• 人間性を高め、自らの活性を促す古来からのアプローチ法 ~禅の世界観に触れる~ ソモサン第229回

人間性を高め、自らの活性を促す古来からのアプローチ法 ~禅の世界観に触れる~ ソモサン第229回

ショートソモサン①:マスコミの利己的、ご都合主義的姿勢は、負を量産する「力の無自覚な乱用」である

皆さんおはようございます。

先週残念なことにH3ロケットの打ち上げが中止になってしまいました。私は若い頃宇宙物理学を目指していたので中止していたのですが、この話最近の日本の品性をあらわにする結果を招きました。「この発射は中止なのか失敗なのか」といった物議です。私的にはどっちでも良くて寧ろロケットという資産が維持できたことを喜ばしく思っているのですが、どうやら公式発表の前に報道をした一部のマスコミからすると面白くなかったようで、執拗に失敗を認めさせようと記者会見で食い下がったのです。これに関して様々な投稿がありましたので一部を引用させていただきます。

 

「記者というものは事前に調査したりきちんと取材したりするものだと思っていたが、最近は自分のストーリーに無理やりこじつけたり、揚げ足とったり、言葉遊びしたり、どうしようもない人間が幅を利かしているから信用できない」

「通信社なので基本的には起こった事象をそのまま配信するのが仕事。新聞社がその事象に独自解釈を付けるならともかく(それにも限度はあるが)通信社が角度を付けるのは許されない。悪意あってのものだと思うが本当にレベルが低い」

 

何時の頃からか、事前に掲載記事を自分たちのストーリーで作り上げておいて、それに沿った形の質疑応答をして記事を完成させています。記者の質がおちて、全ての質疑応答を踏まえて内容をまとめる能力がなくなってきているのでしょう。

 

「言ってもいないことを記事にされてしまうことがあるので、質問に対しては絶対にその場で言わない、事前に説明内容を『箇条書き』でまとめておいて渡すようにしています」

「元々マスコミ関係に居ましたが、仕事の効率性を優先する、または自社(記者)の主張、思想が強すぎる場合などは、予め想定したストーリーに沿った都合の良い事実を優先的に集めたり、コメント取り出来るよう誘導するといった思考が先行します。これがいきすぎると偏向、捏造報道などに繋がるのだと思います」。

 

記事を読みましたが、この記者は失敗という言葉が使いたいがためのアリバイ作りに終始しており、質疑そのものに中身がなく、かつ相手や宇宙開発業界全体への敬意を著しく欠いたものだったように思います。マスコミという権力の中にいると人間が傲慢になっていくのか、それとも最初から傲慢な人間がマスコミに入っていくのか」。「この件に限らず、政治経済でも、記者は勝手に政策の良し悪しを自分で決めてそれを民衆に押しつけることが多い。それこそが独裁者の発想」といった按配です。

全く自分のプライドのために当事者たちの自尊心を低め、やる気を奪って何の得があるのでしょうか。こういった素養、教養のなさはどうして起きてくるのでしょうか。

また先週学者話をしましたが、これに関しても中野氏に限らず昨今話題になっている三浦氏に関して「なるほどな」と感服するコメントがありましたのでこれも引用させて頂きます。これはライターである片岡亮氏のコメントです。

 

