クールモメンタムが果たす役割と効能 ~ソモサン第259回~

想像力はなぜ養われないか?

皆さんおはようございます。

ジャーナリストの池上彰さんは「世の中で解決を求められている多くの問題は、想像力の欠如によるものと言える」と喝破しています。続けて、「有名な経済学者の言葉に『クールヘッド(冷静な頭脳)とウォームハート(温かい心)』という表現があるが、冷静に分析する一方で、人間の営みや心理を理解していなければ、現実からかけ離れた分析になってしまう危険性がある」とコメントしています。これは私が以前より主張している「数理(科学)性に対する頭の出来は優れていても人間性に対する頭の出来がなければ社会的な問題解決は出来ない」という内容とほぼ同じ意図です。

池上さんの言に基づいてこの課題に面していくには、まずは兎にも角にも「想像力を鍛えること」に尽きると思います。たとえば膨大なデータがあったとしても、大事なのはそれをどういった視点や過程によって解釈していくかです。視点や思考の過程を変えるとアウトプットは大きく違ってきます。想像力とはそういったアウトプットをどれだけ多様に排出できるかの能力です。そういった力を持つには、データの背景にどのような事情があるのかを探求する「人間への洞察力」が不可欠になります。最初にはその力を磨いていくことが必須になります。

これから画像や文章、音声、コンピューター用のプログラムなどのさまざまなものを生成することのできる「生成AI」の時代が、本格的になってきます。この流れは止められません。それに無駄に対抗して時間を費やすのではなく、それを有効に使い倒そうとするとき、大きな力となるのが想像力になります。ものやサービスが個々の需要に合わせ多様化する中で、ビジネスの決め手となってくるのも想像力をどこまで働かせられるかに掛かってきます。

ところが池上さんが言うには、日本では「想像(力)」という言葉がマイナスなイメージのある言葉として使われている。たとえば「あの人の意見は、想像で言っているだけでしょ」「それは想像にお任せしますよ」などといった具合に、どちらかと言えば否定的な、あるいは皮肉っぽい使い方をされがちになっており、それが想像を敬遠させる要因になっていると問題定義をされています。そしてその理由として二つの理由を上げています。ひとつは「想像」という言葉と「妄想」という言葉が混同されていることにあると話されています。妄想とは、心理学用語で「根拠のない主観的な想像や信念」を指しますが、想像とは、「実際に経験していないことを、こうではないかと推し量ること」「現前の知覚物ではない物事を心に浮かべること(imagination)」で(『広辞苑』より)、本来の想像はポジティブな用語であるにも関わらず、想像を妄想と同義にしてネガティブに捉えているというものです。また想像が否定的な使われ方をする二つ目の理由として、「想像」には「ふわふわとしていて漠然としたもの、非論理的なもの」というイメージがあることにあると話されています。そこには「想像ではなく、もっと地に足のついた考え方をしなさい」というニュアンスが暗に含まれており、それが分析思考一辺倒でエビデンス(証拠)好きな日本人的には感覚的に苦手意識を彷彿させるというのです。

確かに日本では、斬新なアイデアよりも、今ある製品をよりよくしていく「カイゼン」のほうが賞賛される企業文化があります。翻って、想像力や想像力のある人を軽く見る風潮があるとも言えます。実際詰め込み教育による評価を主軸とした学歴重視の風潮や「賢い」とか「頭が良い」といった評価については、間違いなく日本では分析思考を重視する風潮のように思えます。

しかし想像力から生まれる発想には、感度良く奇想天外だけれども本質を掴んでいるものなどが沢山あります。それを日本では否定的に捉えられてしまっているわけです。結局はそれがイノベーションの芽を摘むことに繋がり、それ故に日本が高度成長期以降の世界的なIT革命から立ち遅れてしまい、GAFAが出てこない主因になっているとすれば大きな損失だと言わざるを得ません。

