• ヴァレンシーを制御するための心構え。楽観と悲観を考える ~ソモサン第275回~

ヴァレンシーを制御するための心構え。楽観と悲観を考える ~ソモサン第275回~

今から約五年前の2018年12月にこのソモサンで「ヴァレンシー」という概念をご紹介させて頂きました。覚えている方もいらっしゃるかと思います。ヴァレンシーとは原子のように「基」となる特性のことで、心理学的には「心を誘引する基」として扱っています。

ではどういう「基」かと云いいますと、それは「いざという時の心の選択肢」です。具体的には、人はいざという状態になった時には「闘う」つまり「問題解決に対して向かっていくか」、或いは「逃げる」とか「過ぎ去るのを看過するか」の二択を行うが、この選択は時々で変わるものではなく、その人の性質の如く、「闘争(Fight)」を選択する人は追い詰まると必ず対抗的な態度や行動を取るし、「逃避(Flight)を選択する人は必ず避ける態度や行動を取るということです。この選択に論理はなく全てはその人に根ざす欲求のあり方に左右されます。この欲求が「楽観」や「悲観」といった想念をも生み出します。世の中には何が起きてもへこたれずに、いつもものごとを前向きに捉えて行動する人がいますが、これは「良きものは引き寄せて快楽に向かおうとする情動」として現れる「報奨への接近」を動機源とする欲求が大きく影響しています。一方で世の中には何に対しても臆病で保身第一で、いつも物事を後ろ向きに捉えて行動する人もいます。これは何よりもまず「悪しきものは遠ざけて不安を解消しようとする情動」として現れる「危険からの回避」を動機源とする欲求が影響しています。

「当たって砕けろ」という諺があります。本来は「やらなければ何も始まらない」という前向きな意図として使われます。しかし時に本当に「砕け散ってしまう」ことへの皮肉として使われるときもあります。確かに何に対しても「対決」だけを良しとして無用な摩擦を生み出すのも考えもので、「闘う」姿勢が格別に好ましいとも限りません。でも一般の社会生活的にはやはり「問題解決の連鎖」を如何に乗り越えて未来を構築するかが重視されるので、どうしても「逃避」的な姿勢よりも「闘争」的な姿勢のほうが好まれている

ようです。

これらの動機のあり方に関しては、

脳科学的には側坐核が快楽中枢回路として楽観につながるポジティブ的な情動を発露させ、扁桃体が悲観につながるネガティブ的な情動を発露させるということが立証されてきています が、人の心理バランスとしてはやや悲観論的に偏りがちな特性があることも認識されています。これは楽観の元である快楽を司る回路が「気持ちよく感じる」と「それを欲求する」という2つの機能を持ち、それが「報奨に対して情動を駆り立てる」という意識的な目的を満たすバイアス反応であるのに対して、悲観の元である恐怖を司る回路が無意識的な五感からもたらされる危険に向けて自動的に起きる条件反射的な反応ですから当然といえば当然の話です。

 

つまり人は意識的には快楽を求めるにも関わらず無意識的には危険回避に反応するという性を持っているということです。

 

このように動機レベルとしては、人はネガティブなことへの反応を比重高く認識するという性を持っていますが、それを楽観や悲観といった意識的な「心構え」のレベルで捉えてみると、事情はかなり異なってくるようです。楽観は確かにポジティブな気持ちと深い関わりを持っていますが、その定義は単に「ポジティブに考える」とか「意識的にポジティブに振る舞う」といったものではありません。

 

それは

 

「良いも悪いも全てを込みであるがままに受け入れながら、それを前提に自ら困難を乗り越えて少しでもポジティブな状態になるべく行動を起こす」

 

といったものです。「問題は一時的障害で未来は対処次第だ。何とかなるし何とかする」というのが楽観思考です。一方悲観は「問題とは個人の力ではどうにも出来ないし、またこういったことは決してなくなることはない」というものです。ネガティブというよりも「どうせ」といった無力感に基づいた思考です。

ヴァレンシーとプリンシパルの違い

では闘争や逃避といったヴァレンシーと楽観や悲観といったプリンシパルはどう違うんでしょうか。それはヴァレンシーはその大半が気質的な要因であるのに対して、プリンシパルは後天的、学習的な要素が大きく影響しているということです。

「逃避」を例に考えてみましょう。「逃避」という行為は本当に世に云われるような「忌諱される」振る舞いなのでしょうか。先にも述べましたが、何でも対抗したり闘争することが問題解決に繋がるとは限らないということは誰しもが冷静には理解している話でしょう。逃避の元である「恐怖の回路」は目の前の危機を切り抜ける為に生み出され、恐怖反応がもたらす生理現象は、感情のみならず発汗や鼓動の高まりなどで注意バイアスを高めます。これは恐怖を感じたから起きているのか、それともそういった反応によって感情を生み出して思考に影響するのかはDNAレベルでの太古の記憶によって制されています。何にしても恐怖は危機状況から最速で抜け出す助力になります。ですから逃避自体は忌諱される命題ではありません。

大事なのは、「逃避」という行為が嫌がられるというよりも、

その行為が利己のための防衛に基づいているとか、更には如何にもそれが全体のための行為だったかのように抗弁を弄する姿に見え隠れする見苦しさ

なのではないでしょうか。前者であれば無理なからんやという同情や共感もありでしょうが、後者になるともう戴けません。不快そのものです。

 

