• 今の日本人に必要なアプローチはモメンタム発動力である ~ソモサン第257回~

今の日本人に必要なアプローチはモメンタム発動力である ~ソモサン第257回~

頭と心のバランスはとれていますか?

皆さんおはようございます。

 

ここ最近、「人間性に対する頭の出来」という表現をあちらこちらで紹介させて頂いていますが、改めて一体どういう意味でしょうか。この反意語として想定しているのは「科学性に対する頭の出来」です。科学性とは「合理」「数学的論理」といった正誤を軸とした因果関係的な思考のことです。要するに人間性とは感情への思考であり、科学性とは理知への思考ともいえるでしょう。

ギフテッドと呼ばれる人たちがいます。IQが高く、非常に高い知性や能力を発揮する一方で、発達の偏りや気性の激しさなど、さまざまな困難を抱えるケースも多いのが特徴で、ある意味「科学性に対する頭の出来」は卓越しているが、「人間性としての頭の出来」が成熟しきっていない面がある人たちと言えます。例えば「場の空気が読めない」「人の気持が解せない」「思いやりや気配りができない」などです。

こういった人たちは、人の感情を『データで理解しよう』と考えたりします。彼らにとってはテレビや映画は、「いろいろな登場人物からさまざまな考え方のパターンが学べる存在」で、映画を見ながら、『どうしたら人が喜ぶか』とか『どういう人が素晴らしいとされるのか』などの情報を頭の中にインプットするのだそうです。そう全てがヘッドトリップです。そして、人間の感情の機微を、映画を通じて自分の中に取り入れ、『好ましい行動』『好ましくない行動』とカテゴリー分けしたうえで、前者をまねて再現する……といった行動を取ります。本来他者といかに調和するかというのは、周囲との自然な関わりの中で身につけていくことなのでしょうが、人より思考面での頭脳が優れすぎているギフテッドの場合、論理が感情に先行し、そうした偏りを前提に経験を積むので、感情的的な交流の経験が無意識に捨象されていて、他人との間の距離感が掴めないといった不具合が起きるわけです。

その典型として、感情よりも合理性を重視するあまり、

・他人の間違いを指摘したり(正しいことを伝えるほうが、相手にとっても有益だと真剣に思っていた)、

・ときには論破してしまっていたり、

・他者への礼を欠く行動が及ぼす影響に無頓着

など、総じて感情を察する力が弱い、などの事象があります。判断軸の全てが「正誤」なのです。「曖昧性に対する許容度」が低いわけです。また合理に拘りますから「自分は間違っていない」という思考に拘りますので、他人からすれば「俺が俺が」の利己主義に映る行動も目立ちますから、「可愛げがなく」「自尊心を下げられる」と認知されるので人が寄ってきません。大局からすれば損するばかりになります。

人によってはギフテッドゆえの気質だけのみならず、家庭環境も思考や振る舞いに拍車をかける場合も多々あるようです。例えば両親が上昇志向の強いタイプで、というよりも知性評価偏重の社会の中で、成長を期待した両親から、「一番をとるのが一番偉い」「成績は100点で当たり前」と育てられた場合、親に気に入られたい純真な子供は、その愛情に応えるべく、またその愛情を求めて、「親から必要とされたい、褒められたい、役に立ちたい、と知性や能力での秀逸性に邁進します。時には「親は自分ほどの理解力はないので、話をしても分かるまい」とこれまた偏狭な思い込みを持って行動をします。そうしてつらいことがあっても、周囲どころか両親にもなかなか相談できない状態に陥ります。「周囲と打ち解けられない」などというズバリの悩みなどは、この子は「周囲から人気のない子だ」と思われるような気がして、ますます内に籠もる要因となり、「人間性としての頭の出来」の成長はどんどんと遠ざかる結果となっていきます。「子どもは『頭脳』と『心(気持ち)』を交互に行き来する中でバランスを持って育っていくもの」ですが、『頭脳』だけが最初からある場合、しかも更には『心』があまり育たない環境にいる場合、それは社会的には悪く作用します。そうして本人的にはだんだん「心」の中にあるはずの「本当の自分」がわからなくなっていくことというケース多々見受けられます。

