• 倫理という観点から目的意識を持つことの重要性を考えてみる ~ソモサン第261回~

倫理という観点から目的意識を持つことの重要性を考えてみる ~ソモサン第261回~

皆さんおはようございます。

概ね先週でモメンタムという世界に対するブログ解説は一旦休息することにしていたのですが、一つだけ書き残していた内容があったので、今週はその補足的な話からブログを始めたいと思います。

書き残しというのは、先週のモメンタム・エンジンのところでお話させて頂いた「自己暗示」とモメンタムとの関係です。モメンタムとは「奮起の発火」ですから動きの起点を意味しています。暗示とは奮起の材料のような存在ですから、奮起という動きにおいて、単に暗示するというアプローチだけを行っても意味をなしません。動きを起こすには、無意識下に仕込まれている暗示を意識上に浮かび上がるアプローチが必要になります。それが「思い」に火を点ける行為になります。そうクール・モメンタムとは、イコール暗示なのではなく、暗示を呼び起こす「行為」のことです。

クール・モメンタムには様々な方法があります。例えば暗示されたある言葉や行為を想起するだけではなく、想起のスイッチも合わせて暗示するような暗示の掛け方があります。これには催眠法を併用することで、催眠状態覚醒されたあと「暗示されたこと自体をすっかり忘れるように」という健忘暗示と一緒に掛け、ある言葉や行為をスイッチとして指示を思い起こすという後催眠暗示といった効果が高い方法もありますが、自己暗示の場合、特に催眠法を使わなくても、覚醒スイッチによって奮起のきっかけとなる目的意識が浮かび上がる二重暗示の掛け方でも十分に効果が期待出来ます。

更にホット・モメンタムにおけるクロス・モーダルをクール・モメンタムにも派生させた「プルースト効果」のようなアプローチもあります。プルースト効果とは、例えば「ふと懐かしい香りがしてそれにまつわる昔の出来事を思い出す」といった様に、香りを嗅ぐ事により、その時の記憶や感情が蘇る効果のことを言います。「プルースト」とはフランスの作家のマルセル・プルーストのことで、その半生をかけて執筆した大作『失われた時を求めて』の中で、語り手が口にしたマドレーヌの味をきっかけに、幼少期の家族の思い出が蘇る事から香りによって記憶等が蘇る現象から名付けられました。香りで記憶がフラッシュバックする事は私たちの日常においてもよくある出来事だと思います。例えば、故郷特有の匂いや香りがあって、街角でそれに似た匂いがすると田舎のことをふと思い出す、といった塩梅です。香りは「サイレントランゲージ」(沈黙のことば)として、古来いろいろな神事や儀式の場で使われてきました。お寺や神社に行くと特別な気持ちになるというのもプルースト効果の影響が関わっています。

プルースト効果は「香り」の効果ですが、クロス・モーダルによって音色やリズムのような音や音楽も、或いは肌触りや味わいも同様のフラッシュバック効果があります。こういった五感的感知による知覚によってクールモメンタムを発動させることが出来ます。更にはそのフラッシュバックをより鮮明にする目的や心情にマッチした歌詞や言葉があれば、記憶の呼び起こしは強いものになります。

ペップトークはこういった心理効果を有効に使ったアプローチ方法です。ペップトークは口癖を用いて、暗示の効果をタイムリーに呼び起こすためのスイッチを予め織り込むという形で二次暗示を掛けるモメンタムのアプローチ方法です。ペップトークは自己応援であり、自己賛辞を通して自分を勇気づけ、気持ちを盛り上げていきます。無論マネジメントとして他者に使うと部下の動機づけやチームづくりに多大な効果を発揮すること請け合いです。むしろマネジメントの中核的なアプローチ方法と云えます。

マインドフルネスとメディテーション、リーチアウトとモメンタム

では今回の本論です。現在触れている「モメンタム」心理学のように人の心に関する問題解決に対して精神科医の川野先生と協働でアプローチの開発や実践を行っていて、その専門領域と私たちのコア・コンピタンスは非常に高い親和性を持っていることを実感します。川野先生は、医師としての心療内科と僧侶としての禅の世界の領域で幅広くご活躍されています。

これまで心療内科における発展的な課題解決に向けての取り組みとして「マインドフルネス」や「モメンタム」の持つ作用や効果については何度かご紹介させて頂いてきました。因みにマインドフルネスとは「心の状態」を指す言葉で、それも「リラックス」の様な意味ではなく、「心を集中して留める」と云った意味になります。そしてその方法として活用される「瞑想」はもともとは「メディテーション」と云います。時に専門家であっても混同して使っている人がいますので注意が必要です。ここでなぜその定義に言及させて頂くのかというと、「モメンタム」は「マインドフルネス」に対応するのではなく、「メディテーション」に対応する存在だからです。つまり「モメンタム」もあくまでも手段であって、求めるのは「リーチアウト」とか「ガッツ」、「やる気」や「動機付け」といった状態を生み出すことだからです。時には「マインドフルネス」のための手段という場合もあります。ここの理解は非常に重要になります。マインドフルネスな状態になるにはメディテーションというアプローチが一般的ですが、切り口は一つではなく、モメンタムという切り口で得られる場合もあるということです。「ホットモメンタム」は気持ちに火を点ける手段であり、「クールモメンタム」は思いに火を点ける手段です。手段と云うことは目的がなければ成立しません。目的は「火が付いた状態」です。ある意味これも集中した状態と云えます。メディテーションが静かな集中であるならば、モメンタムは熱い集中を生み出す手段です。

