• 組織運営の大原則⑤~行動科学は行動主義心理学と同義ではありません~ ソモサン第246回

組織運営の大原則⑤~行動科学は行動主義心理学と同義ではありません~ ソモサン第246回

機能体組織を共同体組織のように運営する愚 ~なぜか触れられない組織問題~

皆さんおはようございます。

最近いつも不可思議に思うのは、学校でのイジメに対して、本人の訴えに対して学校が何もしない、教育委員会ですら保身に走って事件になった後もそれに真摯に取り組まない、といったことが全国で繰り返すことに対して、どうして主要論点に誰も踏み込まないのかということです。マスコミなどもそこそこの学歴保持者の集団であるにも関わらず問題解決に対するテーゼがあるで出てきません。事後にただただ批判するばかりです。私は常々思うのですが、こう言った人たちは何故にここまで「組織」という理屈に対してあまりにも無知なのでしょうか。

私は長らく農協という組織に携わってきましたが、この組織もこの40年存続のための経営に対して問題提議だけは諄いほどになされ続けているのですが何ら変わりません。

原因は明確です。かの組織はもともと構造が「無責任体制」で組まれた組織だからです。どんなに素晴らしい戦略や政策が練られたところで組織が「動かなければ」何らのアウトプットが出ないのは当たり前の話です。

何故そうなるのか。それは当該組織の構造が端から「動かない作り」になっているからです。今私は組織運営の大原則というテーマでブログを綴っていますが、ここで言う組織とは軍隊を代表とする「機能体」組織を大前提としています。機能体とは組織を統制を軸に集団行動を集中させるために組んだ構造を言います。三面等価で言うところのコミットメント(公約)を主軸として、権限と責任と義務で組織内のあらゆる所属者の行動を規定する体制を言います。簡単にいうとそこに所属する人は全員が組織との契約に基づいた立場に応じて責任が明確な状態です。そしてその責任に比した行動義務があるわけです。

責任ですから当然応じた報酬があります。報酬はポジティブとは限りません。罪には罰があるようにネガティブなものもあります。またそれは契約として立場に応じて権限と比して責任も重くなります。例えば軍隊は守国のために戦争に勝つことですし、会社では株主に対して利益を出すことです。それが出来なければ当然立場に応じて責任を問われます。そして所属者全員もそれぞれに責任が問われるわけです。誰一人として体制的に逃れるものではありません。ここでいう責任とは結果に対する執行責任を意味します。

それがあってこそ組織内の関係は信頼関係が成り立ち、協力関係が生じて統制が効いた集権的に強い体制になるわけです。

ところが世の中にはもう一つのパターンの組織体があります。共同体と言われる組織です。この組織はあくまでも所属する人は平等な立場で、対外的な問題解決に向けて組織全体が抱える義務や責任を均等に分有する組織体制になっています。ここでの長は執行責任者ではありません。物事を議決するための責任者です。つまり決めるための議事の進行を担うのが責任範疇です。執行に対してはあくまでも全員の責任分有が軸になります。ですからそこに一人でも責任脆弱な存在が混ざれば、その組織は一気に機能不全になります。三面等価で言えば、責任の均等分有ということは義務も均等分有ということになります。報酬も均等分有ですから非常に希薄となります。詰まるところ無責任組織に限りなく近づきます。決めない、動かない、偏りを避けたいので総じて保身で保守を前提に動く。また均等責任はある意味組織内の権威も介しないので統制も効かないということになります。

皆さんもお分かりのように農協は共同体です。農協が機能不全になっているのは方針や戦略ではなく組織問題です。しかもそこには権力的な駆け引きといった感情論が論理に優先する、そもそも前提から実行不全組織の構造と言えます。