「学者は本来、学問の研究を専門職とするが、彼女の場合、国家政策を深く掘り下げる国際政治学についての研究がされているとは思えない話ばかりで、その手の解説で頻繁に出てくるマルクスやエスノポリティクスなども蚊帳の外。そもそもメディアでの話は、解説ではなく個人的な主張が大半で、中には国際情勢の認識が疑わしいような話も多々見られた。評論家という肩書きならばまだしも、学者という肩書きであればこれは如何なものだろうか。筆者は過去、多数のテレビやラジオで、スポーツや芸能、裏社会、国際社会などの解説をしてきた。自分に求められたのは個人の主張ではなく、問題が起きた背景や問題点の整理だった。徹底して解説に務められたのは長年の取材による蓄積と日々の情報収集によって、エキスパートとして自負できるものがあったからだ。その筆者の解説を聞いて感想を言うのが共演者(評論家)で、正直、「感想を言うだけの側は楽でいいなあ」と思うこともあった。なにしろ情報収集や研究をする解説側は労力がかかり、しんどい。長期メディアに出続けながら、それを続けるのは難しく、深夜3時まで情報源や関係者と話した後、早朝6時半には局にいたりした。これでは本業が疎かになると感じ、自ら出演仕事から遠ざかった。一方、感想を言う側は、スタッフが集めた大量の資料をソファーに座って読み、有識者と一緒に感想を考えている。そちら側の人が、ときに筆者に意見を求めてくることがあるが、そこで答えた筆者の意見をそのまま本番で自分の意見として話すようなコメンテーターもいた。たとえばあるスポーツで深刻な問題が起こったときでも、スタジオに解説として呼ばれているのが、ただそのスポーツ好きの歌手や漫画家、もしくは体制側にベッタリの評論家だったりして、本質的な解説がされないまま個人的な意見ばかりが流れていた。そうやって情報番組の質が落ちれば、人々も生産的な議論に行き当らないまま賛否だけが飛び交い、結果的にろくな結論も出ないうちに世間が問題自体に飽きて終わり、ということになっている」。

皆さん如何でしょうか。私はこれは知性ではなく品性の問題だとみています。日本が知力偏重で品格や徳性といった教育を怠るようになったのはいつの頃からでしょうか。品格や知性は即ち人間性(人としての気高さ)の問題です。

人としての有り様に関しては西洋では「ノーブレス・オブリージュ」という言葉によって「力には義務が伴う」と気高さを教えられます。日本でも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか「武士は食わねど高楊枝」「腐っても鯛」といった諺がありますが、要は躾の問題です。

私は日本では古くより儒教や仏教の教えがその責を担って来たと考えています。日本は歴史的に国民の教養度が高い民族として知られています。それは階級に寄らず寺子屋などが広く市民に「読み書き算盤」といった素養を教えていったからに他なりません。そしてその内容が単に知性のみならず徳性を育む内容だったからと言えるのではないでしょうか。

事実日本の品格は、奈良時代以降の仏教の教えによる人間教育(人とは組織とは秩序とはといった素養醸成)とそれによる治世の賜物ですし、特に鎌倉以降の武家の飛躍は、禅を中心とした仏教による教養なくて語れません。北条泰時の御成敗式目や徳川秀忠の武家諸法度などの制定には全て禅宗の高僧が絡んでます。その思想は「ノーブレス・オブリージュ」と同義です。

戦後、GHQの介在によって形骸的な政教分離施策が生んだ歪みが今ここに来て大きな弊害を生み出してきたと私は捉えています。本当に日本人はここにおいて改めて徳育をしなければ、躾をしなければ、未来に禍根を残す事態に陥ると憂うところです。

ショートソモサン②:組織開発と禅の思想 ~心を開発するアプローチ方法の変遷と禅の位置づけ~

そのような背景もあってJoyBizではもっと経営における、組織開発における哲学的側面、心柱を確立すべく、東洋の強みを持って成長していくために、禅の思想に取り組むことにしました。

そのような過程の中で、禅が持つ素養が「心の活性」たるモメンタムの真柱でもあることに行き当たり、改めて禅が持つ力が如何に古来から組織作りや経営活動に役立つ内容であったかを思い知ることになっている今日この頃です。

今弊社でエン・ポジティブ・マネジメントという組織の漸進化、勢力化に対する取り組みを行っていることはこのブログの読者の皆さんはご存じの方も多いと思います。

現在のその中で、心を高揚するための技術としてモメンタム・アップのアプローチを深耕しているのですが、先の学者による机上論に陥らないようにできる限り実践者の事実をベースに組み立てています。モメンタムの場合、

・それを上げるアプローチ

・上げる土壌を作るアプローチ

 

