• 今年は新たなる和魂洋才を実践してみませんか ~ソモサン第271回~

今年は新たなる和魂洋才を実践してみませんか ~ソモサン第271回~

皆さん、明けましておめでとうございます。

今年もソモサンを宜しくお願い申し上げます。

日本には古くから「和魂漢才」とか「和魂洋才」といって「日本古来の精神(考え方や思い)を大切にしつつ、西洋からの優れた学問や知識、技術などを取り込んで、両者を調和させて発展の起爆にする」という思想があります。

これは中国でも同様で、「中体西用」という考えがありますし、韓国でも「東道西器」という考えがあり、何れも同じ意味を持っています。

そもそも和魂漢才は平安中期に成立した概念で、当時学問の基礎を漢籍の知識に置いたのに対して、日常の知識や判断力、処世術などといった行動や思いを大和魂に置いたことに始まります。この体現は漢詩と和歌や唐絵と大和絵のように並び立っていましたが、徐々に官僚による国家運営やビジネスのエキスパートのような存在的役割と高等遊民のようなコスモポリタン的文化人のような存在的役割に分化されて行きます。まあ左脳的な役割と右脳的な役割といったように、両者は一体となって国体や文化、引いては人格の中核を作っていったわけです。

前者の代表が政治や経済活動ならば、後者は芸術や文化活動です。理と情の支柱とも云えます。

何れにせよ両者は一対の関係にあり、国家の繁栄や人格の形成、そしてバランス良い成長に寄与してきた思想と云えます。

しかし今日の日本にはそういった気概が失われてきている感があります。事実経済は減退し、じょじょにグローバル劣位になっている兆しが明確になっています。時折日本には元々根強い「西欧コンプレックス」があるという話を耳にします。明治維新の米英とのいざこざや太平洋戦争で負けたことに対して、その圧倒的技術差に強い劣等感を刻まれたことから、なかなかトラウマを払拭出来ない。それ故欧米がクシャミをすると日本は風邪を引くとまで言い出す人もいる位です。だからどうしてもグローバルに対して強気になれないと。確かに日本では国内発だと軽視するのに、西欧発だとそれを妄信的に取り入れる風潮があるのもたしかな話です。しかし、それは本当に劣等感故なのでしょうか。

いえいえ、日本はエコノミックアニマルと称された昭和40年代前半頃、コンプレックスどころか欧米を下に見る位の自信を持っていました。欧米でも日本式経営を絶賛していましたし、そこには日本を見下す姿勢はありませんでした。当に和魂洋才を体現している、工夫で欧米を超えて来ている、と称賛されていました。当時の日本は結構強気でした。

それがプラザ合意を機に、失われた10年と云われる90年代を経て、加速度的に経済力を失い、応じて自信も失ってきた感じがあります。その原因を私的に見ると、それは欧米コンプレックスによる弱気からではなく、工夫や開発の持続性を失った日本が、この30年を積み重ねた自らの歪みによってグローバルからの地盤沈下を招いてしまった結果と捉えています。

そしてその主因は「和魂洋才」の喪失。もっと言及すれば「和魂」の喪失にあると見ています。和魂とは大和魂のことですが、より深堀りすると日本人的な思想、芸術センス、創造性といった精神性です。

これが現代の日本の教育制度や風潮によって減失してきている結果、工夫や開発が出来ない状況に陥っているということに問題があると見ているわけです。

例えば日本人は海外に行って、ビジネス論理は駆使してやり取り出来ても日本文化や歴史、それ以上に芸術が語れません。深みがないわけです。

精神性は心理的危機の際に見られる判断やモメンタムに浮き彫りになるような「身体化された教養、身体的知能」です。工夫や開発力は論理的知能だけではなく、身幹に根付く身体的知能から生まれる感度、センサーの鋭さに大きく依拠しています。それは合理ではなく、ある種矛盾的な葛藤を経て、練り直され、熟成されていくというプロセスの経験から個々の中に醸成されます。これをアイデンティティと称します。