農協の場合、減反体制までは国の補助機関のような役割だったので、それでも組織は生き続けることが出来ました。しかし徐々に自由化の中で競争力が問われる事態になりました。兎にも角にも機能体的な運営でなければ生き残れなくなったわけです。しかし彼らの意識や行動は相変わらず共同体論理での運営です。体制がそうであれば考えも行動も変わるものではありません。この体制でいる限りかの組織は死に体です。決めれない、動けない。責任を取りたくないからリスクは避ける。農協の場合、職員以外の株主的な組合員の無知がこの体制の転換を阻止していますから、手の打ちようがありません。

この機能体と共同体のガバナンスの違いは政治の世界でも顕著に見られました。平成に入ってから一度野党が政権を取ったことがありますが、結局長続きしませんでした。これも議会は共同ですが、行政は機能体でなければ執行に統制が効かないにも関わらず、行政経験のない野党は共同体的なアプローチで動いたのが敗因の最大のポイントです。現与党は政策は野党と同じようなものでも長い行政的なガバナンスの経験で執行において統制が効いていることが最も大きな差異です。少なくとも現与党で最高責任者に対して平等原理で抵抗したり公然と反旗を翻す人は伺えません。全く組織に対する無知には空いた口が閉じれません。

さてこういった共同体的な無責任組織体制のガバナンスが学校や委員会で起きているのは間違いのない話です。私はとあるビジネススクールでそこの教授から「学校は貴方達の組織のようなガバナンスの図式になっていないので」と溢されたのを未だに忘れられません。学校の先生たちはどこまで組織の統制ということをきちんと理解して運営しているのでしょうか。管理者といっても名ばかりの人が多いように思えます。組織が分かっていないということは、報連相や三面等価といった基本原則の履行も怪しいものだと思います。子供の管理もマネジメントと近似しています。コミュニケーションの取り方やチームづくりなど機能組織では当たり前の働きも理解がなければ出来るはずもありません。何よりも重要なのは組織内における責任の取り方、果たし方です。それがきちんと認知されていれば、生徒などとの接し方やコミュニケーションも大きく変わってきます。昨今のニュースを聞く限り、いじめの起き方やその後の悲劇も先生のこういった意識が大きく関係していると見ています。またそれを管理する主任や校長などの管理能力も自分が共同体ではなく機能体の責任者であるという意識があれば大きく違ってくるのではないか、避けられる事案もかなりあったのではないか、と残念な気持ちになります。これが委員会レベルになるともっと大きな問題になってきます。監視する立場の組織が現場も見ないヘッドトリップで、しかもそれが共同体的な無責任組織だったら、これはもう目も当てられません。一体子供の人権は誰が責任を取るのでしょうか。

ともあれ現状は個人的に気概のある先生や校長などの孤軍奮闘によるリーダーシップによって支えられてつつがないレベルでの推移として成り立っているような気がしています。組織という大きな課題を個々人の力に被せるのは大問題です。

またこういった点を論理的につくのが本来のジャーナリズムの仕事なのではないでしょうか。あまりに組織に対して無関心無知なマスコミには呆れるばかりです。

行動科学から解説するモメンタムの構造

さてでは今週はもう一つ。先週の行動主義によるモメンタムアップに対しての考察を続けていきたいと思います。行動主義心理学は、現在は行動分析学として脳科学とも連携して現在も引き続き研究が続いています。脳科学的には、外界から与えられた特定の刺激が中脳辺縁系の腹側被蓋野にある線条体という部位を反応させ、更にその反応が側坐核という意欲を司る部位に伝わって応じた行動が生じるということが分かってきています。そしてこの側坐核は行動することによって機能し始めるということも分かって来ています。実験では概ね行動を続けた4分後位に機能し始めるのだそうです。

このことは能動的な運動が意欲を高めることを意味しています。でも行動としての刺激は何もダイレクトな行動だけとは限りません。もちろんそれがベストなのは確かですが、筋肉の微細な動きを伴うような興奮を掻き立てる躍動も行動です。例えばハイリズムな音楽を聴いた時に生じる拍手やステップ、口ずさみといった身体反応などがそれです。また起伏を早めた呼吸も行動の一つです。更には表情筋を活発に動かす笑いや持続的な微笑みも行動です。このような行動を4分程続けるとむくむくと意欲が湧いてくるのです。

