グリットとモメンタムの類似点と相違点 ~ソモサン第264回~

マネジャーの機能の本質に立ち戻って考えよう ~「責任」のないマネジャーはマネジャーではない~

皆さんおはようございます。

昨今マネジャーの役割について議論されることが増えてまいりましたが、このマネジャーという言葉、というか概念には深い意味合いがあります。それは「マネジメント」の担い手であるということです。えっ、そりゃそうでしょう、どういうこと?といった声が聞こえてきそうなのですが、巷間を見渡していると、マネジメントの意味合いをきちんと明示的に捉えている人は多くないという印象があります。まず口をそろえて言うのは「管理すること」です。では管理するとは何でしょうか。「組織を取り仕切ったり、良い状態に維持すること」というのは三省堂の解釈です。更に「取り仕切る」とは何か。「物事を引き受けて、上手に扱うこと」と説明されています。どこまで行っても具体的な行為が浮かんできません。一つだけ三省堂では「責任を持って行う」という説明がありますが、これはマネジメントの一面を端的に語っている説明と云えます。人によってはちょっとおしゃれに「バランスを取ること」というコメントをする方もいらっしゃいますが、「趣旨としては的を射ている」と同意は出来ても、実践の経験がない方にすれば少し難しい説明のようにも思えます。マネジメントとは人によって随分と捉え方が異なる、どこかふんわりとした概念であるというのが実感です。引いてはマネジャーという仕事もふんわりとした感じになってしまい、それが今ひとつマネジャーという立場をあやふやな存在として認識したり扱ってしまう原因になっているのかもしれません。しかし「責任を持って行う」立場であることだけは間違いのない話です。その責任という観点から見た場合、一般にはマネジャーの仕事にはもう一つの役割が潜んでいます。それは「ガバナンス」という仕事です。ガバナンスとは「統治」とか「支配」という言葉で、これは「意志や命令において人の行いを規定し、束縛すること」「監督や指図して仕事をさせること」という意味になります。組織や集団において、その秩序維持や生産向上のために権力を行使するという役割です。

ハーバード大の名誉教授であったR.ベックハードは組織を構成する3要素として①物理的な「入出力としてのシステム」②心理的な「社会的なシステム」そして③事理的な「権力的なシステム」を明示しました。これは経営学的には、①における科学的管理法や管理過程論、②における人間関係論(ホーソン・メソッド)、そして軍隊からの③組織統制の4原則、仕事の三面等価性といった実践的な理屈として纏められて適用されています。

実は最近マネジャーの仕事として、このガバナンス面についての理解が非常に抜け落ちてきているために起きている組織的な活動上の弊害があります。例えば「仕事の三面等価性」ですが、これは今年の前半でもご紹介させて頂いた如く、組織上の行動ではその立場において、求められた仕事や目標に応じた義務と権限と責任が同じ価値配分で課せられています。一般社員はその立場に応じた、課長や部長はそれに応じた、そして役員はやはりそれに応じた義務と権限と責任の配分になるということです。それは一般社員は課長の責任を負う必要はなく、当然それに値する権限も与えられないということを意味します。もしも一般社員が課長程度の責任を負うべき事態があるとすれば、それは同時に課長からそれに値する権限を移譲された場合に限ってと云えます。勿論その時に課長は自分の立場における権限を超えた移譲をすることは出来ませんし、それをした場合は越権行為として処罰の対象となります。これは役員と部長の立場においても同様ですし、部署間での横関係でも同じことが云えます。職務分掌上で総務部門が担っている仕事を生産部門が担ってはいけません。それを逸脱する場合は、部門を跨る上位の立場の人の権限委譲と配分が責任を交えて指図する必要があるのです。弊社の専務が「以前のマネジャー像は「鬼軍曹」でしたよね」といった話をしていましたが、「鬼軍曹」とはその面に特化した言質ですが、その仕事を外したマネジャーは組織的にはあり得ません。