人が行動を起こす時には何らかの運動エネルギーを要します。そのエネルギーをメディテーションだけで内的に補充する人もいれば、それだけでは足らずに外的な補充やそのエネルギーを更に自噴させる勢いづけを必要とする人もいます。それでも足らずに他者から後押しを求めなければならない人もいます。最後になるとコーチングやファシリテーションのようなマネジメントが必要になります。JoyBizがモメンタムを提唱したのは、日本企業や社会の現状を俯瞰すると、GAFA企業の様なメディテーションでマインドフルネスが得られるような、それこそクールでホットなポテンシャルマインドを持っている人は非常に少ないのが実際で、欧米のアプローチを推敲もせずに鵜呑み的に物まねても果実は得られないからと見切ったからです。そしてそれを補完する手段としてモメンタムを取り上げたわけです。川野先生は心療内科の実務の中からクライアントの現実を目の当たりにし、モメンタム的な支援の重要性を認識して、このアプローチを各界に広く普及する必要性を考えられた流れがあります。

禅の哲学は「善」の追求 ~アリストテレスと禅を考察する~

ところで川野先生は先に取り上げたようにもう一つの専門性をお持ちになっています。僧侶としての川野先生の宗派は禅宗です。もう一つの専門性は「禅哲学」です。この禅の思想が何故モメンタムの概念に親和するのか。それについて考察して行きたいと思います。

これまでモメンタムにはホットとクールがあると紹介させて頂いてきました。ホットとクールは一体となって車の両輪のようにモメンタムを構成しています。ホットが感情を司り、クールが理性を司っています。ホットだけだと瞬間的で刹那的な着火に終わります。持続的な熾火にするにはクールな状態に移行させなければなりません。一方でクールだけだと熱の原資が不足しており着火が起きません。着火しなければ熾火も何も始まりません。二つはセットなわけです。

そういった観点で云えば、心療内科的な課題解決には「ホットモメンタム」が即効的で使い勝手が良い手段になります。しかし熱しやすくて冷めやすい手段だけでは診療的にも不十分になります。いわゆる対処療法にしかなりません。これはメディテーションでも同様です。療法的にはやはり出来れば完治や寛開、少なくとも持続的な治癒状態が必要になります。心の観点で云えばポジティブな思考やプラスの感情の確保であり、信念体系で云えば地に足が付いた確固たる「幸福観」の取得です。

そして宗教が持つ目的や使命もそこと密接な関係があります。宗教の目的は様々な言い方はあると思いますが、つまるところ「万人の永続的な心の安定と幸福の実現」です。そして禅の場合、その幸福は「善」が包括された社会の実現にあるといっていいと思います。つまり禅の目的は「善」の追求です。これは京都大学の西田幾多郎氏(哲学教授)や宗教家の鈴木大拙氏の論説でも明確に示されています。禅の思想は「究極的善が幸福である」という考えです。そして幸福を目指して実践していくことは西洋的には「倫理」という考えの究極の目的と合致してきます。西洋では、「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべて皆何らかの善を目指している」という概念で倫理を語っています。

西洋では倫理と云う概念を2つの思想で扱っています。一つはカントが云う「義務の倫理」です。これは「ねばならないから為す」「為すべき行い」という定義による概念です。一方一般に普及しているのはアリストテレスが唱えた概念です。それは「幸福の倫理」です。「人が幸福に生活するために進んで為す行い」という定義による概念です。

アリストテレスは真の幸福の在り様を「機能」という考え方から捉え、人間ならではの機能、それは「理性(分別、判断力)」であり、その機能を良くすることが幸福になることに繋がると提唱しました。そして理性的であるとは「今ここ」だけではなく、より視野を広げて間接的なことも交えて、判断を行いながら生きていくことである、と説きました。しかし人が常に理性的であるには、時折「心をリセット」して「ノイズを除去したり、整理する」必要があります。ノイズの筆頭が感情であり、雑念です。それには「無心的な集中」が必要になります。禅では「今ここ」を重視しますが、それは「心の平静」得るための手段であって、目的としてはいません。「今ここ」にだけ生きるのは理性のない獣だからです。

禅の心をしっかりと押さえると驚くほどアリストテレスが云う「倫理」に合致します。アリストテレスは「持って生まれた能力や可能性を出来る限り現実化して、充実した活動をする中に幸福が実現する。理性を十全に発揮するうちに幸福が見いだされる。理性を上手く活用することで本能などがより良い仕方で花開いていく」と説いています。そして「幸福な生活とは何か」について、「快楽的生活は全体のバランスを壊して長続きしない。安定的なものは周りと協調する社会的生活であり、自らを高める観想的生活である。そして何かを得ることではなく、自分の機能を理性的に発揮することが幸福となる条件である」と説いています。因みに観想とは、「この世界のあり様を在りのままに見て取る、真理を認識することが人間を幸福にする。言い換えると審美眼を持つ」ことで、「知るということ自体がある種の喜びを自分に幸福を与える」ということと語っています。

