人生のコーチングと仏教の力を考える ~ソモサン第267回~

怪談和尚が内観を促す方法がすごい!

皆さんおはようございます。

先週「持続モメンタム」について触れさせて頂いた直後にも関わらず、少々ややこしいお話させて頂きますことを前もってお詫びしておきたいと思います。

先週モメンタムを共同開発している川野氏との打ち合わせにおいて、以前よりモメンタムをより分かりやすくご理解頂く術として「焚き火モデル」という概念図を構想していまして、それが徐々に姿を明確にして参りました。その中で、どうしても「持続」という表現が「焚き火」のイメージとベストにマッチングしないということが焦点となり、この度焚き火のイメージに応じて、「持続」を「燃焼」という表現に改めることにしました。「(瞬間的な)着火」に対して「(持続的な)燃焼」という用語から、焚き火が徐々に燃え上がっていくイメージが鮮明になると捉えた次第です。今後はポッドキャストなどでも用語を入れ替えていきますので、皆様に置きましても何卒ご理解の程、よろしくお願いいたします。

それでは本題に入ります。先だって友人からの情報でネットの記事から「怪談和尚」という存在を知りました。何故そう呼称されるのか、という由来にとても示唆あるが含まれていますのでご紹介させて頂きます。端的に言いますと「説法をせずに怪談をするから」ということです。しかしどうしてそうなのかが焦点です。彼が僧侶になった理由には非常に生臭いものがあります。それは貧困から逃れるためです。30代位より彼は家族を抱えながらも職がなく、住むところさえままならない状況だったそうです。そうして雨露が凌げるだけでもありがたいという状況下で、ある廃寺直前の紹介があったそうです。檀家も殆どおらず、行ってみると雨漏りはするし、寒風は通り過ぎるし、といった惨憺たる様相だったそうです。そんな場所でも彼にはありがたかったそうです。当然そのような状態ですから人が来るものでもなく、食っていくためには人のいるところに出向くしかないと街中を徘徊しまくったそうです。しかし今どき坊主の説法など聞く人もなく、徒労の毎日。そんな中で、彼は町中の公園でふとある光景を目にしたそうです。それは背中に「唯我独尊」と綴った集団の姿でした。彼は「あれはお釈迦様が生まれた最初の時に口にした言葉。それを背に負う彼らはきっと仏教に縁ある人なのだろう」と思い、集団に近づいていったそうです。そして声を掛けました。「君たちはどういう集まりなのかい」。まあこれお読みになる皆さんはある程度ご想定がついていると思います。和尚も最初は驚いたそうですが、これも何かのご縁かと思い、「その背中の言葉の由来は知っていますか」という話から少し説法でも、と話を続けようとすると、言下に「そんなものは聞きたくない」と拒絶されました。「仕方がないな」と諦めかけたその時、一人から「坊主ならば怪談話位は知ってるのだろう」と問いかけられ、「それは様々な相談も来るからその中には怪談的な話もあるよ」と応えると、「それを聞かせろ」とせがんで来たそうです。そこでいくつかの怪談話をし始めると、その中の一人が「自分にも思い当たる節がある」と言い出し、そして「自分が今こうしいているのも、前にやった悪さの報いが来ているのかも知れない」と懺悔じみた言葉を発してきたのだそうです。その一人に続けて何人かが「我も我も」と同じような後悔と反省を口々に語りだしたのだそうです。和尚は「スッキリしたいのならば、何時でもお寺に来なさい。協力するよ」といってそこを去ったのだそうですが、その後何人かがお寺を訪ねてきて、説法を聞いたり修行を始めたりするようになったのだそうです。その内の数人は今でも修行に打ち込んでいるそうで、修行僧のようになっているそうです。この話を聞いて皆さんは如何思われますか。

