• 社会的文化という観点から意識改革とクールモメンタムの在り様を考える ソモサン第253回

社会的文化という観点から意識改革とクールモメンタムの在り様を考える ソモサン第253回

自分たちの空気を押し付ける社会的な構造

皆さんおはようございます。

ブログの案内にもあったように弊社の専務に長女が出生しました。大いに喜んでいるようです。さて彼の娘は年齢で言えば私的には孫にあたるような世代ですが、これまでの経験上に感じるのは、子どもは柔軟なようにみえて、意外と保守的だということです。殆どの子供はいわゆる「子供らしさ」とされる突飛な発想をするよりも、皆と同じことで満足する傾向が強いようです。例えば自分が新しい遊びを開発するよりも、誰かが持っているゲーム機を欲しがるというような傾向がそれです。そう、思うよりも子供は従順だということです。そして人間の本質もそこに垣間見られます。要は保守的な意識が基本というのは性であり、大人も子供も関係ないということです。

ところが多くの大人はバイアスの中で「子供は放っておくと何をしでかすか分からない」とばかりに自分たちの時代観を軸足とした枠組みを「善」として接しているのが実際のところと云えます。

その顕著な例が夏真っ盛りの高校野球です。選手を寮に囲い込み、坊主頭にした上で、野球以外のことを考える余地さえ与えないほどに練習させる。そしてこれが勝つための近道と決め込んでいます。恐ろしいのはそういうチームの勝利が全国放送の電波に乗り、ドラマチックに展開され、多くの大衆が「これこそが若者における輝かしい姿、つまり『善』である」という刷り込みがなされていく状態です。

どこかのコラムニストは、これを「大人が選手を自分好みのストーリーに当てはめようとする、いわば、青春の押し付け問題」と称していましたが、まさにその通りだと思います。高校野球の場合、簡単にはただ高校生が野球をやっているだけですが、それを夏の風物詩のように捉えている人も多く、巨大なエンターテインメントになってしまっているようです。

そしてそこには応じた利権も動いています。エンターテインメントの常として、新たなヒーローの出現や感動的なゲームを望むファンがいて、それを利して儲けようとするメディアの存在がある。そして過剰に煽られたストーリーが作られ、それを望むファンが喜んでそこに食いついていく。これが高校野球の基盤になっています。私的には高校野球の全国大会が公共放送で全試合生中継されること自体が、高校生のスポーツ全般においては異例と云えます(正直に言うと歪みです)。他のスポーツは、決勝すらテレビ中継されないのが現状です。インターハイや国体の決勝結果でさえ新聞に話題として扱われるかどうか。こうして連日テレビで野球をプレーする坊主頭の高校生が目に焼き付かされるわけです。そうしてそれが常識としてのバイアスとなり、その姿を大人たちが「善なる姿」として求めていきます。更にそれを“日本の文化”の主流だと考える人たちが多数醸成されるにつれて、「文化は守らなければならない」と考える人も多く勃興し始めます。メディアはメディアで元々は自らが生み出した風潮であるにも関わらず、恰も大衆の代表かの如くにそれを後押しする文脈で扱い、少しでも新しいものに挑戦しようとすると、それだけで異端と評価し、変化を疑問視するような風潮で現在の利権を保持しようと動きます。

ダイバシティの名の下に、表向きは一見個性を重んじたり、求めるように喧伝されますが、実際には隣の人と同じことをやっていれば安心、目立たないようにやるのが安全といった、日本人特有のメンタリティが潜んでおり、それがグローバリゼーション時代に向けての若者のメンタリティ形成にも良くない影響を及ぼしていると私的には感じているのですが、それが高校野球の在り様に顕著に浮き彫りされているわけです。挨拶の仕方や入場行進などにも見られますが、とにもかくにも何をするのも一緒で、その集団の中にいることを重んじて、そこに属してさえいれば安心であるという枠組み、しきたりが至るところで見られます。その為、いまの高校生や大学生も「個性を出しなさい」と言われながらも部活や学校でのしきたりから踏み出す勇気が持てません。全く多様性を求められる時代に逆行しているのですが、社会の風潮がそうなのだから、それを逸脱する(本来はイノベーションする)のは相当な勇気が求められます。信念に至るような目的意識や望みがない限り、最初の一歩が出るどころか、足が竦んで息が上がり、その場にへたり込むのが関の山です。