その領域までを欧米のものを取り込む状況にしたらどうなるでしょうか。日本人が西洋人になるということです。魂としての教養は単なる論理知識としての教養となり、断片化したものになります。当然知識人とは専門化ということになり、狭い世界のことを深く追求となり、教養はますます細分化、断片化されて行きます。だから全体が見えない。創造性や工夫の種が潰されていくわけです。欧米ではそれを避けるために学者でも実践現場に積極的に出て知識の統合を図りますが、日本では象牙の塔に籠もり、そういった葛藤を知らない内部思考の人を単に学者というだけで信奉します。

こういった教育方針や制度を誘導したのはGHQという話があります。それが確かであるならば、用意周到な洗脳です。アイデンティティを持ち、小国ながら闘いを挑み、奮戦した日本は欧米では心理的には脅威だったでしょう。これを懐柔する最善策は洗脳です。それを50年以上の計として仕掛けた連合国は周到としか言えません。確かに国体を壊し、思想を変えさせるための宗教や祭事への介入も道祖神や氏神に至るまででしたから、心理的な服從の為の教育戦略も凄かったのでしょう。事実その影響は現代でも大きいと言えます。

しかしながらそれを含めても今の教育やその影響を受けた人たちの教養の偏り、思考のあり方の偏りは憂い以上に危機感を抱きます。

狭い情報系の中で内包的に練り込んだ知識を軸に考えを展開する。そこに新規性の種は殆どありません。工夫や創造が起きる所以が見いだせません。

でも現代のエリートはそう教育され、それを究めた人が支配階級に行きます。組織内でも権力的地位に登っていきます。そして彼らはそこでの能力を尊び、またそれを楽に感じ、それに依存します。更に下にも無意識に強います(彼らはそれを正しいと信じ、それ故自分は上位階級になったと信じ切っていますから。権力構造の本質です)。そして文化は塗り替えられ定着します。日本的文化は変質していきます。

ではどうすれば歯止めは掛けられるでしょうか。端的に言えば「審美眼」を持つことです。特に日本文化に根ざした芸術に触れることです。でもその前に。まずは基礎力を身に着けましょう。いきなり素養もないのに和の芸術が分かるものではありません。イロハから始めることです。それはセンスを磨くことです。センスとは身体的知能のことです。具体的には体感的に五感で情報に触れることです。古くから日本では「考えるな、感じろ」と教えました。禅では「莫迦になれ」と訓示しました。

例えば情報収集という言葉があります。この言葉は一見外思考のようでそうではありません。「収集」とは目的的で非常に閉じた思考です。感度を限定させてしまいます。開放的にいうならば「接触」です。情報接触です。先入観や想念を持たず、まずは触れること、遭遇する行動を取ることです。そして感じてみることです。時には違和感や葛藤に出会うでしょう。その時これまでの自分の観念に取り込もうとしない、自分の枠組みによって理解しようとしないことが重要です。感覚から沸き起こってくる感情に身を委ねる、そして身体からの声に耳を傾けます。そうして自己概念の枠を拡げる体験をオーセンティックに繰り返すと、次第にまた自然にこれまでとは違った声が内側から聞こえてきます。自分の中の正しいとか間違いとか、好きとか嫌いといった二値的な思考や想念が中和されていく感覚にも出会えるはずです。論理思考は二値的世界、芸術思考は中庸的世界です。そしてそれこそが日本的思考、大和魂の根幹です。

経済的な論理思考の土俵では今の日本はグローバルで劣勢です。でも芸術思考の土俵ではかなり優位です。漫画、アニメ、音楽、運動でも欧米を席巻しています。日本らしさは和魂洋才の和魂にあります。

日本が経済でも再生するには、和魂を思い出し、取り戻すことです。それは芸術思考に目を向けること、そしてそれを育むアプローチを大切にすることです。「まずはやってみなはれ」。体験学習の要諦です。今年は皆さんもまずは考える前に動いてみて下さい。そして身体的知能をブラッシュアップして下さい。きっと新しい何かが目に耳に飛び込んでくると思います。

それでは皆さん、今年のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?