• [組織開発]教科書から学ぶ⑩~啓蒙主義から社会構成主義へ 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-264~

[組織開発]教科書から学ぶ⑩~啓蒙主義から社会構成主義へ 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-264~

前回までのODメディアで、啓蒙主義に基づく社会科学のアプローチを学習してきました。20世紀に入り啓蒙主義の伝統に対する反論が続々と出てきます。例えば、「ポスト・モダンの条件(1979)」を著したリオタール(フランス)によれば、「ポスト・モダンとは啓蒙主義から続く大きな物語の終焉」でした。

フランク・J・バレットは、啓蒙主義の伝統への挑戦で、重要な理論家たちを取り上げていますが、彼らは全員、事前の考えと理論的理解がない場合には、そして、同じ理解と前提を持つ他者と当人を関連づける前提がない場合には「客観的事実」を実証するのは不可能であると結論づけています。つまり「真実」とみなされているものは、歴史的に、また文脈的に依存しているのです。「真実」とは、相互作用する人々が合意するという関係的なプロセスの産物であり、「客観性」は修辞的につくられたもの(言葉によって意図的に表現されるもの)だといいます。

なるほど、ということは逆説的に言えば、同じ組織や社会の中で長く信じられていている物語は、彼らにとっての真実であり、それを変えるということは彼らの中の物語・文脈依存を異なる視点から意味づけしなおすプロセスをつくり、新しい関係性を構築する作業ということになりますね。このあたりが、ブッシュとマーシャックが定義するところの啓蒙主義の伝統的流れにある診断的ODのマインドセットと対話的ODの違いになるということですね。以下、バレットに戻ります。

 

モダニズムでは、正確な知識は、精神が世界の特徴を鏡のように正確に写しているととらえます。このような考え方を「知識の導管理論」あるいは「器理論」ともいいます。いずれにせよ、言葉が意味を含み、意味を運ぶものと仮定しています(西洋の伝統であるロゴス、「はじめに言葉ありき」の考え方ですね)。この考え方においては、言葉の機能は、人の意思を正確に表すこと、あるいは、当人と外的世界についての客観的事実を表象すること(世界を心の鏡に映すこと)になります。したがって、言葉と文章は、意味を入れて運ぶ導管として機能します。このように知識を梱包して運ぶという考え方の影響は、知識がその保有者から引き出されて、学習者の精神(空っぽの金庫)に預金されるというという教育形態を出現させることになり、パウロ・フレイレ(ブラジル、1921~1997)はこれを「銀行型教育」と呼び批判しました。ジョン・デューイも銀行型教育は、暗記の重要性を掲げる教育には適しているかもしれないが、当事者が真に自立し主体的に自分自身をコントロールする力を身に着けることにはならないとしています。いずれにしても銀行型教育はで、生徒は後の利用に備えて、知識を受け取り、分類し、保管します。オンラインや遠隔教育が登場した現代でも、これは変わりません。教育は「配達」される商品となり、技術はモノのように「取得」されることになります。評価を下す人は、学習成果・知識・技術の習得を判定し、それらが適切に預金(格納)され当初の目的通りに正しく利用されているかを調べます。なるほど、啓蒙主義は、教育ということに対してもこのように影響を与えているのですね。日本もいろいろなところ(人たち)で、様々な改革的試みがなされていますが、いまだに銀行型教育が主流のようですね。ではそろそろ、対話型ODの土台となっている社会構成主義とはいかなるものなのに焦点を移していきます。

 

啓蒙思想の人々は、デカルト的二元論である主体(意識:感覚を受け取るもの)と客体(もの:感覚を通して知ることができるもの)の分離にとらわれた人たちであると主張したのが、マルティン・ハイデッカー(ドイツ、1889~1976)です。ハイデッカーは、プラトンやアリストテレスから続く西洋的な考え方によって、私たちは知識の本質と存在そのものの本質を歪曲した形で受け継ぐことになったといいます。ハイデッカーによれば、存在は全体的なものであるとなります。つまり、いかなる物体も、目につくものとして現れるためには、人物とその物体の両方が、統合された背景となる文脈の中に存在しなくてはならないと主張しました。背景となる文脈とは、いかなる物体にも意味を与える、信念・手段・およびその他の存在からなる日常の世界です。例えば「椅子」が認識可能な意味を持つものになるには、私たちが「椅子」というものに関して、他とは異なる経験・考え・および前提を持っていて、そのような文脈の中で観察されるからです。例えば古代の発掘物が、どのような使い方をされていたのか、当時の人は同じような経験・考え・および前提を持ってそれをつくり利用していたのですが、発掘した現代人は、当時と同じような経験・考え・および前提を持っていません。ですから、その発掘物が何を意味するのかどのような使い方をされるものなのかをあれこれ推論するしかないのです。そして、他の発掘物や遺跡調査から当時の生活様式を徐々に明らかにすることで、文脈が姿を現し、発掘物がどのような意味を持ち、使われ方をしていたのかが分かってくるのです。ですから、私たちが知識と考えるものは、すべての背景となる前提や習慣の上に成り立っているのです。私たちは「世界内存在(世界の中に存在するもの)」であり、活動に没頭しているときは、その背景にある習慣や前提を意識したり気づいたりすることはほとんどないのです。何らかの問題が生じたときにのみ、客観的な思考を行う状態になります。それがデカルトのいう「われ思う、ゆえにわれあり(cogito ergo sum)」なのです。なんとなく、社会構成主義の始まりが見えてきましたね。(続く)

参考文献:[組織開発]教科書、対話型組織開発

 

この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株)波多江嘉之です。