この風潮は野球だけではありません。大学におけるスポーツにも同様な傾向が見られます。また相撲のような国技の世界でも見られます。そこに共通するのは、社会的な風潮によって中にいる人達がその状態を「おかしい」と思わないことにあります。中には「おかしい」と思いながらも利権のバランスで「果実を失いたくないがために言い出せない」、先の勇気が持てない、打算が先に立つ場合もあります。しかしこの問題の根っこはそうではありません。かつて日本の知性と云われた大宅壮一氏が云った「一億総白痴化」という名言に象徴されるように、中にいる人は誰も「おかしい」という思考が出来なくなっていることにあります。先週のブログで云えば誰も「クリティカル・シンク(疑問的、批評的思考)」が出来なくなっているということです。その原因は簡単です。冒頭にご紹介させて頂いた「寮に囲い込み、坊主頭にした上で、野球以外のことを考える余地さえ与えないほどに練習させる。そしてこれが勝つための近道と決め込んでいます」という下りです。自分のスポーツ領域以外は全く考えることがない。また寮という閉鎖空間で社会生活を生きる上で必要な情報を身につける余地もない。そしてそれが人生成功の近道と自他共に思い込んでいる二重の閉鎖社会がこれを生み出しているに他なりません。更にはマスコミやエンターテインメント付けになった民衆がそれを助長させているわけです。

滑稽なのはそのマスコミや民衆は、一旦まずいこと、より大きな秩序にそぐわない事態に陥ると、一転してすべての責任を彼らに押し付けて非難罵倒し、時にはリンチにまで及ぶという在り様です。思考力が伴わない「大人子供」を醸成し、それを看過し、そして幼児的に理非分別も身に着けていない連中が秩序違反をしたら一転して、一般の大人同様に扱って避難する。これぞ集団主義の見苦しい面です。

アメフトで知られた大学での事件も、相撲界でのいじめなども皆知恵の足らない人たちの所業です。「常識がない」ではなく、そういった「知恵」が教えられていない。躾すらが為されていないことの証が示されているだけです。

イノベーションを求めながら無意識にイノベーションをつぶす組織構造

そして残念ながらこの習性は日本人の文化なので、企業などの組織の中にも一杯根ざしています。かつて通信大手の中堅社員対象に研修を実施した際、担当の方が「弊社の中堅はどうも創造性が乏しい」と評していた場面がありました。それがなんとか出来ないかという申し出です。しかしそこには二重の壁が潜んでいます。

一つは採用段階での人材の質的問題です。大手なりに学歴を見ると超有名大学の名前が犇めいています。いわゆる学校秀才の精鋭集団です。でもこれまでも言ってきましたが、「学校秀才」イコール「創造的人材」でしょうか。学校秀才の多くは受験問題処理能力に秀でた人材です。そして受験問題は殆どが正解探しのために命題を「方程式や判別式」のような解法の公式に当て嵌めて解を見出すと云った演繹性を駆使する思考や様々な情報の共通点を探り出して、最終的にはやはりこれまでの公式に収斂させることから解を導き出す帰納性を駆使する思考という、いわば前提、論拠、結論が垂直構造をなす一元的な思考法で、これまでを飛躍させたり水平的にずらす思考ではありません。想像的ではあっても創造的な思考法ではないのです。加えて現在の過当な受験状態は上位であればあるほど先の野球選手の如くゆとりがなく情報的には非常に偏っています。特に経験のような暗黙知を身に着けていません。そのために知性(頭の回転力)としては秀でていても人間性(意性、人や感情への関心などのセンサー、感受性)としては非常に脆弱な人材が多く混じっています。かつて旧制高校のような「デカンショ」を身に着けたエリートなどは時間的に生み出される余地がなくなってきています。情報なき中に創造性はあり得ません。

そしてもう一つが会社の環境です。この会社は通信、インフラの会社です。インフラの会社は会計学でも常識ですが、固定資産がやたらと大きい基本は保守メンテが中心の会社です。保守メンテは「例外」を嫌います。鉄道などもそうですが、まずは「決められたことを決められたように」です。こういった文化に3年も染まって、また先の人材のように染まることに秀でた人材に、いきなり創造性、今までと違った発想を、というのは論外です。担当者からこういった発言が出てくる事自体が「認識ができない」。ある意味組織がしっかりと固められている証でもあるわけです。いずれこういう組織は安定期や成長期では非常に強い組織力を発揮することでしょう。しかし変革期や再展開期ではものすごい足枷になることは必定です。さて皆さんの会社や組織は如何でしょうか。滅びる組織にはそれなりの理由があります。この辺はクリティカル・シンクの独壇場です。クリティカルとクリエイティブの違い。皆さん納得して頂けたでしょうか。