先だって以下のような内容の記事がネットで掲載されました。「ホワイトカラーで転職したが、上司から『ジーパンでの出社は駄目だ』と叱責された。今どき古い価値観でうんざりする」といったものでした。一見すると確かにその様な感覚もします。しかしこの礼儀に対する組織内の統制にはそれなりの意味もあるのです。昔は組織上での立ち位置をホワイトカラーとかブルーカラーといって、それを差別対象のような上下関係で見る節もあり、ホワイトカラーの威厳としてジーパンのような作業着を履くことを戒める暗黙裡のルールがあったのも間違いのない話です。これは今でもドレスコードとして残っています。しかし組織人としてガバナンス的に統治する側の立場にとって、自らの振る舞いを戒めるのは、寧ろ責任を担う立場としては道理と云えます。事実組織ではその秩序維持において「階層」というものを設けて統治をしており、社員はそれを承諾した上で「労働契約」によって入社しているのです。実際にきちんとガバナンスが働いている組織ではその状況を取引する際の判断材料として見ている会社も多々あります。組織人としては組織保全のために当たり前のように押さえて置かなければならない話と云えます。しかしこういった規律を嫌う若い人の批判的な声は枚挙に暇がありません。これを無知と断じるだけでは埒は開かないでしょう。この記事を見ると、問題はおそらく上司の物言いにあったと云えます。要は「きちんと論理(なぜそうなのか)を教えていない」ということです。ただただ常識だと断じるばかりで、道理を話していないのです。無知では致し方ありません。論外です。おそらくはこの上司もその上から意味なく指図されたのでしょう。そして盲目的に従ったのだと思われます。これではこれから先の時代はいけませんね。

組織においてガバナンスは欠かせません。例え個人的には不自由でも、組織全体を効果的に運営していく上では守るべきルールや守るべきノルム(規範)、そして守ったほうがベストなノルム(規範)があるわけです。(因みに守った方が良いルールというのはありません。)

私的にはマネジメントは「人の感情」を差配する活動、ガバナンスを「人の論理」を差配する活動と分けています。感情にはバランス取りが欠かせません。状況対応が優先します。しかし論理は別です。これは有無を云わせない約束事と云えます。

マネジャーが立場に応じた統制を発揮するのは「仕事」です。権限を行使するのも、責任を負うのも仕事です。それを行わないのは責任逃れです。それではマネジャーの資格はありません。マネジャーの立ち居振る舞いは須らく論理が軸でなければなりません。

「権限を行使するのがマネジャーの責任です」そして「その範疇は組織の上位になればなるほど高まります」。当たり前ですが、「それに応じて責任も高まります」。ところがこういったルールを履き違えた人たちが組織を混迷させるケースが、特に中小企業やベンチャー企業で頻出します。その一つは「職務分掌」というルールを軽視して、非論理的に組織を運営し統治してきた組織が、その規模の拡大や複合化によって破綻する場合です。属人的なやり方を超える組織体になった時に対面的な情報交流に亀裂が起き、そこから判断の遅延や瑕疵などといった決壊が生じる場合です。追い風のときは人は誰しも前向きで視点も外に向いていますから、内部の問題には目が向きません。ところが空気がマイナス基調になった時に、一気に後ろ向きな濁流となって押し寄せてきます。そこに防波堤を作っていないのですから、勢いを止めようもありません。どんなに強いトップリーダーでも抗しきれない状況に陥ります。ましてそのトップも下り坂になっていればどうしようもありません。歯止めのルールがないということは内部の人たちも無知ということです。お互いが自分が守られない中で相互不信が温床的に広がります。