池上さんは想像性を奪ってしまう原因として以下のような3つのポイントを紹介されていますので、簡単にご案内しておきましょう。

①自分の思考や行動に自分でブレーキをかける

作家・演出家の鴻上尚史さんは、若い人たちと何かをするとき、最近は「そんなことをしていいんですか?」という言葉をよく聞くと言います。枠組みや構造そのものを疑うという考えがない、と『同調圧力のトリセツ』(鴻上尚史、中野信子)で述べていました。はじめからあらかじめ限界を決めておき、そこまでしかやらないということ自体が自分にブレーキをかけている証拠です。

②タイパが想像力を鍛える機会を失わせる

「タイパ」とは、タイムパフォーマンス、時間の効率を追い求める考え方である。最近の若い人たちは「最後まで見てつまらなかったら時間の無駄になるから嫌だ」「どういう結末になるのかわからずに見るとハラハラするから嫌だ」などといった理由で、「ネタバレ」を調べてから、見るかどうかを決めるといいます。 また、あえて録画しておいてから、ビデオの倍速機能で番組を見ているともいう。 映画やドラマは決めつけの一言、セリフのないシーンや、会話の「間」などがあってこそ、見る側の想像力が働くものです。「主人公が黙って歩いているけれど、これはどういう気持ちでいるんだろう」などを想像するのが映画やドラマ。 「タイパ」で早回しをしながら見てしまうと、その「間」が何を意味していたのかなどがわかりません。そうやって想像力を働かせる機会が減ると、だんだんと力は弱まっていく。

③自分の決めつけに気が付かない

物事には解が曖昧で、そうと決めつけて良いか分からないことは一杯あります。たとえば進化という考えは、良いほうに進んで行くことだと捉えがちだが、ダーウィンの進化論では、進化とはさまざまな突然変異が生まれ、その後環境が変化したときに、たまたま適応できる種が生き延びられたという、偶然の産物をいう。 人間は自己都合で良いと思い込んだ方向に向かっている動きを進化と定義するが、地球環境や人間以外の生物にとって、それが良い方向なのかどうかは分かりません。確かに変化はしているが、それが良いか悪いかの価値判断はし切れないのです。

※私的には③は鶏と卵の関係で、想像力がなくなったから決めつけが増えたり、それに気が付かなくなったと見ていますが、、、。

「どうせ」という予防線を張る心理状態

ここで私が着目するのが、①にある「そんなことして良いのですか」です。

最近若い人と話しをしていますと、この「そんなことして良いのですか」と「どうせ」という言葉を頻繁に耳にします。口ぐせには、その人の「人生観」や「物の見方」が表れます。例えば「気持ちが明るい人」や「表情が明るい人」に共通しているのは、世の中を否定的に見ていないということです。否定的に見ていないから、様々な可能性を探して「いろいろなことを試してみる」という行動に出て、楽しそうに毎日を過ごしています。それとは対象的に、暗い気分でいる人に共通しているのは「そんなこと……」「どうせ……」と考えて、実際にその言葉を頻繁に口にしていることです。「そんなこと……」「どうせ……」と言っている人は、何かを試す前の段階で、「出来るわけがない」とか「たぶん失敗するだろう」と決めつけ、それによって勝手に暗くなっているのです。「そんなこと……」「どうせ……」という口ぐせには、「やる前から限界を決めている」「やる前から諦めている」という姿勢が示されていますから、ある意味では「自己否定」とも受け取れるネガティブなニュアンスがあります。「そんなこと……」と「どうせ……」の違いは前者が他責的であるのに対して後者は自責的であるということです。しかしそんなに違いはありません。どちらもマイナス思考という点においては同じです。現在の日本の若者には、この「どうせ感」が蔓延しているような気がします。