しかし昨今箱根駅伝での青山大学の躍進のように、昔の「大人が選手を自分好みのストーリーに当てはめようとする、いわば、青春の押し付け問題」に忠実な思考から逸脱できない大学を尻目に自主性を持った動きで優勝を攫ったり(そこにはもう一つの隠れたテーマ、変革には強いリーダーシップが要る、があります。原監督ですね)、今年は慶応高校が100数年ぶりに全国大会の決勝にまで進み(月曜日時点)、最初は長髪集団と偏った見向きもあったが、躍進によってその風が変わっていったのは未来を感じさせる出来事です。ただその慶応の生徒であるかつての甲子園の英雄で何処か悲劇のヒーローたる清原氏の息子が出てくると異様な歓声と空気が起こり、相手校を圧倒する状況は、結局は「エンターテインメントの常として、新たなヒーローの出現や感動的なゲームを望むファンがいて、それを利して儲けようとするメディアの存在がある。そして過剰に煽られたストーリーが作られ、それを望むファンが喜んでそこに食いついていく。これが高校野球の基盤になっています」という構造は根強いと感じている今日この頃でもあります。

変化を誘うためのモチベーション、それを駆り立てるクール・モメンタムの醸成や演出は非常に喫緊な課題になってきています。そして今の日本の企業のそれは組織レベルでの文化として杭が打たれたような状態になっています。もしもこれからのグローバル時代において、ダイバシティを包み込むにはその実態に目を背けることなく、もっと足元から真摯に積み上げていく必要があります。そう個人だけでなく組織の再開発的な視点として取り組んでいく必要があるのです。

Z世代にモメンタムを!

ところで皆さんはZ世代という言葉はご存知でしょうか。もともとは1950年代に著名な写真家であるロバート・キャパ氏(ベトナム戦争でピューリッツァー賞を受賞後戦死)が二次大戦後の若者をX世代(Xとは未知という意味)と呼んだことに起因していますが、日本ではバブル世代から就職氷河期における右肩上がりが終わった後の世代を云います。単純に云えば昭和末期から平成初期の人たちですね。そしてミレニアムを中心としたゆとり世代をY世代と呼んでいます。Z世代は概ねそれ以降で、大きな震災が起き始めた時代で生まれた時点でインターネットが利用可能であったという意味でのデジタルネイティブ世代としては最初の世代になります。デジタル機器やインターネットが生まれた時から当たり前のように存在していて、ネットのウェブを日常風景の一部として感じ取り、利用しているし、パソコンよりもスマートフォンを日常的に使いこなし、生活の一部となっている「スマホ世代」でもあります。成長期にネットを当たり前のように享受し、情報発信力に長けているため、数多くのインフルエンサーと呼ばれるネットでの発言者が登場しています。またこの世代はCOVID-19 の影響で、学校教育時代が遠隔教育(オンライン授業)を受ける世代でもあります。Z世代は現在世界人口の約3分の1を占めており、割合はミレニアル世代を上回っています。少子高齢化が世界で最も進んだ日本においては総人口の7分の1弱位になっています。一方日本のZ世代の約5割が「子どもがほしくない」と回答しており少子化傾向が加速することは間違いありません。またZ世代の多くは、幼少期からリーマンショックやコロナ禍による不況を経験しているため、企業に対する期待感も低い傾向にあります。そして企業への期待感がないため、ひとつの企業に対する執着がありません。そのため他世代と比べ、短期間で離職する傾向があったり、副業への抵抗感が薄いといえます。

欧米では旧ソ連型の体制を知らないミレニアムやZ世代は社会主義に負のイメージがなく、資本主義体制に失望するほど左派に傾倒しています。その為に左派的活動を行うジェネレーションレフトが増えています。

この様な背景を持つZ世代は、素直で真面目、考え方を柔軟に取り入れられる、やりがいや楽しさを重視する、自分のニーズ(利己)を重要視する、本質を深く考えることに慣れていない、自意識・発信欲求・承認欲求が強い、コスパ・タイパを重視する、と云う特徴を持っていて、特に顕著なのが、「集中力が弱い」「粘りがない」「欲求は強いが努力は弱い」といったことが上げられます。クールにつけホットにつけモメンタムのボリュームが低く、セルフモチベーションが弱く、思考もデジタル的で短期的で浅慮になりがちであるということです。

さてここに先程の日本特有の文化、昭和以前の価値観を軸にした風潮が加わった場合、社会や会社の組織はどのようになっていくのでしょうか。少なくともグローバリゼーションへの対応はおぼつかない状態でしょう。またいくら能力の強化を図っても動機が起きないのですから動きが起きる道理もありません。

如何でしょうか。これをお読みになっている皆様、これから一体どういう手を打とうと考えていらっしゃいますでしょうか。ご意見やお考えをお待ちしております。

 

次回はこのZ世代というダイバシティをテーマにクール・モメンタムを掘り下げていきたいと考えています。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。