~追補:世襲経営におけるマネジメント不在~

それ以上に問題なのが、「二世病症候群」という権力の暴走です。ここで云う二世病は宗教的な話ではありません。企業における三面等価性と権力行使における歪みの話です。暴走には使いすぎや誤った使用といった能動的なものもありますが、「必要な時に使わない」といった消極的な「責任逃れ」といったものもあります。いずれも立場にあった仕事をしていない人が君臨し、全く統治をしないことから生じる組織の瓦解というのがあります。諄いようですが、組織における権力はあくまでも仕事、その仕事を担う立場の人に課せられる存在です。それは出自や人格、能力といった属人的なものに課せられたものではありません。それを勘違いする全く論理のない動きを二世病の人は行い、身に合わない権力を振りかざして組織を崩壊に瀕しさせてしまいます。平たく云うと専務なのに専務の機能をしない。常務なのに常務の機能をしない。取締役がその職責を行使しない。そしてそれぞれが自分の職責を認識していない。またお互いが権力利益にしがみついて認め合わず牽制ばかりしている。この場合の権力意識は覇権的なものだけではなく、自己保身でやるべきことをやらないということも含まれます。いずれも利己権益です。こういった属人的な動きで正しい組織的なガバナンスを侵害してしまうというのが、いわゆる「二世病症候群」です。

さらに、そこから派生して厄介なのが、分不相応の権力を手にして、形ばかりの立場になった二世になった人の振る舞いです。分不相応とは、自らが勝ち取った権力ではなく、またその責を果たすに足りうる人格も能力もないのに権力のみを振りかざして組織を疲弊させる存在です。酷いのになると義務も果たさず、仕事の三面等価性自体を破壊してしまう輩もいます。自分の権限が義務と責任に連座して存在すると云った基本が論理的にも、時には認知的にも理解、受容が出来ていません。果たしてこういった人材が社長という最高点になった場合、組織の行く末はどうなるでしょうか。火を見るに明らかです。

ところで「権力行使」への理解について、何を見ればうまくいっているとみていいか、というリトマス試験紙のようなものはあるのでしょうか?結論としてははっきりありまして、まずは、「組織統制の4原則」などが一つの目安になります。4原則の中でも、まずは「指令系統の一元化」です。これはレポートラインの原則とも云われますが、自分にとっての指令者は直接的な上司一人である、というルールです。つまりある仕事に対してその執行を指示できるのは唯一人であるということで、ダブルバインド(二重拘束における矛盾)を避けるルールです。これはその直接上司が指令に対する全責任を担っているということにも繋がります。例え役職的には同じ部長であっても、片方が取締役の場合は取締役の方が上位職であり、しかもその内容が取締役が管掌する内容であれば、その専門的な義務(責務)において、処置すべきことへの責任を担い、部長に結果を出させる、ということになります。そうガバナンスとは責任を担って執行させることです。マネジメントとは違う部類の話です。そしてその件に対してはその上位である常務や専務であっても直接部長に関わってはならず、そういった役職の人は当該取締役と報告や承認的な関わりを持つという話になるわけです。それを超えて部長に関わると、それは越権ということになります。

このように論理として「仕事の三面等価原則」という組織における権力(パワー)を規定する存在がありながらも、それに対する無知が組織運営を停滞させるのは残念な話なわけですが、二世病症候群のタチの悪さは、二世が親などを見て、その日々の背中から「自分でも出来る」と勘違いしたり、親も二世を「我が子可愛さが故」という感情論を混ぜ込んで、「こいつにやらせたい」とこれまたバイアスを噛ませることにあります。また社員の忖度的な態度などから対人的な躾が足りていなかったりしているにも関わらず、親も子も慢心で周りや状況をしっかりと見ていません。このような盲目的な態度が組織を私物化させせっかく築いたものを一夜に破壊してしまうのは惜しいとしか云いようがありません。晩節を汚さない生き方をしたいものです。

でもこういった原則を盾にすると話が進まなくなるのも事実です。何せルールもなく、無知な人材が見合った権力を担っている場合、それを論理的に展開するには無理があります。まして二世病症候で権力に対する理解も乏しく、親からの影響で「それが当たり前」というバイアスを持ってしまっています。これを指摘すると殆どの場合感情的になり、ネガティブに反応し、そこに学習や内観が生まれません。当事者的には全く慨嘆する場面です。でも組織を発展させていくためには分かっているものが根気よく教育していく、そしてまずはルール整備に着手していくしか方法はないというのが実感です。

以上のようにルールと実践とを見ていく限り、どこかのコンサルが云うような「ルールや仕組みづくり」が組織を変えるというのは浅慮としか云えません。コンピュータの世界でもハードウェアだけではなく、ソフトウェア、そして更にはヒューマンウェアが揃ってようやくものになるのが実態だからです。ルールや仕組みは必要条件ではあっても、十分条件ではありません。

グリット発動にはモメンタムが不可欠!?

