• [組織開発]教科書から学ぶ⑫~啓蒙主義から社会構成主義へ 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-265~

[組織開発]教科書から学ぶ⑫~啓蒙主義から社会構成主義へ 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-265~

私たちが物事を理解するプロセスは、どのようにして成り立つのでしょうか。ハイデッガーによれば、それには事前の理解が重要であるということになります。事前の理解とは、身心一体的な対処能力のことです。この対処能力によって、私たちは世間で出会うものの意味を理解しながら生きていくことができるというのです。つまり、ハイデッガーによれば「理解をもたらすいかなる解釈も、解釈されるべきものをすでに理解しなくてはならない」となります。そうですよね。知っていなければ、分かりようがないですよね。E.シャインが使っていた事例に以下のようなものがあります。

「カモノハシが初めて発見された時、科学者たちは侃々諤々の議論をした。これは哺乳類か、鳥類か、爬虫類か? しかし哺乳類、鳥類、爬虫類のカテゴリーは、現実そのものではなく、現実を私たちが分かり易く認識するために考え出された仮定であるということを忘れがちである。科学者の議論は、カモノハシはカモノハシであるという現実を忘れ、科学者たちが勝手につくった仮定に無理やり当てはめようとする思考に過ぎない。」

 

さて、このような考えを前提とすれば「言語:コトバ」はどのような役割を持つのでしょうか。ハイデッガーによれば、コトバが私たちを語るのであって、私たちが自分のコトバを語るのではないといいます。啓蒙主義の主張である「コトバは導管である」とは対照的に、アイデア(概念や考え)はコトバの形をとらずには人の心には存在しません。私たちが受け継ぐコトバは、アイデアを日常的なものにするための文脈なのです。

つまり、私たちはコミュニケーションに使う概念を形成するコトバ(言語)を先祖より受け継ぎますが、このようなコミュニケーション手段としてのコトバ(言語)を持たない場合、「何か」についてどのように説明できるのでしょうか。ハイデッガーによれば、それはできないということになります。私たちは、先祖から続いている会話および存在の一部となり、そこに参加し、その中に「投げ込まれる」のです。別の言い方をすれば、人は過去から続く存在の流れに埋め込まれているのです。私たちは、私たちが存在するための一手段であるコトバの数々を受け継ぎます。その結果、私たちのコトバが私たちを語るのであって、私たちが自分のコトバを語るのではないのです。

なるほどね、このような考え方に立てば、いろいろな立場の人がその人の先達の考えを受け継いで、その考えのもとに世の中を語るというのは、気を付けないとますます固定的な考えを強化する方向に向かうということになりかねませんね。だから、その方向とは異なるシナリオを提示し、それを検討することが大切になるのですね。何か、シナリオ・プランニングの神髄に触れたような気がします。ロシアのプーチンも、彼の主張はプーチンが語っているのではなく、プーチン以前からあるコトバによる物語がプーチンをしてプーチンに語らせているということなのですね。ちょっと横道に逸れました。戻ります。

ハイデッカーの考えを発展させたのは、ハンス・ゲオルグ・ガダマー(独 1900~2002)です。彼は、現代解釈学の創始とみなされていますが、すべての知識は解釈であると主張した人です。彼によれが、知識とはテキストを読み理解することと同じであるといいます。テキストを理解することは、外国のものを自分のコトバで表現しなおす翻訳とよく似ているといいます。そそ、今、この瞬間の私がそうですね。ハンス・ゲオルグ・ガダマーの主張を「対話型組織開発」に書かれていること(テキスト)を読みながら、自分がすでに持っている知識と照らし合わせて解釈しようとしています。知識は解釈であるということの意味がよくわかります。

ガダマーもハイデッカーと同じく、啓蒙主義が理想とする客観的な姿勢に反論しています。知ることは解釈であり、親しんだ言葉への翻訳なのであるから、人の先入観の範囲を超えることは不可能であるとなります。先入観は、理解に必要な条件なのです。この考えは、ガダマーの以下の主張に強く表れています。

『我々は、常に歴史学的な伝統にすでに組み込まれているのであり、テキストの「真の」意味を理解するにあたって、伝統の外に出るのは不可能なのである。(中略)歴史や文化の外に出て、物事をより深く理解することはできない。たとえそれに気づいているとしても無駄であり、よりよく物事を見出すことができる地点、それは・・・錯覚である』

ここまで主張されると、ちょっと???と思ってしまうところもありますね。ガダマーの考えが真とすれば、ガダマーの主張もそれは錯覚であるということになりませんかね。まぁ、これは私の受け止め方なので、先に進みましょう。

要するに、ガダマーにとっては、あらゆる認識の行為は解釈を伴います。解釈は、何か(何かとは、物体、生き物、他者の意見・主張、概念、文化など様々なすべての事柄)と遭遇した際に、私たちが抱く先入観と偏見から生まれます。ある事象に対して、私たちに特定の解釈を選ばせるのは、以前の社会的経験から受け継ぐ意味の構成概念と言語の形式であるため、ガダマーは精神と世界を分離して考える合理主義に異議を唱えるのです。要するに、私たちの先入観は、予想・期待・予測によって意味を生み出します。認識と理解には、データをなじみのある理解のパターンに当てはめることが必要であるため、私たちの解釈は「懐古的な意味生成(センスメーキング)」であると言えます。また、これらの先入観は、私たちが生活してきた社会構造や文化に深く根付いているため、言語と先入観を介さずに現実にアクセスすることはできないと主張します。ガダマーの以下の主張を確認することで、この回は終了します。

「私たちの存在を成り立たせているものは、私たちの判断力ではなく、むしろ先入観である。私たちの存在の真実は、文字通りの意味において、先入観が私たちの経験の最初の方向性を決定することによって成り立っている。先入観と偏見は、世間に対して私たちが自分の心の中を見せていることを示している。またそれは、私たちが遭遇するものが私たちに何を語りかけてくるのかを解釈する前提条件なのである。」

なんとなく、変革には対話が重要であるという意味が分かってきたような気がします。

参考文献:[組織開発]教科書、対話型組織開発

 

この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株)波多江嘉之です。