世間ではギフテッドに関して、「自分の興味のあることに邁進し、周囲からはどう思われるかを一切気にしない人」といったイメージを持っていることが多いようです。もちろんそういったギフテッドも存在するのも確かです(今放映中の「らんまん」の主人公のような)が、周囲になじもうとして、「他人に本音も出せず」にいて、他人とうまく関係が作れず、表面的な付き合いしか出来ず、徐々に心を消耗させたり、自分を見失ってしまう人も少なくありません。日本文化特有の人間関係重視の社会環境の中では特にその傾向が強くなります。頭は良いわけですから表面的な付き合いの在り方や振る舞いは論理として構築できますので、周囲や他人に上手に合わせて軽い付き合いの友人は多く出来ます。しかし本音を話せる深い友人は数えるほど、否、全くいないと云った人も結構いるようです。また感情の受容や表出、移入が訓練されていませんから、感情への耐性が弱く、他人の気持ちが分からず、故に過剰に自分を責めたり、過剰に共感したりとブレブレが起き、それも却って周りからはうざがられます。結果これまた自分を閉ざす要因になって行きます。「人間がわからない」という体験をする人もいる一方で、逆に「分かり過ぎるようになってしまう」ということを経験する人もいるようです。感情移入の度合いが調整できないわけです。また論理で事前に人を分析し過ぎて、相手を知ったような気になってしまい、その場での対話ができないといった滑りも起こしがちです。本人は良かれと思っての行為でも、相手と気持ちと噛み合わなければ全く意味を成しません。素直に聞けない、謝れない、感謝できないなど、良い意味でのライトタッチな対人接触が出来なかったり、相手との間合いが掴めなかったりともう大変です。

ところでここまで読まれて皆さんは何かお感じになりましたでしょうか。私的にはこの話はギフテッドに限った話ではないと思っています。現状の社会的評価の中で、頭と心のバランスが考慮されない教育の弊害がギフテッドではないいわゆる一般人の中にも浸透し、いわゆるパワーエリートと称される高学歴の方の中にも同様の傾向がある方が見られると感じています。そしてそういった人が出世し、権力を有するポジションについたときに、社会生活のほうぼうで様々な歪みを発生させているのではないか、といった懸念を強く感じています。「人間性としての頭の出来」が未熟な人が社会的な影響力を持ち、そういった人の発言や動きが社会をどんどん住みづらい、未来を描きづらい状態に誘っていると憂慮しています。

知的障害にも発達障害にも「境界性」という世界があります。「端境」という意味です。正常なようでそうでもない。変わっていると感じるような領域です。この領域での問題は「自他にプラスになっているか否か」「人に影響しているかどうか」が尺度です。また障害ではないので先の事例のように「努力で是正できる」「補正して成長できる」ということです。つまり教育次第、それも早期であれば早期であるほど、そう幼少期の教育次第で如何にでも事態をプラスに運べるということです。

私は従来こういった教育を担っていたのが宗教やそれが持つ哲学の「教え」だと考えています。それを未だに担える宗派が今は幾つあるのでしょうか。デジタル的に紡がれた「科学」や「合理性」と歴史的に脈々とアナログ的に継がれてきた「人間観」や「社会協約」。この両者のバランスが人や社会を安定させ、持続的な発展の糧となっていると私は捉えています。そういった思想の中で現状を見た場合、明らかに「人間観」や「社会協約」への視点が脆弱になっている。私が「クール・モメンタム」の醸成や発揮に着目するのは、その解決の一助にならないかという期待感から来る思いゆえの話です。

マインドフルネスとモメンタムはセットで効果を発揮する

さて、これまでも話させて頂いたのですが、マインドフルネスとモメンタムの関係についてです。重要なポイントは、「両者がセットになってこそ意味がある」という視点です。「マインドフルネス」は「瞑想」、そして「モメンタム」は「覚醒」です。人の生来の目的は成長と発展です。つまり「休む」ことは大事ですが、本質は「立って歩いて」動きによって何かを得ることにあります。いくら瞑想しても覚醒がなければ意味がありません。

ところが世間を見回してみると、マインドフルネスに興味がある人はマインドフルネスが持つ静的な空気感にばかり傾倒し、モメンタムが持つ動的な空気感を敬遠しがちな習性があるように感じます。これでは瞑想オタクで、瞑想的時間に逃げ込むだけで、次に向けての何らの動きも起こらず、時間を無為に過ごすだけで、マインドフルネスが本来願っている目的とは大きく乖離していくだけです。反対にモメンタムの空気感を好む人はマインドフルネスの空気感を避けがちのようです。これまた時には休んで自分の道筋を修正したり見極めたりしなければ無駄足をしてしまうにもかかわらず、ただただ今ここでの全方位的なエネルギーの発散に終始するだけで、モメンタムが本来願っている目的と乖離するだけになります。モメンタムは目的に向けてのスタートアップを起こす気合、またはそれを上げる一連の取り組みです。

