• 社会に巣食うメンヘラ増加の解消に目を向ける。そしてモメンタムの使命を考える ~ソモサン第268回~

社会に巣食うメンヘラ増加の解消に目を向ける。そしてモメンタムの使命を考える ~ソモサン第268回~

発達障害とメンヘラは異なる

皆さんおはようございます。

最近「フェルマーの料理」というドラマにはまっています。今季で一番なのは「セクシー田中さん」ですが、二番目にこの作品を推しています。この作品、料理を数学の方程式に当て嵌めて高品質の料理を作っていく話なのですが、恐らくネタ的には「フェルマーの最終定理」という「三平方の定理」に関わる超難解な数学の証明過程を活用して、至高の料理を作り上げていく過程の困難さを描く内容といったところ(因みにフェルマーの定理はその後330年を経て1995年に完全証明が成されました)と思われます。数学における難問は現在NHKで「笑わない数学」と題して多々紹介されていますが、これらは最早芸術的に認知されています。料理もある意味芸術としての認知も高く、両者を引っ掛けての展開といって良いと思われます。

ところでこのドラマ少々引っ掛かる面があります。それは社会の、特に日本社会のズレというか、後進的な社会的認知の在り様が浮き彫りになっているということです。この認知、この作品だけが特別に問題というわけではないのですが、だからこそその全く問題意識なく描かれている姿は、ダイバシティが叫ばれている時代においては相当の歪みとして社会認知のあり方が映し出されていると云わざるを得ません。具体的には「発達障害」というものに対する認知です。

ドラマの中では主人公のライバルとされる人物が、かなり異様な偏執的性向として描かれていますが、理屈を知っている人から見れば、この性向は性質とか癖といったものではなく、明らかに自閉症スペクトラム障害の中にあるアスペルガー症候群の体を表す行動や言動がクローズアップされています。ましてその人物は更にその対象として現れるサバン症候群の様相も明示していました。

アスペルガー症候群とは、換言すれば「感情障害」といった症状で、一般にはASDと称されています。重要なのは昨今流行りの「メンヘラ」のような精神障害とは異なるということです。症状的にはメンヘラ同様に社会的な活動、特に対人活動に難があって、様々な支障をきたすのですが、メンヘラが後天的なものであったり、回復可能なものであるのに対して、ASDは先天的で多少是正はできても回復はできない存在であるということです。ですから大事なことは社会生活において様々なサポートをしていく必要があるという認識であって、それを過剰に取り上げたり、まして揶揄するものではありません。

この発達障害、昭和の時代までは知的障害もどちらかと云うと忌諱されたり、揶揄される傾向にありました。平成年代に入ってこういった風潮はようやく下火になってきましたが、情的障害に関しては未だに野放しといって良い状態です。このドラマで描かれる人物もある種「変質者」と映る描かれ方で、マスメディアの後進的な実態が鮮明になっていました。少なくとも、間違いなくメンヘラと障害者とを一緒くたに見ている不勉強さが見て取れました。

情的障害者が持つ特性やそれ故の生き難さは本人もそれを取り囲む人たちも不幸になってしまいます。無知無理解が生む差別は無知ゆえに罪意識もなく残酷です。情的障害者に関しても知的障害者や身的障害者同様にその特質や実態に対する周知と理解の促進、そしてサポートが望まれるところです。

そして障害者対応は当然として、メンヘラへの理解ももっと促進していく必要があるとみています。これがより理解され、自助努力だけでなく、社会的にお互いがそこに陥ったり、そこから抜け出していけるような関係づくりに人々の意識が向けば、現代の異常な誹謗中傷や正義ぶった(心的)暴力もかなり是正されるのではないかと私は考えています。

人はメンヘラ状態になると「思考力」が鈍ります。ですから第三者的に「あいつは頭が悪い。もっとしっかりと考えれば自分が何をしているか分かるだろう」とか「もっと論理的に考えれば自分がおかしなことを言っていることに気づくだろう」といった見方は的外れも良いところだということを認識する必要があります。