起きた事象に対して反射的に「逃避」するならばまだしも、「何にもしない」「首をすくめて時を過ごす」「如何にも自分は動いているかのように見せかける振る舞いをする」「他人を貶めることで自分が逃避でないように演出する」などといった「消極的、後ろ向きな行動を積極的に取る」といったとにかく自分が矢面に立たないように立ち回る意図的な「逃避」がどれだけ問題解決の足を引っ張ることか。恐ろしいのはそういった自分のネガティブな行為を自分は正当な行為だと信じ込んでいる人がいるという事実です。

これは5年前にも言及しましたが、人は後ろ向きになると実に防衛的で利己的な判断を選択します。そしてそれを誤魔化そうと後付けでの抗弁を弄したり他責にしたりと、自己正当化を図り始めます。自分の非などを考えるなどは論外です。兎にも角にも頭の中は自己正当化の波に揉まれていますが、本人的には自分としてはその認知は理知であると思っており、他者からの指摘も指摘であるということ自体が理解出来ない状態に陥っています。他者からの声は、助言や指摘というよりも、むしろ攻撃であったり虐めのようにしか写らなくなります。ひどい場合には「ハラスメント」的に吹聴仕出す始末です。例えそれが自分で招いたことであっても幻惑されると、ともかくそこから逃げたい。後はどうなってもいいとなってしまうのです。最早全くお話になりません。こうした人に真摯になるのは本当に時間の無駄以外の何ものでもありません。

それにしてもこういった人が近年若い人中心に非常に増加してきているように感じるのは私だけでしょうか。とても悲しい気持ちにさせられます。それよりも実害的には採用した後の組織的な混乱です。昨今のハラスメント問題や自称適応障害(大多数の精神科医は本人が申告するとママの診断を下すので要注意が必要です。企業はしかるべくセカンドオピニオンを受けることを薦めいたします)も逃避ヴァレンシーに起因することが多々見受けられます。

さてこの「逃避」ですが、本来は闘争よりも多くの割合を占めているといっても社会活動上は障害になる程大勢となるような問題ではありませんでした。それが近年割合が増えると同時に度も高くなっているのはどうしてでしょうか。そこに絡むのが「悲観」の台頭です。「逃避」に繋がる「恐怖」という経験や感情の積み重ねが悲観の元になっているということもありますが、社会的な意識として「悲観」の増加が「逃避」というヴァレンシーを煽っているような状況になっているというのが懸念されるところです。

 

冷静に考えると悲観という想念からくる認知が本当は自分にとってマイナスになると分かるような場合でも、また、それが明らかに自己の価値を社会的に下げていくとしても、悲観が理性を凌駕させ、感情として場を処理すべく逃避的な判断を推し進めてしまい、本来はリーディングすべき理屈の方がその辻褄合わせのために作動し始めるという歪みが起きてしまっています。

楽観はヴァレンシーを抑制する理性的作用をし、悲観はヴァレンシーの暴走を野放しにする。

「自分は無力だ。また世の中は変えることなどできるはずもない。だからともかくここから逃げよう。或いはやたらめったらでも贖おう。自分は善良で何も悪いことはしていない。自分に問題は一切ない。自分は正義だ。なのに自分は虐げられている。損をしている。悲観に後押しされた「自分は被害者である」といった意識にヴァレンシーが誘因起爆され、それが自己正当化と結びつき、自分の選択を自己合理化して暴走していく。誹謗中傷の真相です。

ヴァレンシーは、それを意識することで新たなる判断を生み出し、それを繰り返すことで変えることができると心理学的に説明しています。自分のヴァレンシーを知り、内観することで自分の傾向や特徴を知り、そのこと自体を意識することから自ら合理的な判断を考慮し続けることでヴァレンシーは変えることができるというのは、まさに認知行動メソッドという認知心理学において医療保険も効く療法的アプローチです。そこで注視するのが楽観と悲観です。

私は60歳の手前で一旦自分をリセットして楽観主義に自分をより意識づけるようにしました。私は自己肯定感の低さに長年揺さぶられましたが、何故か楽観主義が基調でした。これは本当に両親に感謝しています。どんなに苦境でもそれを超えて天寿を全うした父親の口癖「お前は最善を尽くしているか。最高の最善を」。これは幼少からの座右の銘です。だから自分の今は自分の選択であるという自覚は常に持っています。また逆境を乗り越えて常に新しいことを手掛けていた母親。そのポジティブさ。その母が言った「本当に苦しい経験をした人は皆明るい。そして前向き」。これも座右の銘です。確かに本当に貧乏な時代。人は協力的で底抜けに明るかった(長家が好例)。皆が昭和、特に30年代を懐かしむのもそこにポジティブや楽観の世界があったからだと思います。

「逃げる奴は逃げる」

例え説得してその場は留めても、そういうヴァレンシーの人間はまた同様の判断を繰り返します。そういう人は常日頃悲観を口にする人が圧倒的です。そしてヴァレンシーを転換させようとする努力をしない人は同じ判断を繰り返します。そういう人はまた他でも同じ行動を繰り返すことでしょう。どうするか。まずは自分のプリンシパルのチェックです。日々意識的に楽観の心構えや思考を高めていきましょう。成長は振り返りと気づき、そして実行の繰り返しです。

それから人材雇用の際には知性よりも品性です。それこそが最重点の要注意事項です。ともかく悲観的な人材を雇うと組織はガタガタになります。楽観や悲観は知性ではなく、品性の問題です。鍵はデリカシー(繊細さ)です。この話はまた今度致しましょう。皆さん。ともかく知性だけで人を見ると大怪我をするということだけは間違いのない話です。ヴァレンシーと心構え。本当に真摯に捉えた方が身のためですよ。

では来週もよろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?