の二本立てで展開しています。ポジティブ心理が生み出す力ついては今から10年程前にアドラー博士(この方は精神医学の実践者です)が一大ブームとなりましたが、個人的には今一つ実践的に物足りなさを感じていました。

人の気持ちが変わらないのは、顕在意識でいくら変わろうと思っても潜在意識に刻印された観念が足枷となってそれが自己防衛的に反応して新しい観念を跳ねつけたり行動の阻害となるということは自明の理です。そしてそれを凌駕するには潜在意識の書き換えが必須なのですが、アドラー博士の物言いではそこまでの言及はありません。「嫌われる勇気を持て」です。それが持てないから皆苦労しているわけです。そこをどのように実践化してば良いのかが課題です。

一般にそれを成し得るとされているのがペンシルバニア大のA・ベック教授などの「認知行動理論」です。これは論理的に自分を内観的に探索して観念を矯正するアプローチです。このアプローチは心療内科などで実践的に使われている療法です。そこで私はそれを療法ではなく開発法として取り組んでみました。

 

で、結論は?

 

・・・・健常人では無理ということです。なぜか?まず探求するための論理力が必要になります。実際自分をしっかり分析して潜在意識を把握するなど相当の論理解析力が要求されます。そしてそれでもそこに拘って実践するには、内心に相当の「困った感」が求められます。健常人は両者共に希薄なのが現実です。結果そうそう潜在的な認知は書き換えられないということがわかりました。さあ、困りました。

そんな時に知ったのが、認知学者たちが取り沙汰していたJ・カバット・ジン教授たちが実践している「マインドフルネス」と銘打った「瞑想法」でした。瞑想をするだけで認知行動療法に近い効果がある。抜本とはいえないが、ネガティブな思考がポジティブに変わり、気持ちが安定するという結果が導かれるというアプローチで、丁度その頃アメリカのGoogle社の取り組みなどが喧伝され、一つのブームともなりつつありました。

それと前後して、私は現場実践として効果が見られるアプローチとしてミルトン・エリクソン博士(この方も精神医学の実践者です)の催眠誘導法にも目を付けていました。しかし当初は「催眠」(なんか怪しい?というイメージがつきまとう)という言葉に惑わされ、今一つ集中しきれませんでした。しかしよくよく探求・勉強してみれば、この催眠というアプローチがまさに瞑想がもたらす効果と近似するという事実に辿り着いたのです。

でも近似というのは同じという意味ではありません。その違いは瞑想には安定(マインドフルネス)はあっても認知変容や潜在意識の書き換えなどの力はありません。何故ならばそこには暗示のようなアプローチがないからです。つまりマインドフルネスだけでは意識のポジティブ変化やモメンタム向上は望めないということです。

ショートソモサン③:白隠老師に見る自己催眠・自己暗示法 「軟酥(なんそ)の法」

ではエリクソン博士のようなアプローチは瞑想法のような世界にはないのか。そう模索する中で行き当たったのが、禅の世界でした。皆さんもご存知かもしれませんが、マインドフルネスのような瞑想法は禅の修行法からエッセンスを取り出したものです。マインドフルネスはあくまでも精神の安定化が目的です。一方禅の修行は人間性の向上です。ポジティブ化ではなくポジティブを極めた心情状態に至ることです。この禅において坐禅の折に読誦する「坐禅和讃」のようなアプローチこそがエリクソンがいうところの暗示と同じ効果をもたらすということに気が付いたのです。

そうして私はモメンタムを高める方法として、「短兵急に行う方法」と「日常いつでも宝刀が抜ける心構えを作る方法」として、自己催眠・自己暗示法(セルフ・ヒプノシス・アプローチ)という技法を発案するに至りました。

このアプローチは前回から徐々にご紹介させて頂いているのですが、今回は紙面の都合もありますので、まずは禅の中にある傑出した自己催眠・自己暗示法である技法のご紹介をさせて頂くことに致します。