確かに無教養がなせる面もあるのは事実です。学習不足や経験不足からくるズレもあります。しかし過半数は心の歪みからくるものの見方のズレや思い込み、決めつけがその原因になっている場合です。先週クリティカルシンクという多面的な思考をご紹介しました。こういった思考が訓練されていないことからくる一元的なアプローチがもたらすズレは確かにあります。最近の若者は特にそういった思考法が学校教育の偏りや経験的な訓練がなされておらず、いわゆるヘッドトリップという直線的な思考でものを見がちです。

でもそれにもまして現実に起きているのは、クリティカルシンクを持ち合わせていても、その思考が発動しないくらいに心の闇が思考力を曇らせてしまっているということです。特に徐々に染み入ってくる闇は気づきにくいものです。

皆さんも「茹でガエルの実験」という話を聞いたことがあるかもしれません。蛙を熱湯に放り込むと、その熱さで飛び出ますが、蛙を水に入れた状態で加熱していくと、蛙はその温度上昇に気が付かず、やがて茹で上がってしまうという話です。これと同じで、心の闇によるネガティブ思考は徐々に全身を包みこんでいき、気が付かない内にやること云うこと皆ネガティブになり、それが他者や周りと離反を海、それがますます悪循環に嵌まる落とし穴になるということです。

そこに人が本来持っている自己防衛という心情がからんでくると、今度は「自己正当化」という心情に支配された思考の展開に陥り、さらに攻撃という情動的な防衛機制が加味されて、行動や言動が苛烈化していくと云った事象が起きてきます。これこそSNSなどに見られる誹謗中傷の原因です。自己卑下が強まると、他人の幸福が羨ましくなり、比較意識が苛烈化して、相手をマイナスに引き込もうと動き出す人もいます。これなどはマズローの云う「自我地位の欲求」が満たされない絶望感からくる心の闇の典型です。こうなると自分が何をしているのか、何を考えているのか自体が見えなくなってしまいます。

私も人生の中で三度ほどそういった経験に陥ったことがあります。中でもその最たる状況に陥ったのは二十歳前後の時でした。十代前半より目指していた研究生活を諦めざる得なくなり次が見えなくなった時、そして同時に社会的な存在認知が失われ、自己価値の喪失を体感した時期です。この孤立感は絶大でした。全く思考が働かなくなって、とにかく攻撃的で誰彼構わず自己主張に拘泥した自分の姿を今更ながらにおぞましく覚えています。その時に周りに居た数人の友人が、存在によって支えてくれましたが、あれがなかったら私は潰れていたでしょう。その時の主張内容は、一見理は立っているようですが、その視点は非常にネガティブで、決して友好的な主張ではありませんでした。あの時の皆さん、改めましてごめんなさい。でもまだ生きている人は今後も機会が持てます。本当にお世話になった友人の一人が火事で亡くなってしまったのだけは、ご恩返しができないままだったので、痛恨の極みです。

メンヘラ状態を脱するための方法

さて、今の社会において、こういった心境に陥る人の大半は社会の歪みからくるもので、それは不可抗力ともいえます。でもその中でも心が病んでしまう、メンヘラになってしまう人ばかりでもありません。ある程度は自己防衛策もあるように思います。

その大きな一つは自分を「メタ認知する(自己俯瞰する)力を磨いてきているか否かです。この力が一番鍛えられるのは人との忌憚ない対話をどれだけやってきているかです。「人は自分の鏡を持っている」といいますが、概ね「五人の鏡」を持っていればある程度自分の実像は掴めるのではないでしょうか。そしてもう一つは専門性を持った情報の確保です。今回のような話題の場合は、やはり「心理学」の情報要素だと云えます。裏付けとしては脳科学も役立ちますが、脳科学は心理学のエビデンスのような存在なので、脳科学だけを持って人の心理を語るのは危険です。一方で心理学も脳科学の裏付けがあると腹落ちに対して大きな支えとなります。両者はセットで考えるのが妥当です。

心理学からみたメタ認知の視点で、最もメンヘラに陥りやすい人の典型的特徴は総じて「アイデンティティが不在である」ということです。アイデンティティとは「自分独自の意志」「自分としての考え」のことです。元から未成熟な人もいますが、何らかの障害で壊れてしまった人もいます。そしてこういう人が取る顕著な反応は「依存的思考や行動」です。