「一生懸命に働いても、どうせ給料は上がらない」

「起業しても、どうせ失敗する」

「投資なんかしても、どうせ儲からない」

「何をやっても、どうせモテない」

「どうせ」と言ってしまう人の心理、物事を諦めてしまう心理としては、過去の失敗の経験やトラウマなどが考えられます。「どうせ」をよく口にする人は、物事や人生を諦めていたり、期待をしていなかったりする場合があるでしょう。ではどうしてそういった心理になるのでしょうか。一つは過多な社会環境に対するネガティブ情報漬けがその原因です。知らなくても良い情報や未だ理解レベルに達していない情報に触れてしまうことからマイナス思考を助長してしまうということがあります。しかし同じ情報であってもプラス思考に解釈する人がいるという現状は、やはり将来のことなどに悲観しやすく、失敗するビジョンや嫌な思いをしてしまう可能性を思い浮かべがちな習性の影響を見逃すことは出来ません。そういった方は、物事が失敗したり上手くいかなかったりする可能性を考えてしまいやすく、最初から弱気になっていることが多い為、「どうせ」が口癖になりやすいわけです。弊社でもこのマイナス思考で人と接するために周りまでは暗くなってしまうという大変な目にあった経験があります。マイナス思考の持つ引力は絶大で、新人クラスでもベテランを巻き込んで職場は一挙にネガティブ空間になっていった感じがしました。このマイナス思考人材の特徴は「決めつけ」や「思い込み」が強く、そして「自己正当化」に拘泥しているように見えました。結果として自分自身の内観からは遠ざかるので他人の声が届きにくいようでした。ポジティブな情報は入らないので、結果として自分のマイナス空間がどんどん膨らんでいき、どうしても多くのことが他責的に解釈されてしまうという構造になっていました。

こういった人はどうしても自己を保身してしまう傾向がありますので、なかなか学習が進まず、同じような経験をを繰り返す傾向にもあります。とはいえ本人的にはどこに課題があるのか自覚がありません。したがって、他者によって自分はいつか裏切られるのではないかと、常にそうなることを恐れているという心理状態が予想できます。確かに期待をすると、その通りになった時は嬉しいものですが、期待通りにならなかった場合に、ショックを受けることにもなります。そうした経験値の中から後からがっかりしたり傷付いたりしたくない為に、「どうせ」と言うことで最初から自分に対する期待値を下げて、期待が裏切られた場合も傷付かないで済むようにしているのです。

こういった人にはもう一つ共通する特徴があります。物事を成功させたり期待通りに運んだりする為には、自助努力をすることが必要なのは当たり前の話です。しかし、努力できるかどうかの自信がなかったり、努力をしたくなかったりする場合、努力をしない口実や言い訳として、「どうせ」というフレーズを口にすることもあります。

「どうせ」と言って可能性を諦めることで、努力をしないことへの理由や言い訳をしていることもあるのです。「どうせ、やっても無理だと思う」「練習したってどうせできない」といったように、「どうせ」というフレーズは時として、言い訳や口実に使われることもあるのです。かくして「どうせ」人材は周りを巻き込みながらマイナス思考に邁進していくことになります。

因みに、以前俎上に載せましたが、クリティカルという世界は、「批評的」と約されているようにネガティブ的な一面を持った存在と云えます。論理的が故にネガティブになってしまうということがあるわけです。そういった背景もあって、現実的な人やリアリストと言われる人もまた、「どうせ」が口癖である場合があります。現実主義者の方は、物事の結末や将来を、クリティカル、即ち厳しいものとして見る傾向があります。夢物語のようなサクセスストーリーなどは、滅多なことでは起こらないと考えている方も少なくありません。現実的な人々は、全てを諦めているわけではありませんが、自分にとって都合が良い展開や結果を期待することが少ないので、「どうせ」というフレーズをよく口にすることが多いのです。この場合は根がマイナスではないので区別しておく必要があります。こういった人は感情的にはニュートラルからポジティブ的な面が強いので、表情的には一見クールで無機的に映っても、暗くはないのでしっかり洞察していれば違いを見分けることはそう難しい訳ではありません。

クールモメンタムには想像力が不可欠 ~想像力を高めるポイント~

ここで視点を転じてみましょう。今回私が「想像力の乏しさとマイナス思考」をテーマにしたのは、ここまで私がご紹介させていただいてきた「クールモメンタム」に関して、一部混乱をしている人がいらっしゃるように感じたからです。前々回、クールモメンタムには「目的」と「意図的感情(正確には感情を換気させる意味合い)」、そして「歩き方(進める手順)」が大事と説明させて頂きました。それによってクールモメンタムは「目的意識」を持つことである、と解釈した方が出てこられたように思われたのです。そして「その目的意識が持てないのだ」とか「目的を考えるのが面倒だ」といった反応が起きかねないと危惧したところです。

