• AIがあるのにAI人間を作っても仕方ないですよね。来年は人間性に目を向けた人材養成をして下さい ~ソモサン第270回 ~

AIがあるのにAI人間を作っても仕方ないですよね。来年は人間性に目を向けた人材養成をして下さい ~ソモサン第270回 ~

皆さんおはようございます。

最近のAIの進化は累乗的な加速度の体を示しています。特に「大規模言語モデル」という「単語と単語の並びである言葉の量とその繋がり方を学習する」アプローチは、コンピュータの処理速度の向上に伴って、今や「一兆に及ぶ繋がり方」を身につけ、それを展開することで、相手の気持を推し量れるようなレベルにまで達し始めています。推し量るとは予測するということです。何を予測するのかと云うと「次に来る単語」です。

常識と称される意味合いも暗黙知と称される意味合いも全ては言葉の繋がりによる文脈で成り立っていますが、こういった文脈を伴った言葉をAIは大量に覚えながら、学習した様々な繋がり方の特徴から次の単語を予測するという演算処理の精度が今では100%に達しており、そこから生成される言葉が、対話的にはもはや「人の心」の反応に近似してきているといった按配なのです。

発達障害を認識する実験として「サリーとアン問題」と称されるものがあります。これは、「一つの部屋の中でサリーという子供とアンという子供が一緒に遊んでいて、その時に使っていたボールをサリーが箱の入れて外出した後、居残っていたアンがそのボールを引き出しに移し替えた後、彼女も出掛けてしまいます。30分後に部屋に戻ってきたサリーが再びボールで遊ぼうとボールを探しますが、彼女は何処を探すでしょうか」という問題です。普通の人であれば「箱」を解答します。事実としてボールがあるのは「引き出し」ですが、サリーの立場に立つと、彼女が出ていった時にしまったのは「箱」であり、「人の心」を持つ人にとっては普通にその場面を想起するからです。

通常「人の心」とは「無意識にでも他人の心を理解し、捉える能力」を云います。気配りも思いやりもこの心から発せられますし、忖度もこの心の現れの一つです。社会や対人関係をうまくいかせる能力であり、自分自身に向けては「物事を客観視する能力」でもあります。いわゆる内観力です。

発達障害とされる人たちは、生理的な脳の発達過程に齟齬が生じ、この能力に瑕疵があるために、そういった他人を推し量って物事を捉えられないために、事実関係しか認知できません。そのため先の「サリーとアン問題」では戸惑うことなく「引き出し」と答えてしまいます。この実験をAIに問いかけるとこの10年で目覚ましい発展が見られているのです。2015年当時では30%程度の正解率であったのが、今年に入ってからは100%になっているのです。それがGPTです。言語量の記憶(記録?)増大と演算処理能力の向上で学習能力が高まり、その精度が飛躍的に上昇したのです。

ここには重要な示唆があります。それは「心は言葉を覚えることから始まり、その言葉の量によって育まれる」ということです。心を理解する能力は言語能力の副産物であるという考え方です。確かに言葉を使う生きものとしての人が書いた文字や聞いたものには必ず論理的展開や常識があります。その中には結果的に常識や暗黙知も多く含まれていることになります。そして思考の大部分は言語に基づいています。ある言葉が出てきたら、その後には何が出てくるのか。言葉と言葉の繋がり方が分かるということは、文脈が分かるということです。ですから言葉をひたすら学習すれば、予測が出来るようになり、その精度はどんどんと高まるというのは確かな論理です。感情も言語化によって意味づけられますから、感情発達も言語能力によるところが大きいと云えますし、感覚も言語化で理解されます。

そういった観点から捉えると、誹謗中傷に明け暮れる最近の思考力にかける人たちの言動や感受性の無さは「心が歪んでいる」前に学習力の弱さ、環境的な甘やかしや放任が生み出している典型的な現象のようにも思われます。

「愛着障害」とか「大人の発達障害」と云われる現象があります。これは後天的な育成過程で生成される疑似障害のような現象です。最も主因とされるのが親、特に母親の愛情不足であると云われていますが、要は情操教育の欠落による「人の心」の未発達です。換言すれば「人の気持が推し量れない」「人に共感できない」といった態度行動です。この最も核となっているのが対話の欠如からくる「言語学習不足」「常識や暗黙知的な言語の脆弱さ」です。脳内の引き出しに「思考するための材料たる言語」が在庫されていないのですから、元より考えることができません。当然いくら指摘したところで「あんたは何いってんの?」といった感じです。悪びれるレベルでもありません。言葉が通じないレベルです。私的には「頭が悪い」ということの元凶です。