それでは先週ご紹介し始めたグリットについて話を進めていくことにしましょう。グリットはペンシルバニア大教授のA.ダックワース氏が「社会的な成功は、才能や学歴ではなく、やり抜こうとする気概による」ということを理論化した説です。ダックワース氏はペンシルバニア大でポジティブ心理学のM.セリグマン教授に師事し、10年の調査や研究でこの学説を上梓しました。弊社では同じくセリグマン博士の元で学習した日本のポジティブ心理学のぽイオニアである宇野カオリ氏のご紹介で存在を知った経緯があります。

グリットによる調査データでは、

  • 成功には、生まれ育った才能や知能は関係しない。

②失敗にめげずに挑戦し続ける気概が大切である。

③長期間で継続的な粘り強い努力が鍵になる。

ということで、特に後天的で可変的な力がやり抜く上で重要であると説いています。

グリットとはGuts(根性)、Resillience(復元)、Initiative(主体)、Tenacity(執着)の4文字から構成された要素によってなりたっていて、この中のレジリエンスがポジティブ心理学としても弊社のモメンタムとしても大きな共通点になります。モメンタムに直接的に関連するのは、厳密にはレジリエンスを構成する重要な能力の一つであるリーチ・アウトの概念です。

それではグリットの概念とモメンタムの概念を練り合わせてみていくことにしましょう。

グリットの云う「やり抜く力」もモメンタムの云う「やろうとする力」も共に目標意識の有無が大事になります。しかし両者の違いは明確です。まずやり抜く力は人生哲学にも通じる究極的目標の存在を重視します。またその目標と当面の目標との繋がりも大切だと説きます。一方やろうとする力は、寧ろ当面の目標を重視しています。感覚的な一次感情(ホットモメンタム)を盛り上げながら、それをポジティブな二次感情(クールモメンタム)に繋げるための当面の意味合いや目的の想起を念頭にしています。実際、モメンタム、特にクールが弱い人は、当面の目標すら描けない人が多いと云えます。だからまずは目標意識を持つことが大切になってきます。モメンタムが求める目標は、究極の目標に貢献する下位目標と理屈っぽく言うこともかのうではありますが、なにせともかく感情的に飛びつける目先の目標です。モメンタム無くして動きはなく、動きなくして手応えはなく、手応え感なくしてグリットはないというのが根本的な関係です。そして出来ればその目標がより持続的なモメンタムとなるように、グリットのような世界観があると好ましいということになります。

ところで「マインドフルネス」の考えは両者をゴチャ混ぜにする場合があります。確かに精神的に満たされ、かつそれが安定的なものになるには、より大きな目標を描く方が気持ちが豊かになっていくのは確かなことです。しかしながら、それと「心が起動する」のは別です。行動を促すのはその行動に直結する目の前の目標の保持の方が必須になってきます。その気としての行動には、「なぜ今この行動を起こすのか」を、理屈だけではなく、感情を奮い立たせる具体的レベルとして心に染み入らせる、そのような目標が必要なのです。