ここで改めてクールモメンタムを再度定義づけしておきたいと思います。クールモメンタムとは「思いという想念を立たせるきっかけ」となる火種を云います。これはホットモメンタムという「気分という感情を立たせるきっかけ」と対として存在します。ホットモメンタムは心の野性的な本能に火をつける火種です。しかしこの火種での「心の高揚」「動機」は非常に刹那です。着火はし易いが揮発性が高く移ろいやすい「気分」を相手にしているからです。ですから「心の高揚」を持続させ、かつ自律的なものにするには、更にその火を「知性的な想念(思い)」に熾火しなければなりません。この思い、つまり焚き火における薪に値するのが目的や意図的感情になります。そしてクールモメンタムは熾火をするきっかけとしての火種です。クールモメンタムは目的ではなく、ホットモメンタム同様に火種です。ですから薪がなければ用をなしません。

私が「目的」や「意図的感情」の重要性を話すのは、資源がなければ意味を為し得ないからです。しかし、火は薪でなくても燃やすことは可能です。備長炭のように持続性ある資源(典型が目的意識)が初めからあれば言うことはありませんが、そうでなくても人は「意図的感情」を着火させることで動機づく場合もあります。意図的感情とは野性的な情動的感情ではなく、「情動が意味づけられたもの(人として内在する欲求から導かれる感情)」です。例えば「勝ちたい」とか「負けたくない」。または「好かれたい」「嫌われたくない」、あるいは「褒められたい」「愛されたい」といった感情です。

皆さんの中でクラシックがお好きな方もいらっしゃることでしょう。例えばヴィヴァルディの「四季」は春夏秋冬の出来事を音楽で表現していますが、その中で冬の雪のシーンや夏の蝿が集るシーンなど「情景が想起できれば」その曲を耳にしただけで感情が呼び起こされると思います。ドヴォルザークの「新世界」なども機関車がガッシュガッシュと走る場面が、ガーシュインのパリのアメリカ人であれば自動車が行き交う都会の喧騒が意味として理解されていれば、楽曲でイメージが浮かび上がってきます。音楽に歌詞がなくても人の知性的レベルで沸き起こる感情を刺激すれば、人は動機付きます。そこに自らが共感できる歌詞が伴えば想像は更に容易になることでしょう。これは絵画や映画なども同じと云えます。特に人の感覚の7割は視覚感覚に依拠していると言われていますから、映像による意図的感情の惹起は非常にインパクトがあります。クールモメンタムはこの様な知性的な感情に刺激を起こす存在です。

気持ちをポジティブにして生産的で成長的な行動を喚起させるにはそういった意図的な感情を揺さぶるアプローチが要ります。しかし野性的な感情やネガティブな感情の波でそういったアプローチが届かない場合にはお膳立てが要ります。それがマインドフルネスであったり、ホットモメンタムになります。マインドレスで心がさざ波打った状態の時には、まずは心を整えることが大事です。それでクールモメンタムが作動するのであればそれで構いません。またホットやクールなモメンタムがなくても心が落ち着くだけで粛々と自己動機が為されならば、それで十分です。しかし自力では何ともならない、ガス欠になっている場合や勢いとしてのはずみ車が錆びついている時には、まずは外からの燃料供給を持って野性的な感情を揺さぶり、摩擦熱的に凍りついた気持ちを溶かしたり沸かすことが有効になります。そうして矢継ぎ早にクールモメンタムによって心を動機付けたり勇気づけるのが有効なアプローチになるのです。

ホットモメンタムで大事なのは、一にも二にも快適さと興奮です。それを主導するのがリズムやビートと云った躍動性です。そこには韻律や音律なども含まれます。このホットモメンタムを作動させるのはその重要性の認識さえしていればアプローチはさほど難しくはありません。ホットモメンタムは外からのエネルギーチャージが中心のアプローチですから、受動的でも効果は大きく作用します。能動的に取り組めばそれだけで最早役割は終わっていると云えます。