大事なのは須らくバランスです。欧米人は生来において外思考で、思いを外に向けて発する指向性が基本で、モメンタムが非常に強い文化を持っていると思えます。リスクに対しても前向きで、負けん気も強い。そういう人がマインドフルネスをするから意味があるのであって、日本のように元々マインドフルネス的な文化を持つ人たちが、欧米のモノマネでその度を強めてもモメンタムの発揮は遠ざかるばかりです。またマインドフルネスもさほど効果は出てきません。日本人は内思考で、思いを内に秘めて収める指向性が基本で、内観が大好きです。それによってウツに陥りやすい文化が根っこにあります。何でも欧米のマネをすればというのは浅慮です。

グローバルとかダイバシティとかインクルージョンとかいった目まぐるしい環境の中で、放電させられ続け、心のエネルギーが空っぽになりながら、それをマインドフルネスで充電するのは大事です。しかし、その後マインドフルネスの場から離れて、また同じ状態になって場に戻ってくる。それを繰り返したところでなんの意味があるのでしょうか。次は違った動きが大事です。その際、どうしても違った動きをするには勇気やエネルギーを欲します。これはマインドフルネスによってエネルギーをチャージするというよりも、そのエネルギーのこれまでと違った発し方や効果的な使い方が分からないとエネルギーはこれまでの習性を辿って元の木阿弥的な使い方に向かって流れていってしまいます。蓄えたエネルギーの新しい発揮を促すのがモメンタムの役割です。

精神科医である川野さんは、まず禅僧としてマインドフルネスを熱心に推し進めながらも、医師としての診療経験を通して「患者さんによっては、これだけでは何かが足りない」「マインドフルネスを実践しても、適応障害を繰り返す人は一定数いる」といった課題意識を持つようになったそうです。グーグルなどのような目的意識が明確なエリート集団や欧米のような外思考の人達が「アイデアが煮詰まった」、あるいは「マルチタスクで少し疲弊した」時にマインドフルネスを行うのは非常に効果的である。マインドフルネスによって心のエネルギーを充電するというアプローチで事足りる。しかし心のバランスを崩して精神科や心療内科で治療を受けるに至った人に対しては、マインドフルネス単体のアプローチでは、休職期間中は一時的に症状が改善しても、その後再びストレスを抱えて再燃するケースが少なくない。「では一体、何が足りないのだろう?」という疑問から辿り着いたのが、「外からのバックアップ的な充電」と「エンジンを動かす初動的なセルモーター」の必要性、起爆剤の重要性だったと述べられています。

そう、心が疲れたり乱れたりして、それをマインドフルネスによってせっかく整えても、目覚めた後にまた同じ繰り返しになって行くのであれば、何の意味もありません。しかしそういう人は多くいます。堂々巡りで病んで行く人が至るところで悩んでいます。そして一部の人たちは「マインドフルネスは効果がない」といった誤解に転じてしまっています。

ではマインドフルネスだけでは効果が出づらく、マインドフルネスを悪い意味で繰り返してしまうループに陥りがちな人にはどういった特徴が見られるでしょうか。そうならないためには何が必要なのでしょうか?その一つが「人生や未来に向けての目的」です。ただし「形としての目的は持っているが、その目的に意味が伴っておらず、目的に思いが込められた感情が湧きたって来ないこと」人もいます。与えられた借り物の目的の場合がその好例です。そうではなく、行くべき方向に意味があれば最初の一歩も、またその思いへの感情ボルテージが高ければ、最初の一歩で感じた手応えを知ったが故に躊躇しがちになるニ歩目もスムースに踏み出せるようになります。

クールモメンタムを上げる「目的」「意図的感情」「歩き方」

ではこれらを乗り越える方法論はなんでしょうか?それが何よりもクールモメンタムを上げていくことです。

繰り返しますが、マインドフルネスが瞑想ならばモメンタムは覚醒です。休んだら今度は目覚めて立ち上がらなくてはなりません。立ち上がるには気合いがいります。気合いを起こす起爆になるのがホットモメンタムです。そして立ったら歩き出さなくてはなりません。歩くには動機がいります。動機には3つのキッカケが要ります。「目的」と「歩き方」と「意図的感情」です。これがクールモメンタムの背骨です。「意図的感情」とは意味を含んだ気持ちのことです。例えば「大義」や「使命」といった格好良いものから「思いやり」「気配り」といった「思い」や「気持ち」がそれで、いわゆる動機を起こすキッカケです。

 

目的&意図的な感情:

