組織運営の大原則を認識する③ ~ソモサン第243回 ~

時代とともに変遷する価値観が組織文化に与える影響を考える

皆さんおはようございます。

今回は文化、様式としての組織行動の基本、暗黙知としての組織の当たり前をご紹介しましょう。この領域は原則と言えば原則ですが、時代において徐々に変化もする領域です。

それに際して先週結構インパクトある体験があったので、その辺りから話を始めさせて頂くことに致します。

先般のオリンピックに関しては様々な醜聞が付き纏ったのは皆さんも周知のことと思います。中には現在も大ごととして話題になっているものをありますよね。そういった中で結構盛り上がった話として、「森元総理の失言」というのがありました。いわゆる女性蔑視的な物言いに対するバッシングです。確かに暴言と言えば暴言なのですが、80代の爺様に対してはかなりきつい責めの様な感じもしていました。私的には凄く大きな時代差を実感した出来事でした。最近東京では朝の5時に50年以上も前にあった人気番組である木下恵介アワーというドラマシリーズの中でも大ヒットした「二人の世界」という作品を放映しています。50年というと私もまだ少年から青年に上がる頃ですが、その番組においての夫婦や恋人といった男女間の描き方はまさに今だと大問題に発展することでしょう。平気で年上の女性は年下とは結婚出来ないとかいったシーンがバンバン出て来ます。この作品は当時としてはかなりハイセンスな内容だったのですが、最もとんがった女性を立てる描き方でも現代では常識以前のない様に感じます。そう50年とはそれを経過した今の自分がアナログ的に感じる以上に大きな時代差となっているのです。

そう見ると森元総理の発言も私の感じ方と現代のマジョリティ層の感じ方は大きく乖離しているのだと思います。

そんな中自分の中では大きな衝撃的な出来事がありました。それは上記のような物言いが今や化石的な見方で全く通用しなくなったという内容でした。自分が若い頃から親しんできた他者との距離感の取り方がこうも認知差的な乖離を起こしているのか、といった衝撃でした。私の年代は戦中ではありませんが戦後直後に近い世代です。そう丁度映画にもなった「三丁目の夕日」の世代です。日本が高度成長に乗り始める直前で、まだ貧しかった頃です。破れたズボンに膝当てをして履いていた時代です。その頃は物言いもまだ戦前からの雰囲気を残していました。例えば「貴様と俺」といった感じです。「てめえ」とか「こいつ」とかいった物言いは汚く下品ではありますが、それが親しみや近さを表す時代でもあった思います。その頃を表す旧制高校のような世界を描いた読み物を手にすると時代背景が想像出来るかもしれません。

その様な時代を中心的背景に生きた私にとって今の時代の若者の言葉遣いは丁寧で上品に映ります。一方で昔押してもらった言葉で「上品の基軸は知性とデリカシー、下品の基軸は情念とバイタリティー」という話が印象に残っていますが、この図式に則るとやや覇気不足の感じも持っています。

さて問題はそこではありません。時代によって作られた信念やそれに裏付けられた言動や行動はそう簡単に修正できるものではありません。それが年長になればなるほどその困難は倍加していきます。それ以上に最早ピンと来なくなってきます。先の言動を例に取れば咄嗟に口を付くものは無意識的に制御出来ません。それが明らかに現代ではあからさまな問題発言であったとしても同じです。恐らくは森元総理もピンと来ていないのではないかと推察しています。

ところで私の場合はそこまでではありませんが、自分が若い頃には親しみや近さと思って口にしていた物言いが、(そう大きな話ではありませんが)問題として俎上に上がる体験をしました。いわゆるパワハラ発言として揶揄されることになったのです。日常私もかなり気を付けてはいるところですが、相手が自分にとって気を許す対象であり、少々お酒も入っていたので油断をしました。

その瞬間その対象である相手も含めて全員から「問題だ」と言われた瞬間、酔いはぶっ飛びました。まずは意図が全く伝わっていないということ。そして自分が浦島太郎さんになったのだなという実感です。時代は変わったわけです。自分の根っこにあるコミュニケーションの表現が大きなズレを持った時に自分の出番は終了です(因みに今回の状況は若手は若手的な冗談で近しさを表現したのであって、その行為自体が主題なのではありませんので皆さん悪しからず)。

実は私のブログが硬く長いのもその根っこはコミュニケーションにおける不安があります。意図が正確に伝わること、感情的な違和感を与えないこと。表現段階でコミュニケーションをカットすると元も子もありません。考えると用心深くなり、ノリで書くことが困難になります。口頭であれば即時での修正も効きますが、文章ではそうもいきません。