ともあれモノでもコトでもヒトでも、とにかく自分以外の何かに精神的な拠りどころがないと不安になる人、言い換えると自分というアイデンティティがない人はメンヘラになりがちです。具体的には「自分自身で解決策を出せずに選択肢を他人に丸投げする人」や「不安やイライラといった気持ちの解消を他人に頼る人」がその典型例です。こういった人は、一人で何かをすることが極端に苦手だったり、特定の相手と連絡が取れなくなると不安になります。時には車や、仕事、スマートフォン、引いてはお金などが手元にないと不安になってしまうといった反応を取る人もいます。こういった人はまず持って感情的になりがちです。すぐに怒り出したり極端な言動をとったりと感情が暴走し制御ができなくなります。時には自分の生活を壊すまで何かに注ぎ込んだり借金に塗れたりと行動をエスカレートしてしまいます。またこういう人は依存しているということ自体をやめることにも恐怖を感じ、最早生活は破綻しているのにも関わらず現状を正当化したり責任転嫁したりしてしまいます。それによって、依存という根本問題そのものも見えなくなってしまいます。いわゆる「視野狭窄」に陥ってしまうのです。そして「これがないと生きていけない」「これしかない」といった極端思考に嵌ってしまいます。更には「これだけがつらいことを忘れさせてくれる」といった具合に考えを飛躍させ、更に「これ」という対象に依存をする悪循環を生みだしていきます。人間は、何かによって一つのストレスや苦痛から解放された経験があると、今度はそれを過大評価してしまいますが、それがたまたまな解決策であったり、一時凌ぎであったり、実際には悪化に導く策であったとしても、視野狭窄と極端思考によって解決策は一つしかないと思い込み、他の解決策が見えなくなって泥沼に嵌っていくのです。

ではどうすればこういった事態から脱却できるのでしょうか。またアイデンティティを形成したり復活することが出来るようになるのでしょうか。

その第一歩はまず感情を前向きに方向づけることです。人には理屈抜きに気持ちが高揚したり前向きになるようなリズムやビートやメロディがあります。それを耳にすることで、気持ちを最低限ニュートラルにするのが入口です。その際に考えも前向きになるような歌詞などがある音楽を聞くとその効力は倍加します。出来れば古くから馴染みの(特にかつての成功体験やポジティブ意識の時を想起させてくれるような)自分を前向きに高揚してくれるような楽曲を持っていれば、それを聞くのが最良です。

その上で「一つの考えに依存しない」とか「考えの依存先を増やす」ということを意識しながら「考えの多様化」を行っていきます。その踏み込みは、自分の考えを「自己評価」することです。その時に三視点法を取ります。三視点法とは、「その想念や思考を、①超ハッピーに見る、②超アンラッキーに見る、そして③最も現実的に見る」とか「①超性善説に見る、②超性悪説に見る、③性白紙説に見る」といったように必ず三つの角度から見るように自分を意識付ける方法です。ここで大事なのは、「前向きな考え方を自分で賞賛すること」を心掛けるということです。これが最初はなかなか思い浮かびません。でもこれは習うよりも慣れろ、です。リハビリだと思って取り組みます。もしも近しい人がいれば、その人と共に助言を貰いながらやるのも一手です。仏教の禅では「未来は未確定なのでそれをことさら意識しても意味はない」と教えますが、未来を確実にしようと準備的に考えるのは良いとして、「どうなるかなど」を思い巡らすなどは遊戯以外に本当に意味はありません。どうせ考えるならば未来をポジにしたいですし、未来をポジにするために準備することです。

そういった観点から未来をポジティブにしていくため、「考えの依存先を増やす」思考の訓練をして行きます。「富士山を登るにも一歩を踏まないと始まらない」ということです。頂上を夢見るよりも一歩目を確かなものにする思考を取り戻します。

そうして「これしかない」とか「これでなかったらアウト」という状態から、「他にもこれがあるから大丈夫」という選択のある思考状態に変えていくための思考の練習を繰り返します。

ある程度ポジティブな考えが出せるようになってきたら、今度は「自分で決断をする」という行いに取り組んでみます。要は「何かを決めるときに、誰かに頼らずに、自分で決める」ということです。まずは簡単なことから始めます。