皆さんも臨済宗十四派が中興としている江戸中期の禅僧である白隠老師の名前はご存知の方も多いと思います。彼は若い頃禅修行のやり過ぎで心身のバランスを崩して禅病(ノイローゼ状態)に陥りました。症状はかなり激しく、手足は氷のように冷たくなり、挙句の果ては幻覚まで生じるようになってしまう程だったようです。その時京都白川の山奥に住む「白幽子」という仙人に伝授された「軟酥(なんそ)の法」により、健康を回復したといわれています。これは、頭の上に鴨の卵ほどの軟酥(クリームのようなもの)の塊があるとイメージし、それが次第に融けて流れ出し、自分の体の調子の悪い部分を浸し、症状を洗い流してしまうと観想する方法です。その後白隠老師はこの経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救いました。仏教においては古くから自己の人間性を高めるために理だけではなく行によって様々なアプローチを開発し会得してきています。

白隠老師は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称しました。その飽くなき求道精神は「大悟十八度、小悟数知らず」という言葉に表象され、現代に伝わっています。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化しましたし、中でも自ら考案した「隻手音声」と最初の見性体験をした「趙州無字」の問いを、公案の最初の入り口に置き、以後の修行者に必ず参究するようにさせました。

また、菩提心(四弘誓願)の大切さを説きました。菩提心の無き修行者は「魔道に落ちる」と、自身の著作に綴っています。そして彼は生涯において、この四弘誓願を貫き通し、民衆の教化および弟子を育てました。その特筆たるのが、従来漢文が多かった禅宗の典籍の内容を、民衆にも分かりやすい当時の日本語表記で和讃の形式で表現した坐禅和讃を坐禅の折に読誦させることによって禅の心を、それまでの為政者階級から広く一般大衆に広めたことです。

ショートソモサン④:「バターの法(?)」を実際にやってみましょう!

さてでは今回最後にこの白隠老師の「軟酥の法」を現代的にアレンジしたアプローチ法をご紹介致しましょう。このアプローチは、単に身体の健康回復だけでなく、心の回復、パッとしていない気持ちが晴れやかになる、ネガティブな思考が切り替わるといった効能もありますので、皆さんもぜひ試して下さい。

 

<具体的な手順>

①まず座布団の上に座禅します。この時足が暖かなタライの中にあり、次第に足が暖かくなっていくイメージをします。

②次に頭の上に拳くらいの大きさのバターの塊が乗っかっているイメージをします。

③そのバターは頭の熱で徐々に溶け出し、頭上から体内に浸透していきます。

④このバターは体内の悪い部分をすべて溶かして一緒に足から体外に出ていきます。

⑤頭から首、肩から腕、胸と云った順番で溶けたバターが降りていきます。

⑥頭を流れる時には後ろ向きな考えや悲観的な思いもなくなっていくというイメージをします。

⑦胸を流れる時には怒りや悲しみといったマイナスな感情が消えていくといったイメージをします。

⑧悪い部分を溶かしながら降りていきますから、バターの色は徐々に茶色く濁っていきます。

⑨そして溶けたバターが通過したところは、悪い部分が無くなって光り輝いていくのを感じます。

⑩肺、肝臓、胃、腸、背骨、尾骨、足と云った具合にバターはどんどんと濁りの度合いを増しながら降りていきます。

⑪足の付け根まで降りてくると、タライに足の先から黒くなった汁が出ていきながら染み込んでいきます。

⑫どんどんと出ていき、タライの中は真っ黒になります。

⑬バターが全て出てしまうと、貴方の身体は隅から隅まで光り輝きます。

⑭さあ、では立ち上がってゆっくりと深呼吸をして目を開きましょう。

⑮手足の屈伸を行い、十分に力を戻してから終わります。

 

このアプローチは力を抜けば抜くほどに、雑念に邪魔されず、イメージが浮かびやすくなります。このアプローチは自己催眠と自己暗示の両方を兼ね備えたアプローチですが、このアプローチの前に自己催眠のアプローチをするとよりリラックスして効果的になります。

自己催眠に関する具体的なアプローチの方法は次回にご案内させて頂きます。

ということで今回はこれくらいにさせて頂きます。

それでは皆さん、次回も何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?