その口頭もだいぶ衰えてきている様です。その数日前、長い付き合いのお客さんと食事の際に言われたのが、「貴方は昔は多少物言いには棘があったが、切れ味があった」と評されました。今は「物言いは円やかになったが、妙に学術的で深みがない」ということです。どうも物言いに囚われて内側に入るメッセージが打てなくなっている様です。現場が減っているのも一因でしょう。

「転機だなあ」と思いました。まだまだ自分が打って出れば洗練される年でもあります。でもそれでは後進の育成の阻害にもなります。衰えを促進させるか、次代を作るか。まさに利己利他の話にも繋がります。何れにせよ後輩に支援されるわけにも行かず、決断する段階に入ったなあという感じでした。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」というマッカーサーの言葉はこういうことかと実感するところです。

きっかけとなる出来事は自分以外は全員が20歳以上歳が離れた人達で、これがジェネレーション・ギャップといったところでしょう。何となく四面楚歌という言葉が脳裏を掠めました。上下の文化も大きく変わってきています。

組織行動の原則も文化的には時代と共に変容していきます。飲み助の60代位の方々、後輩との付き合い方や組織行動も次世代に合わせていくものは合わせていかなければなりません。まあ出しゃばらないのが1番ですね。何れにしても森元総理は「びっくりした」「訳がわからない」というのが本音なのではないでしょうか。気づく前に踏ん切りをつけるのが粋なのですが、そうでない経営者が引き摺っているのが真実。それは全くもってみっともない話だと私的には思っています。

組織文化の原則は「人材教育を機能させること」

では今回の主題である時代は変われども変わらない文化的な原則。微調整しながらも押さえておかなければならない話に入っていきましょう。

組織の管理者というのは「命令の執行者であると同時に教育者でなければならない」ということがあります。今の時代は先の事例のように組織の上司は絶対的な権力を持っていると認知されていません。昔は社会的な風潮が転職を難しくして下が相当の我慢をしても従う面があり、軍隊ほどの絶対的な服従状態ではなくとも権力が作用していました。そこでは人格が下劣でも的確な判断をする能力があれば下は付いて来るといった図式が成り立っていました。つまり個々の状況における判断力や行動力が十分であれば別にとやかく言われることはない。業務遂行における能力第一主義で事足りたわけです。しかし今はそこに感化力や統率力がないと下は付いてきません。

一方で今の日本の登用は「統一学力試験で選ぶ」方式です。そこには組織との宣誓によるコミットメント(公約)的な関係は型通りにしかありません。そしてそこに組織の成長鈍化が加わると「学歴主義」の横行が始めます。

日本のこの流れは、日露戦争の戦後処理から始まるそうです。日本では戦後大幅な軍縮が要求され、指揮官のポストが減ることから競争が激化していったそうです。そのために万人が認めざるを得ない公正さを保証する基準として卒業成績や成績順位を極度に重視する人事への概念が固まっていったのだそうです。一方アメリカは南北戦争での経験が起点で、これまでの年功序列で南軍に苦戦した北軍が能力主義の重要性を認識し、平時と戦時では全く異なる指揮官の選抜方式考えなければならない教訓を得たのが、今の人事の基軸になっているのだそうです。日本では太平洋戦争でそれを認識する間もなく敗戦し、教訓が残されなかったとのこと。そのツケが現在のグローバルにおける経済戦争での各企業の人事のやり方に回って来ているというのは皮肉な話です。

現代の日本では商法226条の規定によって経営の失敗責任は役員全体の連帯責任と規定されていますが、そんなことも知らない能力の人たちが人事を担っているのですから困ったものです。

これらの前提は管理者における責任という視点において重要な意味を発して来ます。組織での任務においての原則は上司の命令には忠実に服従することが基本ですから、まず命令の内容について論ずることは許されません。但し、この命令に異議があることを申し出ることは許されます。でも異議を申し立てても却下されれば命令通りに実行しなければなりません。だからこそ後で命令の内容が問題になった時にその責任を問われるのは命令を下した上司ということになるのです。当然ながら指揮官たる上司はその責任の重みを十二分に承知している必要があります。そして命令を確実に実行するには、組織におけるチームとしての人間集団の士気を出来うる限り高め、情勢の変化を的確に読み取り、長期的な展望を持って終局を見据えた判断力を行使していかなければなりません。それには理屈の枠組みを超えた閃きも必要になってきます。そしてこれには多くの場合経験が重要な役割を果たしてきます。