こういった微細行動を誘うのがビートの効いた音楽であったり、それを伴うダンスのような振る舞いです。また笑いや笑顔を作り出す快楽体感、お笑いの鑑賞や美味しい食事といった五感をアクティブに刺激する場の演出になります。

ところで行動主義的アプローチですが、これには欠点もあります。皆さんも実体験したことがあるでしょうが、このアプローチには持続性の問題があります。こういった刺激からのモメンタムアップは非常に効力が短いのが難点になります。では持続するのはどうすれば良いか、明確なのは一時の快楽の追求といったアプローチでは限界があるということです。

中長期にモメンタムハイを持続させるには、意思の力が必要になってきます。心理学でも行動主義の持つこういった欠陥を反芻する中で第3の心理学と言われる「認知心理学」が生まれました。認知心理学とは心の中の動きを研究する学問です。この研究の中で注視されたのが「自由意思」という概念でした。自由意志とは「行動主義のような条件付け反応といった外的な影響を受けずに自由かつ自発に『何かを成そうとする気持ちや考え』を生み出す力」を言います。この自由意思が人の行動に影響するということが分かってきました。そして引き続いて自由意思の根幹を為すのが「欲求」と「意図」であり、それを認知し思考することが主観的感情とそれに応じた反応行動を誘うということも分かってきました。更にはこの思考の積み重ねが学習と記憶の連鎖を生み出し、予測や価値といった概念を形成すると言うことも分かってきたのです。

この欲求と意図による思考過程が人それぞれに予測される報酬価値を形成し、それが主観的喜びという意識的な快楽を生み出します。そうこれが持続的なモメンタムアップの原動力になります。

このこともやはり脳科学で解明されて来ています。以前にドーパミンは片や中脳辺縁系に働きかけ、瞬発的な動機を喚起させるが、同時に前頭前野にも働きかけて意図的な動機を喚起させると言うことは話させて頂きました。まさにその通りで、一旦出たドーパミンは前頭前野にある眼窩前頭皮質という部位に働きかけて、主観的、詰まり意図的な喜びを喚起させてモメンタムを持続的にハイ状態に保つ作用をしていることが分かってきています。

しかしゼロには何を掛けてもゼロにしかなりません。主観的喜びを生み出す源泉が必要です。それが基本欲求でありそれを意味づける意図の存在です。そしてそれを意識上に顕在させる目的意識の存在になります。まずは目的ありき、とは良くいったものです。

ただ目的と口では言っても、それがどれくらい持続出来るような確固としたものになるかは意図的欲求の度合いと思考力によりけりです。意図的欲求が強ければ目的への拘りも強いですが、そうでなければそれなりです。そして目的意識が低ければ応じて行動主義的(条件付け的)欲求に引っ張られることになります。つまり動機づけも目先で本能的に傾斜します。この傾向は思考力も同様です。思考力が弱いと「流動性推理力」つまり先を読む力や人の気持ちを理解する力が脆弱です。こういった人は目的の形成が出来ません。出来ても浅く短視眼的になります。そうなると持続的モメンタムも弱く、短い状態になります。

それを回避するには二つのアプローチが必要になります。まずは常に目的を意識する暗示(呪いのようなものですw)をかけると同時に意識的に自分を勢い付け演出をするという意識づけです。これには習慣づけや癖づけが役立ちます。そしてもう一つはそもそもの土台を作ること。目的や意味づけを形成することです。これも動機づけの心理作用から見ると「柳の枝に飛びつくカエル」理論が非常に重要になります。※柳の枝に飛びつくカエル理論:柳の枝が高過ぎると諦めて飛びつかない。低過ぎると皆が飛びつくので飛びつかない。丁度いい高さにあるのでカエルは跳ぼうと思える。目的も同じ。

次回はその辺りについて言及して行きましょう。

 

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?