では「人の心」の問題は、その量や繋がり方といった論理的な言語能力だけが核的な論点なのでしょうか。

AIの実験やその成果で見られるのはあくまでも「生成」であり「連鎖的な処理過程」って、自発的な想起は対象となっていないということです。外的な入力があってこその活動であり、そこは人間の領域になっています。確かにセンサー技術も精度がどんどんと上がっており、一定の入力源にもなっていますが、ここで重要なのは「何のため」という「意味」とそれを具象化する「目的」です。これは前回にも話題にしましたが、人が人たる由縁であり、アイデンティティの土台です。

これは無意識的な生成であり、それを司っているのは「欲求」という「感情」的な反応活動です。確かに感情を「知覚」し、思考的に「認知」させるのは言語ですが、その発露は無意識的です。この欲求という感情的な動きはAIで生成できていません。では人の心にとって「欲求」はどのように生成されるのでしょうか。生理学的には「身体的な知能」がこの役割を担っているとしています。「身体的知能」とは「体感覚」によって生成される「高次感情」のことをいいます。高次感情とは「興味」「困惑」「罪悪感」「恥」「嫉妬」「軽蔑」といった意味を含んだ感情です。一方で「喜び」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「驚き」「恐怖」は低次感情です。低次には一次感情や二次感情といったものもあります(この話はまた別の機会に)。

こういった感情の動きが「動機」となって人は自発的活動を始めます。感情は思考と並立して時に思考を促進させたり、邪魔をしたりしますが、欲求と相まって人の心に対して「起爆」という重要な使命を担っています。これからのAI開発における課題は感情をどの様に生成させるかが焦点となるでしょう。

ともあれこの感情の存在を抜きにして「人の心」の問題は語れません。これは良いとか悪いと云った価値判断の話ではないのですが、将棋や囲碁の世界で「強い」と称賛される人達を見ていて、何処か無機質な感覚を抱くのは私だけでしょうか。囲碁も将棋も間違いなく「大規模言語モデル」の世界観にあるゲームです。一手一手をどれくらい多角的に先まで読んで駒を進めるかの予測能力が勝敗を決します。最近それこそAIが人間と勝負して勝利していますが、これはまず処理能力という「予測の枠が決まった中」での勝負と云えます。この中で最も枠が小さいのが駒数的かつルール的にチェスで、これはもう50年くらい前には勝敗は決していました。その次が将棋で、これはルールで「成る」という要素が入る分解析が複雑化しますので難しくなりますが、これも果たされました。そして囲碁ですが、やはりこの打ち手の量と応じた繋がりの複雑性で難易度が上がるものの、データ解析に対する処理能力に応じて脳の能力を超えるにおいて勝敗の行方は目に見えている話でした。テレビを見る限り負けた選手が「機械ごときに」といった臍を噛むような顔つきをする映像を目にしますが、別に悔しがる問題でもなく、必然の話だと思っています。最早AIの処理速度は「駆け引き」を上回る状態に来ています。

私的には、麻雀をAIが制せるかどうかに興味があります。麻雀は牌の多様性もありますが、4人対局で、しかも「自発的に降りる」といった駆け引きも行われます。この複雑性を処理するのはスーパーコンピュータでもなかなか難儀だと思います。

さてここで申し上げたいのは「駆け引き」という存在に関してです。「駆け引き」にはそれ自体が論理的であるという「思考」の側面と無意識に発動される「感情」の側面があり、例えば追い込まれた場合の「焦燥感」は「怒り」や「恐怖」という感情を想起させて、一定程度に思考を抑圧してしまいます。この感情的なやり取りが醍醐味でもあるゲームの面白さです。初めから答えが分かっているような対局には人はワクワク感もドキドキ感も抱かなくなり、合わせて人心は離れていきます。そう’ゲームの本質は感情のやり取りなのです。

ところが最近の対局を見ると、まるで人間の皮を被ったAIが局を進めているような錯覚を覚えます。感情がない人がもてはやされているような薄ら寒さを感じるわけです。

チェスも将棋も囲碁も何千年続いてきたゲームで、その時々で妙手が居ました。それでもゲームの楽しさを超えるようなAIのような打ち手はいなかったように思われます。それがここ数十年で異常なくらいに強い打ち手が生まれてきているのは何処か違和感を感じています。DNAが発達してきたというような話ではないような。そこに私はいわゆる発達障害の側面を感じるのです。人の気持ちを考慮しない社会。メンヘラは増える一方です。感情はなくても論理的な分析力は突出している。まるでAI人間のような人材が手放しで歓迎される社会のこれからは一体どうなっていくのでしょうか。