少しハードルが高いのがクールモメンタムです。何故ならばこれには「想像力」が必要になるからです。「イメージワーク」が鍵になります。これにはボキャブラリーや知識も影響します。想像力はより幅広くより遠望的にそしてより多様な観点からものを考える力が前提になってきます。そして何よりも前向きに頭を巡らせることが求められます。これが弱い、あるいは枯渇気味な場合、思考的にどん詰まっている場合、ここにも外的な刺激やチャージが必要になってきます。それこそがクールモメンタムが担う役割になります。

ところで、ポジティブになろうとかポジティブに考えようと言う助言は満ち溢れていますが、具体的にこうすればポジティブになれるという方法を示唆する話を聞くことは殆どないというのも気にかかるところです。同様にやる気を出せとかやる気を持てという言葉も良く聞きますが、どうすればやる気が出るかを示唆する話を聞くことも非常に少ない感じがします。実際これはとても無責任な話です。原因や理屈を長々と説明されても、肝心の解決への道筋が語られていなければ、「竜点睛を欠く」ということになりかねません。

ということで、想像性を育てるためのアプローチについて少し触れていきましょう。この入口は、「そこまで」とか「「どうせ」と言ってしまう癖を改善するところから始まります。

もっと手早いのは、言い換え法、ネガポを活用するアプローチです。

「どうせ」が口癖となっている方は、無意識のうちに口に出してしまっている可能性がある為、改善するのが難しい場合もあります。なるべく、「どうせ」と言ってしまわないように、意識して発言をすることが大切です。まずはそのワードを云わないようにすることです。また、「どうせ」というワードを言ってしまいそうになったら、「きっと」という表現に置き換えるのも、1つの方法になります。「どうせ」も「きっと」も、憶測で使われることが多い言葉ですが、「きっと」の場合は「きっとできる」「きっと成功する」といった、ポジティブな使い方もできます。より確実に口癖を改善したい場合は、気心が知れている人に、協力を頼むと良いでしょう。口癖というものは、言わないようにと自分で意識をしていても、無意識のうちに口にしてしまっているものです。その為、単独では、なかなか改善できない場合もあります。誰かにその都度指摘してもらえるように頼んでおくと、客観的な目線で「どうせ」と言っているかどうかが分かります。指摘をされる度に、自分が「どうせ」と言っていることに気付くことができるのです。

もう一つのワードは「取り敢えず」と「ひとまず」という言い回しへの転換です。大仰に構えず、軽く動くための自己暗示のワードです。人の面白いのは「どうせ」とネガティブな言葉は吐いても、腹の中には「俺が俺が」のプライドが潜んでいるということです。ですから人は他人から云われてやることを非常に嫌います。「自信」はなくても「自己選択」し「自己決定」したいという二律背反を持っています。そういった観点からすると「騙されたと思って」というアプローチは他者誘導的(ある意味上から目線的)で効果は余り望めません。ここは寄り添う言葉遣い、「一緒に的な表現」が有効になります。それが「取り敢えず」「ひとまず」になります。

「とりあえずやってみよう」「ひとまず試してみるか」

こう考えれば、どんなことでもやってみる気になります。

他者的には「取り敢えずやってみましょうよ」「ひとまず試してみましょうよ」

実際にあれこれとやってみれば、変化がおきますから固定的な観念からの脱出の一歩になります。

更には「まぁ、いいか」というワードも熾火的には有効です。一見いい加減に聞こえますが、結構メンタル的には優しい言葉と云えます。例えば仕事や勉強で失敗したり、人のミスで被害を受けたりすると、ガッカリして気分が落ち込む時に「まぁ、いいか」と思えれば、失敗した自分を許すことができますから、心に余裕ができてきます。メンタル的に置い詰まった人はただでさえ自分を責めがちです。そんな時に「まぁ、いいか」という口癖を持っていると救われます。これは特に自分を完璧主義者だと自覚している人には適したワードです。

