• 組織運営の大原則を認識する⑦~こころ編~ ソモサン第248回(2)

組織運営の大原則を認識する⑦~こころ編~ ソモサン第248回(2)

こころを要素分解すると・・・・

一般に「心」と言葉一つで片付けてしまう価値観や行動様式における働きの元ですが、心には「頭の働き」としての働きと「気持ち」としての働きの2つの顔があるということを皆さんは認識されているでしょうか。日本では一言で「心」ですが、頭の働きと気持ちの二態それぞれを英語で表記しますと「マインド」と「フィーリング」ということになります。でも欧米では心はマインドだけを指して認識しているというのが実際です。これは例えば日本人が心と云うとすぐに胸を指すのに対して、欧米では頭を指すという行動の違いの中に認識の違いも現れています。胸を指すのは心臓の鼓動を指すことを意味しています。それは感情の起伏を心の作用と捉えているからに他なりません。つまり気持ち(フィーリング)を心と認識しているのが日本人ということです。このことはマインドフルネスが日本では気持ちの状態の整理を意図して使っているのに対して、欧米では頭の働きの整理を指しているという違いに大きく影響しています。

また私が見聞きする限りですが、日本では更にその気持ちに関してもフィーリングと云う「気持ちの内容」よりもメンタルと云う「気持ちの状態」を中心に心の存在を認識をしているように捉えています。そして企業などはメンタルヘルスを標榜し、その打開策としてマインドフルネスを取り入れようとしているように伺えます。正直これは的外れも甚だしい認識と取り組みだと私的には云わざるを得ません。

思考的な心の在り様である「マインド」と気持ち的な心の状態である「メンタル」は軸足が違います。ただし、両者はコンテント(中身)とプロセス(状態)の関係の如く、考えや思いと云ったマインドに対してそこから生じる気分のような状態的なメンタルは付随する関係にあるので、マインドフルネスによってメンタルが調整されるというのは間違いのない話です。むしろメンタルを調整することからマインドの調整を行うという図式ですから短期的効果としてその点は「あり」の取り組みと云えます。

でも本来マインドフルネスとは心の中身を充実し、安定させることであり、その目的は、人間生来抱えている「成長」という「前向きな心構え」に「思考や意志を向ける」ことだということです。その趣旨から云えば、単なるメンタルフルネス的なアプローチでは、短期的な気持ちの高揚しか得られないし、持続的な前向きな心構えや創造性、或いはレジリエンスやグリットと云った持続的なモメンタム(勢い心)には繋がらない、ということです。

しつこいですが、幾らメンタルを安定化させても、マインドとしての中身が無ければ「マインドはフルネス」にならないということをしっかりと押さえて置くことが重要です。例えば今の日本では若者の多くが、依存的になっているといわれています。それはアイデンティティとか自分の意思と云ったマインドを形成する機会が希薄だからです。当然それでは覇気や挑戦心などが生みだされるはずありません。自己主張する力が育たず、周りの顔色を見て同調していく思考の中に、創造性やモメンタムが現れることはありません。それに関連して、若年層では心が非常に不安定になっているとも言われます。その為に感情の起伏をコントロールも上手くできず、またアグレッシブな感情露出に憧憬を強く持っているとも言われます。その兆候が昨今の暴力的な映画や感情露呈型のドラマに感情の代理転化を求めて、そういった世界にはまり込む若者の姿に現れているのではないでしょうか。何れにせよ自らの考えが形成しづらい、つまりは主体的にリーチアウトがしづらい「マインドレス人材」が増加する現代において、これは未来にとって危機的な状態に陥っていると感じます。現代はマインドがないからフィーリングもコントロールできない、またメンタルの自己調整もできない人材が満ち溢れてき始めている。未来に対して建設的でアグレッシブな人材が希少人材化してきている。

混同していませんか? メンタルフルネス?マインドフルネス?

こうした状態では、幾らマインドフルネスを行動的な技法として行っても、メンタルフルネスにはなってもマインドフルネスにはなることはありません。当然モメンタムも瞬間的な熱情止まりで、持続的な活動には結びつきません。それが実際に現場で起きている真実です。

とにもかくにもマインドにはまずは土台となるアイデンティティとしての独自の「哲学観」、自分独自の考えや思想、判断基準が必要になります。それには自分なりの意見、物事への意味付け、目標意識といった意志が欠かせません。そして更にそれを自信という外套で包み込む必要があります。それには経験が必須です。

例えば宗教もある種の哲学です。宗教においてそれぞれの宗派は独自の哲学観を信仰心を梃子にしてそれを信徒に共有し、更にそれを普遍化し広く普及しようとしています。それが彼らの使命感的なアイデンティティであり、それがマインドの核になっています。皆さんも御存知の通りで、本来のマインドフルネスはその信念を固めるアプローチを目的として生み出されました。そして欧米では様々な宗教が幼少からそういったマインドを持つ育成の一翼を担ってきたのは確かな事実です。だからこそマインドフルネスというアプローチも意味を成しますし有効に働きもするわけです。

纏めましょう。マインドフルネスをするには先ずマインドが要るということです。そしてレジリエンスやグリットのような持続的なモメンタム状態を生み出すには、入り口としてメンタルだけでなくマインドをフルネスにするアプローチが要ります。それは哲学観の育成です。好き嫌いの価値判断や自分ならではの欲求の在り方、自分の持ち味の理解と自信付けといったアイデンティティを醸成する必要があります。それには最初はティーチングが求められます。金平糖で云うところの芥子の実、種が要ります。最近では基礎力とかリベラルアーツと云って学校教育的な知能ではなく、社会人としての教養知識の醸成を訴える声が強くなってきていますが、まさにそれです。実際に古来からマインドフルネス的なアプローチを行う宗教的な修行には総じてこのマインド形成アプローチが含まれています。欧米では当たり前の教育になっていますし(奉仕の心やボランティア活動など実践的なものもある)、日本でも少なくとも思想としての仏教観はそれに対してダイレクトです。韓国は儒教がそれを担っています。しかし今の巷で科学のごとく扱われるマインドフルネスの取り組みにはそれがありません。ですから率直に私は、今はやりのあれはメンタルフルネスだと評しているわけです。詰まるところ今のマインドフルネスにはマインドを作るアプローチが抜けているわけです。

確かに元々マインドがある人には、今はやりの「マインドフルネス」(と言う名のメンタルフルネス)をすればマインドが自動着火することでしょう。しかし先述したマインドが形成されきっていない方々にはそれは意味がなく時間を浪費するアプローチとなりかねないのです。

またある程度マインドがあってもそれ自体が弱っていたり、迷走している人にとっては、ただマインドフルネスだけをしても同様に活力の火が灯りません。それにはやはり後ろから一押するようなアプローチが必要になってきます。それがモメンタムの技法です。