例えば「レストランで何を食べるかを決めるとき、他人の顔色を伺わない」とか「晩ごはんを聞かれた時に「何でもいい」と答えない、といったレベルから始めます。そういうクセを治していくのです。 そしてそうやって、徐々に強い依存から抜け出していくことを目指していくのです。

えっ、それ位は出来ているって?それは貴方がまだメンヘラレベルにまで心が病んでいないから言える等可能性もあります。メンヘラになるとそういったことですら出来なくなるのです。

でもここで批判的なことを想起したり、口にする人こそメンヘラ予備軍だってことを皆さんは知っていますか。何故ならばこういった人は共感力が弱いからです。共感力はアイデンティティと密接な関係にあります。アイデンティティのしっかりしている人は他者と自分の違いを明確に認識しています。それには他者への感受力や共感力は外せません。独りよがりのアイデンティティを振りかざす人やアイデンティティを虚勢的にまるでメッキのように押しだす人ほど実際には人との間にあるべきしっかりしたアイデンティティを持ち合わせていませんし、それに伴って共感力も脆弱です。共感力の弱い人は感情の許容が非常に少ない人といえます。ですから大きな情的な波を被るといとも簡単に感情が波にさらわれてしまいます。そしてネガティブの坩堝に嵌って、メンヘラ状態に陥ってしまいます。

こういった人は厄介です。素直にアイデンティティが脆弱であると認知する人はまだそれを構築する入り込みようもありますが、虚勢を張って論理的に防衛をしていても、実は張り子の虎のようなアイデンティティの人はガードが硬い割に中身がないわけですから入りようもありません。何かで傷ついて表面のガードが壊れた時に入る機会もありますが、だいたいその時には縮こまって心の内側の殻に入り込むのが圧倒的で、強度の人間不信やメンヘラに瞬間移動しますから、本当に面倒なのです。

私の経験では、やはり対人的な経験不足な人に多く見られます。ここで云う経験不足とは、単に接触量だけの話ではありません。鍛えられているか否かの経験量で、例えば日本の学校教育の偏り的弊害で、いわゆる知力は高くても感受性が未熟な人が増えています。知力さえ良ければ高評価といった社会構造によって人間音痴がマネジメント側になって組織をメタメタにしているケースが跡を絶ちません。また二世のような人材が忖度や神輿担ぎによってチヤホヤされて全く人間学を身に着けておらず、人への関心がなく、それが組織や社会の共同体的な成長の足かせになっているケースも至るところで目にしています。

えっ、それでも知力的な論理力で人間を観察し、その見識で対応できれば何とかなるだろうって?いやいや共感力が磨かれていない人は、機微や暗黙知が経験不足で脳内のインデックスに形成されていません。特に感情がもたらす反射行動や感情に感情が呼応するといった動きは恐ろしいほどに読み取れません。仏教には古くから「阿吽」という言葉がありますが、これが感じれないのです。対人感受性や状況感受性は先週ご紹介させて頂いた「縁因果」における「縁」の世界です。この縁が感受性、共感性の未熟な人には感じれないのです。

こういう人はまず持って人が集まらないし、従いてくるなどとてもとても。ですから必然として孤立的になりやすいですし、行き着く先はメンヘラ街道まっしぐらという話になるのです。皆さんも熟練離婚や孤独老人の話を聞いたこともあると思います。これらは表に出てこない鈍感の末路であり、隠れたメンヘラの実態なのです。今隠れメンヘラが増加傾向にあります。老齢になって浮き彫りになってくる人もいますし、若者で早々に隘路に立たされている人もいます。ともかく世代を超えて増加中の状態にあります。

皆さんも組織に守られているうちは良いですが、晩節を汚した生き方にならないようにして頂けますと幸いです。それには何よりもしっかりと共感性をブラッシュアップするのが必須になります。そしてぶれないためには、借物のアイデンティティではなく、バランスが取れた柔らかなアイデンティティの保持が欠かせません。この有無に対する答えは、定年後に年を経て徐々に浮き彫りになってくることでしょう。

皆様に置きましては、隠れメンヘラになるようなことのない人生を是非送っていただきたいと祈念します。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?