そういった観点から見ると、マインドフルネスの考えはどちらかというとグリットの啓発を念頭にしている感があります。特に欧米ではその傾向が強いと云えます。欧米人は狩猟民族的に生来モメンタムは強い民族系統と云えます。だからグリットのほうが関心が高くなります。反面「あって当たり前」の如くモメンタムの啓発は抜け落ちがちになります。実際に欧米から入ってきたマインドフルネスの技術にはグリット的な方向付けのアプローチはあれど、モメンタム的なアプローチは希薄です。一方日本、特に今の日本では農耕民族系統による集団主義の中で付和雷同的に周りがもつ目的に便乗して生きるのが大多数の民衆意識でした。ですから自立した目的形成を苦手とします。目的不在ではクールモメンタムを発動させるきっかけが得られません。そのために内心的にモメンタムが醸成されて来なかった文化があります。それが現況のグローバリゼーションやダイバシティの進展で、一挙にそれが求められるようになりました。そこで心の疲弊が生まれ、マインドフルネスが注視されるようになったわけです。でも欧米由来のマインドフルネスはグリット的な世界観です。メディテーションで心を整えて、やり抜く力を喚起させる。日本とは土台が違うわけです。だから幾らメディテーションをしても、現実的な行動が為されないことになるのです。人はああなりたいの前に、あれならなれるで動き出すものです。日本人で欲されているのはその点です。

先にも上げましたが、残念なことに日本では集団主義の影響で、突出した存在を疎み、横並び意識が強く蔓延っています。これは出る杭は打たれることになり、どうしても褒めるよりも戒める空気感が強く支配しています。結果ネガティブが基調の社会風土になっています。そのため日本では成功しても成功感や自信が生み出され難い風潮が蔓延っています。そもそものところでモメンタムが啓発され難い風土があるわけです。これでは口先でいくら「ポジティブに」と宣っても、現実的には根を張った木を動かすに等しいエネルギーが求められることになります。

今グローバル化の中でそれを是正しようとするうねりが始まってはいますが、歴史の重さは如何ともし難いものです。そう簡単には変わらないのが実情です。これは特に古い企業、それもかつて成功体験を持ったような組織文化を持つ企業ではその空気は魑魅魍魎の如くに顕著といえます。

反対にこの文化は我慢強さを醸成し、それが日本人的にはグリットを高めることに繋がっていますので、日本が欧米よりもグリットへのニーズを高めない理由になっているのかも知れません。日本人にとっては「やり抜くのは当たり前」といった認知があるわけです。特に企業では長らく年功序列、終身雇用といった独特の制度が、「我慢強さ」という価値観を明示的なルールとしても助長してきたのは間違いのないところです。

それでも昨今の若者を見る限り、その風潮は大きく変わりつつあります。これからは日本でもグリットへの関心が高まるのは間違いと思われます。これは欧米におけるモメンタムへのニーズも同様です。

 

~モメンタム啓発のために目標意識を醸成してみよう~

ではどうすればモメンタムは啓発されるのでしょうか。

その一つにあるのが、モメンタム啓発に繋がる目先的な目標意識の醸成です。今回はその方法を一つご紹介しておきましょう。

まず、今やらねばならないと思う目標を25個書き出してみます。

次にその中からやりたいことと楽しい(面白い)ことの2つで、それぞれ10点満点で評価してみます。そして2つのスコアを掛け合わせて、その総得点の上位から目標を5つ選びます。更にそこからこれなら今からでもやれるかも知れない、やる気になれると感じる目標を一つ選び出します。

そして選ばなかった目標は選んだ目標に対して、それが動き出すまでは絶対に頭に浮べないという決心をします。そうしてその決心は一つの目標が「動き出した(出来たではない)」という達成感を感じるまで何度も繰り返します。要はやり直します。ともかくまずは選ばなかった方を「忘れる」動きを取ります。そして集中力を刺激します。

それから、その上で、一旦決めた目標にはしがみつきましょう。ともかく期間を決めて必死に追ってみましょう。しかし期限になったら、今度はそれに拘らず手放しましょう。そして改めて次のやれそうな目標を再設定します。大事なのは、やることであり、やった結果を感じることです。出来たか否かには拘らない、というよりも拘ってはいけません。さして重要な目標を設定したわけではないのですから、重く考えないことです。出来たら万歳です。出来なければまあそんなものか、です。臨機応変に態度を切り替えることが大事です。決して焦らないことです。そして出来た時の至福感だけを求めることです。

まずはやってみて下さい。次回もグリットを使ってモメンタムを深堀りしていってみたいと思います。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?