それでは具体的な手立てをご紹介していきましょう。まず目的ですが、これははじめに目的ありきではなく、意図的な感情が大切です「自分にとって何が気持ち良いか」「何が楽しいか」「何が自分を満たすか」を考えてみます。自分の過去を探索するのも、文献や様々な情報収集も大事です。「気持ち」と繋がっていますから「自分らしさ」、「地に足がついた」内容が第一義でないといけません。それには感じることがないと浮かんできませんから、まずは視野を拡げたり感動を体感する動きをすることが求められます。それには事の大小やレベルなどは度外視して、とにもかくにも動き回ることです。自分の欲する気持ちに素直に従うことです。その上で目的を仮設定することがスタートになります。ポイントとしては人は誰しも最初は「無意識無能」だということです。それが始まりで、その後に意識付けの積み重ねで次第に「意識無能」となり、そこからの動きを繰り返す内に「意識有能」になって、最終的に「無意識有能」になっていくのが道筋であるということです。ですから大事なのはまず「意識する」ことです。自信だとか良し悪しの判別は「意識有能」になってからすべき段階の話なのです。

この意識無能を意識有能に導くのが、目的の目標化です。一体どういうことなのか。この目標化とその設定に関しては、厚生労働省によるアクティブ・ガイドラインである「健康づくりの➕(プラス)10運動」という考え方を例として使って話を進めていくことにしましょう。ここでいうところのプラス・テンとは「健康寿命を延ばすために今よりも10分多く身体を動かす」という呼びかけであり、18歳〜64歳の人では、「1日60分元気の身体を動かしましょう」、65歳以上の人では「じっとしていないで1日40分動きましょう」という運動の内容を意味しています。その中で筋力トレーニングやスポーツが含まれていると効果的であるそうですが、出来る限り掃除や通勤、買い物など、日々の生活の中での身体活動と日常生活の身体活動以外にウォーキングや筋力トレーニングなどの運動をしましょうという指針です。要は「できる範囲でちょっとずつ」。でも「いつもよりも何か意識したこれまでとは違った考えを描く」というのがコツです。とにかく無理せず小さく始めることを薦めています。確かにこれまで目標が描けなかった人が、いきなり能力を超える状態を描くのは無謀というものです。例えば「毎日ランニングを5キロ行う」といった目標です。目的を大きく描くと目標も大きくなりがちです。でもここで重要なのは、目的と目標は繋がってはいますが、別物であるという意識です。目標は実行と繋がっています。ですからまずは「5分歩いてみる」。出来たら「しばらく続ける」。そして続いたら。次は「10分歩いてみる」といった塩梅で、本当に小さなステップで始めるのが大事です。重要なのはやり続けること、習慣化することです。最初は物足りないくらいがベストです。大事なのは大きく変えるのではなく、小さな変化を確実に続けていくことです。それが副作用を起こさない最善のアプローチになります。

 

歩き方

「歩き方」とは「手段」のことです。手段としては「心地良さを感じられる行動」を選択するのが一番です。人は強い目標や具体的な達成点があるときは多少苦しくても立ち向かいますが、そうでない時はちょっとしたことで挫折してしまいます。ですから軌道に乗るまでは「心地良い」「気持ち良い」「楽しい」と感じられるものを行動の手段とします。そして無理せずに続けられるものを選びます。実践しやすく、簡単で、しかも短時間で手応えが得られるアプローチが最善です。また行動を続けるには、レコーディング、特に数値化すると意識が高まります。人は「欲」に対する成果とその見返りが目標想起の基軸になります。これまでの成果が計れると、方向性のズレや次の自分の注力点が確認出来、また努力の達成度も見えるので、瞬間的にクールなモメンタムが発動することが出来るようになります。クールモメンタムを発動させるワードは「出来るかもしれない」という期待感と「やったら見合った見返りがある」という報酬感です。レコーディングはそれを可視化して想起し易くします。まずは自分の「欲」はどういった手合のものかを探索して、その欲にあった「目当て」を目的に向けての第一歩的な目標としましょう。そして出来る限りそれを達成基準として量れるような見積もりを考え、それを目標に当て込んでいければバッチリです。

やる気スイッチである「モメンタム」はモチベーションのコントローラーでもあります。モメンタムは単に感情的な盛り上げを瞬間的に喚起させるだけでなく、習慣的な行動(体調管理なども含めて)を作動させるためのアプローチを使うことから意味を持った目的意識の想起(思い出し)を覚醒させることで、その意識を持続的な状態に導く働きをします。皆さんもホットとクールの二つのモメンタムの役割をしっかりと理解して、是非上手に自分を覚醒していって下さることを願うところです。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?