以来和尚は説法を拡げようと教宣活動や檀家獲得の広報をする時は、まず怪談話からするようになったのだそうです。

「今でも何処で話しをしても説法をしようとすると皆煙たがられます。しかし怪談というと皆聞きたがります。そして耳目がすごく集中するのが手に取るように分かるようになります。そんな時その怪談にうまく説法を交えていくと、びっくりする位に皆説法の内容を素直に聞き入り、内観し始めます。そういった日々が続く内に、いつの間にやら怪談和尚と呼ばれるようになりました」

更に和尚は話題を続けます。「でもこの時に必ず心掛けなければならないことがあります。それは説法の内容が怪談の逸話や怪談の原因になっていることです。そして怪談が出来るだけ聞いている人たちにとって身近な世界の話になっていることです」。

そう和尚は漫然と怪談話をしているのではありません。「人を見て法を説く」で、例えば最初の暴走族の場合は「交通関係の怪談」のように彼らに関係するような内容であったり、その原因に彼らが良くある態度や言葉遣いに関しての逸話が混ざっていて、自分にも心当たりがあると思うような説法を選んだり、混ぜ込んだりと工夫をしています。でもとにかく面白いのは怪談を通すと恐ろしいくらいに素直に受け入れるのだそうです。

「怪談」。人は自分が理解できないことに関しては強い興味や関心を抱きますが、特に恐怖のような「意図的な感情」を揺り動かすアプローチには、内容的にはややネガティブがあっても感情的にはモメンタム的に情動的波動を立たせる作用があります。そしてそういった心情になった時、人は非常に心が研ぎ澄まされると同時に、まるで瞑想でもしたように心が無垢な状態になります。そういった時に内観させられたり方向づける意味合いや言葉は心に突き刺さり易いものです。またこの和尚は聞いている人たちの目線に合わせた話し方や平易な言葉を使って意味付けますから、これまた心に染み入ります。

本当に凄い弁者の方だなあ、と感服するところ大です。ところでこの和尚の怪談話や説法をかい摘むと、仏教らしく「因果応報」に関する内容が多く語られています。「因果」の考え。これは仏教の教えの中でも大変重要視されているところです。

クリティカルシンキングを超える縁因果思考 ~メタ認知と自信と自覚と縁~

昨今ロジカルシンクとかクリティカルシンクといった思考法が持て囃されています。その本質も「因果関係」の明確化にあります。そしてこの因果の関係を重なることなく、また漏れたり捩れることなく順を追って考えられる力が研ぎ澄まされている人を「頭が良い」と称し、そういう人を階層的に珍重するのが人間社会の基軸になっています。そして人はこぞってこのロジカルシンクを磨き身につけようと努力し、物事を判断するのはロジカルシンクが全てかの如く認知する社会になっています。

ところで「因果」とはどういった概念なのでしょうか。因果の考え方は、先述もしましたが東洋的には元々は仏教の思想に由来しています。因果とは「果(結果)」に対して直接する「因(原因)」という連続関係にある存在になります。そのためロジカルシンクは「垂直思考」とか「縦列思考」と称されたりもします。

しかし現実の社会では直接的に連続する関係は一本線だけではありません。複数本の連続的関係があります。つまり結果に対して原因は一つだけではないこともあるということです。寧ろ多いといえます。そこでロジカルとして因果のあり方を明確にするために複数本あると想定される連続関係を紐解いて、多角的に物事の因果関係を洞察し、真の姿を特定することが求められてきます。それを行う思考がクリティカルシンクです。このクリティカルシンクを駆使して、複数本ある因果関係の相互性を明確にして、その自明の理を見いだせる力を持った人を「賢い」と称しています。世の中には頭の良い人は結構いますが、賢いといわれる人はほんの一握りになってきます。