「まぁ、いいか。次はもっとうまくやろう」

自分を許した後に、こんなフレーズが続けば、言葉の効果は倍増します。

「まぁ、いいか。今回は許してあげよう」

こう思うことができれば、自分を許すだけでなく、ミスをした人を許すことができます。

このワードが口ぐせになれば、無用な感情のトラブルを最小限に抑えることができますから、意外と効能はでかいと云えます。

対人関係的には「それもそうだね」というワードを口ぐせにするとスムーズなやり取りを生み出すことが出来ます。「それもそうだね」というのは、「そういう考え方もあるよね」ということですから、自分の意見を強く主張しているわけではありません。そうかといって、相手の意見を全否定しているわけでもなく、全面的に受け入れているわけでもないという便利なワードです。

ニュアンス的には、「あなたの意見はちゃんと肯定的に受け入れていますよ」というくらいの曖昧さがありますから、どんな場面でも使えます。

自分の意見に相手が反論してきた時、「確かに、それもそうだね」と言ってから、ひと呼吸あけて「でもね……」と自分の意見を言えば良いだけです。多くの場合、相手もとりあえず自分の意見を聞いてもらえているので、落ち着いてあなたの意見に耳を傾けることができます。裏技ですが、この「それもそうだね」は、苦手な人の話を「聞き流す」際にも役に立ちます。「確かに、それもそうですね」

こう言えば、話はきちんと聞いていることが相手に伝わりますから、通常は聞き流しているとは思いません。基本人は聞いてもらいたいという欲求を持っています。それをポジティブに刺激するわけです。意図的感情を刺激するわけです。

肯定も否定もしていないので、お互いにストレスを溜め込むことはないのです。

因みにこれと似た言葉に、「なるほど」があります。使い方は「それもそうだね」とほぼ同じです。いずれの言葉も肯定的なニュアンスがありますから、自分や周囲を前向きな気持ちにさせてくれるのです。

人は時に人に対してだけではなく自分にも嘘を付きます。ですから一見、「自己肯定感が低い」「ネガティブな自己評価」に映ってもその言葉を字義どおりには受け取ってはいけません。例えば「どうせ」という物言いは、それによって未来が確定されているかのように認識することで、自らの失敗や努力不足についてあらかじめ「予防線」を張っておく行為と言えます。それは自己を「防衛」するための自己暗示とも云えます。事前の「エクスキューズ」により、挑戦する「リスク(失敗)」や努力する「コスト」から逃れるように自分で自分に言い聞かせているわけです。皆さんも、「どうせ自分は馬鹿だよ」と称しているが、その自己認知は真逆であったりするケースを一杯見てきていることでしょう。態度からはそれが察せられるのに、なぜ自己ハンデとなるように「馬鹿」と称するかといえば、それによる「メリット」を享受できるからなわけです。 馬鹿なら失敗も許される。責任も逃れられる。同情心も買える。 それは姑息な生存戦略であり、いわば「擬態」とも云えます。ですから真に「どうせ~」と確信しているとは限らない。いわば方略としての「嘘」なわけです。そして人はその嘘をついている内にその嘘が次第に本当になっていく場合も多々あります。被っている仮面が真実の顔になってしまうということです。それこそが自己暗示の究極の世界です。 人は幼児期からすでに「欺瞞」をおこないます。「嘘」は習い性といえます。 したがって「言葉」だけから判断することが如何にリスクが高いか、ということはしっかりと承知しておく必要があります。えっ皆さんもそうですって(笑)。

この自己暗示も含めた「暗示」が持つ効力は、その影響力の割に意外と社会的に注視されてきていません。古くはヒトラーの演説が有名ですが、「言葉」が技術で「感情」も「意志」も制御してしまいます。言葉は有効に人のメンタルを左右します。有効に使えば様々な心も問題解決に繋がります。クールモメンタムはそういう領域のアプローチ技術です。でも悪用すると大変なことになります。皆さんも御存知のように悪用した典型が洗脳であり、昨今の新興宗教の問題の元凶に位置付けされています。この話は次回詳しくさせて頂こうと考えています。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?