更に、「幸福を得る、善という可能性を実現するために必要なものが徳であり、徳とはすべてそれが備わるところにあるものを善き状態にし、そのものに自分の機能を良く行うようにさせるものである」とし、徳には「思考に関するもの」と「資質に関するものの」二種類があり、思考の徳は知的な力としてその生まれと成長を主として「教示」に負っており、それ故の経験と時間とを要するが、資質の徳は勇気や節制のような倫理的な力で、習慣によって身に付く、と説いています。

その上で、徳とは卓越性とか力量のような力と同じ存在であり、そのものが持っている能力を最大限に高めて、充実した働きが出来るようになっている状態を「徳がある」と定義しています。そして徳には枢要徳と云って、賢慮(判断力、見極める)勇気(困難に立ち向かう)節制(欲望をコントロールできる)正義(他者や共同体を重んじれる)の4つの重要な徳があり、それを身に付けることで人間としての力が付き、それを発揮することから元々持っている可能性を現実化して充実した働きが出来るようになるのが、幸福な人生を送るための必要条件である、と続けています。

アリストテレスは、「徳と云う力を身に付けて時間を掛けていくことで得られるのが幸福である。それは幸運ではない。運も生かさなければ何にもならない。それを生かしていく。それには人間としての内的な力が必要になる。力を身に付けていくことが幸福になるための前提条件である。それを身に着けるには長い習慣づけの積み重ねが必要になる」と強く説いています。また「習慣づけるにはまず簡単なことから手を付けて、それを小出しに続けて徐々に増やしていくのが良い」と語っています。

「徳とは人間が持っている可能性や能力を現実化し、充実したあり方が出来るようになる力であり、幸福とは完全な徳に基づく、心のある種の活動である。そして人は誰しも徳を身に付ける資質を持っている。一回一回の行為の積み重ねによって現実化していく。習慣で出来るようになる。これは技術と同じである。正しいことを行うことによって正しい人になるのであり、節制あることを行うことによって節制ある人になる。勇気あることを行うことによって勇気ある人になる」。こういった思想はまさに禅の思想と重なります。加えて「全ては成功体験とその報酬経験の積み重ねによって促進される。小さな成功を掴むようにまずは小さなコツを知るまであきらめないことから出来ることから始める。徳ある人をモデルにしたり、人からコツを教えて貰うのも大事である。ほんの少しでも良いから動かしていくことが大切である」といったアプローチは禅の修行法とも非常に近似しています。ただアリストテレスは「度が過ぎると善には近づけない」と云っていますが、禅の修行はどうなのでしょうか。

ともあれアリストテレスが云う「幸福を実現する」という目的こそが人が最も勢力溢れた状態になり、マインドフルネスな状態を生み出すエネルギー源になるのは間違いのないところです。クールモメンタムが「目的意識」に火を点けるアプローチであることは紹介済みですが、重要なのはまず「目的」や「目的意識」を持つことです。「目的」の作り方や「目的」の意識づけ(自己暗示)などについては前にご紹介しましたが、人にとって究極な目的は「幸福」であることは確かです。倫理として目的と手段を考えたときに手段になりえない目的は「幸福」と云う目的に他なりません。それがメンタルとしても最も安定した状態を生み出す目的意識であることも確かです。川野先生は禅の立場からそれを重視して、医者の角度からも検証して、より多くの人が「幸福」という目的を描ける自分になるように、と活動をされています。

今回は、西洋の倫理学の視点から禅や人としての目的の意味と重要性を検証してみました。それにしても、個人的には最近の人はこういった倫理観を学んでいない人が非常に増えてきている感を持っています。倫理観はまず親の教えが重要です。学校教育的な数理的な知性を慮って学歴にばかりに目を向け、それを人の評価の中心に当て嵌め、倫理としての知性や理性を軽視した結果が今の幸福感を描けない殺伐とした社会の状況を生みだし、一見賢そうでも、人としての理非分別もつかない金の亡者や人に無関心な偏狭者を蔓延させ、あげく無責任な権力を振りかざすマスコミを含めたエリートや誹謗中傷の良し悪しも判断出来ない人材が闊歩する姿を現出させる現実となっているのは本当に悲しい限りです。

倫理も取り上げられるのはカントの概念が中心の社会風景になっているのもその悪習の一つです。カントの考えは最低限の倫理の順守です。倫理とは本来人の道である道徳を道筋立てた考えです。禅の考えも戦後のカントの考えの蔓延が一つの壁になって、日本人が尊敬された武士道の根幹となった倫理としての立ち位置を失いかける状態に陥ってしまったと見ています。

皆さんもここで改めて人として倫理と云う世界を内観してみて下さい。おそらく会社や組織の歪みの現況が浮き彫りになり、組織活性や人材奮起のきっかけが掴めてくると思いますよ。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?