変ショックな出来事を経験した人の中で、順調にこころが回復した人とトラウマが残り、なかなかこころに活力が戻ってこない人の差を考察した研究です。ここでは結論だけをお伝えしますが、端的に言うとこころの回復力の差は「経験した情緒的な出来事の数」ということでした。

要は情緒(感情)を伴う出来事、体感・経験の幅が多いほど今自分が置かれているこころの状態(情の状態)を理解し客観視する力が高いということだったようです。ネガティブな方向にいこうとしている情を理解し、ポジティブな感情経験を意図的に思い出そうとしていた、ということが分かったそうです。

 

このように体感・経験の幅が自分のこころ見つめるうえでの壁となっているケースは結構多いのではないでしょうか。

 

③本能の壁

本能の壁というと大げさですが、端的に言えば「人は見たくないものにはフタをする」ということです。なぜならば人間は自己保存のために「不快を避け、快に近づく」という防衛本能を持っているためです。思い描いている自画像と異なる自分がこころの奥底にいるとき、本来はそれを自覚し、そのあり方が受容できればよいのですが、多くの場合それを見ないようにするという無意識的な選択を行います。それに気づいてしまうと不快感が生じることがわかるからです。よく「本当の自分を見るのがこわい」という表現を使う人がいますが、もっと本能に近づくと怖がっている事すら自覚できないということもあります。

そしてこれは無意識に何かの自画像から「逃げている」というばかりではなく、無意識に「接近している」という事象もありえます。「人間~~すべきだ」と強く信じている価値観があり、「自分はそれを実践している立派な人間だ」という無意識の価値観がある場合などがそうでしょう。そしてどうやら周囲もそうした価値観(~~すべき)を認めているようだ、となったときにその価値観的な言動に過剰に偏り、別の見方が全然できなくなるということがあります。

ちょっと前のホットトピックだと「自粛警察」というキーワードで紹介されていましたが、自分の「正義心」を信じて疑わず声高に主張することで自分に酔ってしまい、ほかの見方を受け付けなくなっている事象だとみることができるでしょう。自分自身の意が偏っているにもかかわらずその偏りが自覚できないということになり、自分のこころを柔軟にしていったり、大きくしていったり、ゆがみをととのえていくことが難しくなります。

 

例えば、「自分は優しい」と思っている人は、同時に「自分は冷たくない」と思っています。ただ優しい自分では対処できないことは人生の中で多々でてくるため実際には優しくない自分(冷たい自分)もいるのです。しかし優しくない自分に起因して今何か苦しい思いをしている場合には、意識は「優しくない自分などいるわけがない」と言った具合に、いまの苦しい現実を生み出しているものから目を背けさせてしまいます。こうなると今の状況を生み出している自分のこころの状態を見つめるのはますます困難になってくると言えるでしょう。

 

①~③まで考察してきたように、自分のこころを見つめようと思ってもなかなか難しいのが現状です。

次回は、そのアプローチ法についてお伝えしていきます。