更に、仏教では「縁」という言葉もあります。「ご縁」という言葉で知られる「縁」とは「因に対して間接的に関わる関係の全て」を云います。二次的、三次的な因果関係です。「因縁」という言葉がありますが、これは「果(結果)」に対して「直接的間接的」な全ての関係を表す言葉です。まさに森羅万象は全て何らかの繋がりがあるということです。ここで押さえておかなければならないのは、思考には直接的な関係だけではなく、その直接に影響する二次的三次的な関係的存在があり、物事を捉える時には目先や一次的な因果関係を見たり、一本線だけの因果関係で判断するのではなく(思い込みとか決めつけはこの部類です)、垂直的に水平的に或いは斜め的に、原因や結果を多様にマルチプルに、システム的にそれを俯瞰したり、洞察することで物事を推察したり把握していかなければならない、ということです。私はこれを「時空間思考」とか「空間思考」と読んでいますが、日常では「直観」や「閃き」或いは「創造」といった思考の在り方がこれに当てはまるように見ています。

さてさて、この「空間思考」、仏教的には「縁因果」と称しますが、この思考法は「自覚」を促す上では必須の力といえます。自覚とは「自分の姿を別の角度から多様に見れる(俯瞰できる)状態になっている」ことを云います。これをメタ認知ともいっています。そして自覚の中でも人にとって最も大きな存在になるのが「自信」です。この自信。自分で自分を信じる想念です。「信じる」とは「自分で決めて納得する気持ち」です。詰まるところ「縁因果」の思考が出来ない限り自覚の境地には達せられず、それは即ち自信を持つことは叶わないということに繋がっていきます。言い換えますと「自信」を持つには、まず縁因果思考を磨いて、それを身につけることが必要である、ということになります。

また「自信」とは「自己肯定の道筋結果」でもあります。自己肯定とは「ありのままの自分であり続けることであり、またそれを曝け出せる状態」を云います。「それは清く正しいような絵空事ではありません。人は誰しも愛欲があり名利があります。そして時は自己中心的に陥り、中途半端になりがちな存在であるのが自然です。それが人の性である以上、それを全て受け入れ、そういう清濁を全て飲み込んだ中での自分という存在を信じきれないとありのままではないということになります」。「ありのまま」とは言葉的には簡単ですが、体現するのは難しい姿といえます。

ではどうするか、どうすればその姿に近づけれるでしょうか。まずは信じ切ることです。信心という言葉がありますが、信心とは「信じ切る」ということで、仏教では「信じ切るとは修行である」と説いています。そして「信じる」とは「義」の境地であることです。「義」とは「計らいを捨てること」であり、それは「無心になること」です。その上でその気持ちを保ち続けれるように、「因縁」を俯瞰すべく一心に集中し、「ありのまま(泰然自若)」の状態で居続ける努力から「自信」は「着火」し、「燃焼」して行きます。その具体的術として、禅では「瞑想」をし続け、浄土では「称名」をし続けて行きますが、どちらも目標は、得ようとする結果は同じ世界観です。

このような思考や取り組みはパッと浮かぶものでもなく、またそのような力を持っている賢い人は稀有です。私たちのような凡人には入口としての誘いが必須になります。そういった観点で「怪談和尚」のような存在は非常にありがたい存在だと私は思います。人生の名コーチが、人を生き方的に高めて行くための実に合理的な理論を展開している好例ではないかと尊敬するところです。自分の口の利き方や態度が何処からきていて、何故そうなっているのか。そしてそれがどう影響していくのか、どういう縁因果を生み出すのか。これからどうすれば自分に自信がつき、自肯定的になり、ありのままの境地に至れるのかの道筋を、怪談話で注目させ、興味を持たせて、内観させ、欲求を駆り立てて、行動に導く。本当に言うこと無しです。暴走族が修行僧になり、人として自信をつけ、社会にお役に立っていく。人は生来はポジティブで思考的存在です。ただただ何らかの歪んだ体験と迷いが悪循環を生んで可笑しな状態になっているだけなのです。人の動きには全て何らかの理由があります。それを導くのが先達の仕事だと強く思う今日この頃の私です。

ぜひ皆さんもご参考にしてみて下さい。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?