今共感力に劣る人が加速度的に増えていっています。自然の摂理として社会がそうなっていっているのでは違和感はないことでしょう。しかし現実はメンヘラの大量出現です。誹謗中傷は普通の人を巻き込んで社会を非生産的な殺伐とした状況に追い込んでいます。学歴社会という言い方は少しズレているように思いますが、演算処理的な思考力偏重の社会的教育や評価が感情軽視を育み、社会的競争力も奪い取っています。創造性は感情から生み出されます。無感情がアイデンティティ・レスな人間性を生み出し、そのクリティカルに傾斜した思考パターンがネガティブを基調とした場の空気を育んで、集団や個人の心を蝕んで、活力を奪い取っていく。この悪循環があちこちの組織を不健康な状態に貶めています。これがスタンダードになってきている状況は、まさに世紀末的な様相と云えます。

こういった現象は欧米でもおきているようです。問題の根っこがグローバル的な閉塞感も起因となっているからでしょう。それでも欧米の人は映画館でもどこでもとても感情的で、感情の表出も豊かです。多民族の中で社会を維持させようとする欲求が動機になっているのか、とても共感力を大事にしています。論理力も重視していますが、同じくらい感情力も重視しているのが欧米です。そして感情的に「ポジティブ」であることを意識的に心情、フィロソフィーにしています。欧米ではお掃除を生業とするおばさんでも、話を始める時には「私のフィロソフィーは」という一言から話を始めるそうです。感情を盛り上げてそれを維持するためにフィロソフィーに気を使っています。

何故ならば感情はフィロソフィーから生まれるからです。フィロソフィーとはアイデンティティのことです。そしてアイデンティティとは「生きる証」であり「活力源」です。欧米の人は「生きる」においてアイデンティティと感情的活動が根底であるということを文化的な中で無学でも弁えているといえます。感情が保つ力を無意識的にも重視して生活しているわけです。感情を軽視して感情を操れない日本人はかなり競争的に劣位になってしまっているように感じます。

少し現場での話で考えてみましょう。上司の承認を得たり、部下に仕事を進めてもらったり、お客様にお買い上げいただいたりと、「相手の理解を得て、相手に動いてもらう」ことは社会的存在の人間が生産性を上げていくには欠かせない活動です。ところが昨今の日本人の多くは「理屈で説得しよう」と努力します。人を動かしているのは99%「感情」です。だから相手の「理性」に訴えることよりも、相手の「欲求感情」に働きかけることによって、「この人は信頼できる」「この人を応援したい」「この人の力になりたい」という「意図的感情」を持ってもらうことが大切になります。「意図的感情」さえもってもらえれば、自然と相手はこちらの意図を汲んで動いてくれます。この「潜在意識に働きかけて、相手を動かす力」を「影響力」といいます。でも多くの人は説得で動かそうとします。こういった人は自分は感情で動くのに、共感力が醸成されていないので感情的なアプローチが出来ません。まして今日ではそういったセンサー自体が未開発な人が頻出してきています。自分自身も内観が出来ないので感情の認知が出来ません。挙げ句がメンヘラ状態への突入です。

ところで最近の考古学の発展も大したもので、最新のDNA研究では、日本人は異民族が雑種的に練り込まれた民族であり、そのDNAにはダイバシティな意識が組み込まれている、ということが分かってきているそうです。だから宗教なども他宗教を混成させることを違和としないし、文化などもどんどんと衆合させることができる。日本人にはそういった特異性があるのだそうです。歴史の中で民族を制するに当たって、武力で抑え込むよりも文化を吸収して融和策を取ったやり方がありましたが、日本は受動的にそういった衆合行動を古墳時代に取ったという価値観が隠れたフィロソフィーとして内在されており、多くの日本人はそれをアイデンティティとして醸成されているので、グローバルからみた時に「優しい」と受け止められて、感情的に好意に(お隣の国の一部を除いて)見られているのがインバウンドの原動力になっているようです。そういった意味において、その多民族性として意識的にアメリカと日本は価値観的に似通った面があり、それが統治政策の折に日本が分断されなかった一因であるという見解もあるようです。いずれにせよ、日本人は感情的にグローバルからは感情的に好かれる顔も持っているのはありがたいことです。

そういった力を有している内に、その本来の持ち味である「感情」を豊かに生かした社会活動や組織活動に対して、もしも感じる方がいらっしゃるのであれば、是非一考頂けますと幸いに思います。

今年もいよいよ年の瀬となり、今年のブログも今回で終了させて頂きます。来年こそは感情のマネジメントにも目を向けたバランスの良い活動で、社会や組織の発展が為されますことを祈念するところです。

では皆様、良いお年をお迎え下さい。来年は辰年、飛躍の年ですよ。

 

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?