反対に理詰めの思考がマイナスになることが多々あります。理詰めとはあくまでも一つの枠組みの中での思考過程にならざるを得ません。その典型が学歴主義を支える学力試験選抜です。この流れは何よりも論理・ロジックを重視します。しかしその視点はあくまでも過去を分析したケースによる演繹か帰納での思考法です。しかし現実の問題はその枠組みを超えてきます。果たして同じケースではない発生問題には論理に加えて「サムシング・エルス」が求められてきます。そういった要素を加味した思考や判断が求められてきます。

例えば、経営においてはあらゆる手段やあらゆる要素を利用して新規の創造をしていかなければなりません。技術に関しては技術屋さんから知恵を吸い上げなければなりません。それには当該する技術屋さんとの一定の調和が必要になります。その中では多少技術屋さんの声にも耳を傾ける必要が出てきます。それがないと技術屋さんは士気を下げ、信頼もしないし、無理も聞いてくれないことになります。指揮者と現場の第一線は、うまくいけば現場はかなりの無理を言っても十分耐えてくれます。まあ今はそれも下火になってきていますが、まだまだ何とかなる面もあります。

 

~部門間連携をうまくマネジメントしたある役員の事例~

皆さんの中では部門間連携の重要性という話をお耳になさったこともあるでしょう。一つ好例をお話ししましょう。これはM自動車で昔実際にあった話です。技術屋のチームを集めてある車のパーツを半分に出来ないかという提案をした役員がいたそうです。この難題にメンバーは猛烈に反対をしたそうです。しかし役員は押し切って最初のディスカッションに持ち込んだそうです。最初は技術屋さんの間だけでしたが、そこに設計担当のものと材料担当のものがそれぞれが知恵を出し合う状態に持って行き、ごくわずかなものでも部品を減らしていくという進め方をしました。そうこうする内に二年後には三分の二にまで減ってしまったのだそうです。

重要なのは役員の初期のプレゼンテーションです。部品が少ないということは故障の数が少なくなりますし、工程数も半減します。そうするとコストが減って儲かる様になります。儲かれば海外に持ち込んでも売れます。売れれば売れるほどアフター・サービスが必要になりますが、故障がありませんのでその経費が少なくて済み、お客は喜びますます売れる。同時に蓄積したノウハウが別の製品にも使える。非常に応用範囲の広いノウハウが蓄積される。会社全体の縁力を高める源泉となる。メンバーも報酬が増えるし、後ろ向きな仕事が減って研究的な技術開発に時間が取れる、といったモメンタムがアゲアゲとなる話を仕掛けています。

そしてこの役員はプレゼンの前に管理原則をしっかりと認識した上で、より組織にとっての大きな目的を描いてことに当たっています。機械製品などは、一般に機械の設計屋と材料屋、そして材料屋と現場の製作屋。この三者の息が合わなければなりません。ところが殆どの現場では「三竦み」になって、折り合いが難しいのが現状です。設計屋はできるだけ安全なものを作ろうとします。それには材料が沢山入ります。材料屋は出来るだけ材料の良いものを使おうとします。するとコストが掛かります。皆に任せ放題でパーツの数を減らす努力をさせなかったらドンドンとコストは上がります。そして実際の製作屋は、現場で作りやすい物や使いやすい物ばかりを考えます。これはどこも間違ってはいません。それぞれの部門の使命には忠実です。それ故にお互いは自分のやり易いことや主義主張を重ねます。それを全て満足させようとすると、その矛盾は勢いコストに返ってくるわけです。どうしても高価な製品が出来上がってくるわけです。

そこで一つは「パーツを半分にする」という命題を与えることによって、まずは三者をコンピートさせたわけです。それによって設計を担当する者は、初めて材料を担当する者の気持ちが分かるようになる。そして材料屋は「そうか、現場の製作者はこの様に考えるのか」と分かってくる流れになって行きます。一つの共通するハードルを設定することで、それが契機となって三者のコミュニケーションが初めて成立し始めるのです。それによって最善の問題解決を求める努力が起動し始めるわけです。非常に創造的な動きと言えます。重要なのは、人の創造性というものは、必ずしも好き勝手にやらせておけば自ずと生まれるものではない、自由にさせておけば良いものが出来るというわけではない、ということです。

目指す姿は「自分で計画し、自分で遂行し、自分で統制し、自分で評価する」&「権力者による利害調整」

人やチームはお互いのコミュニケーションなしには、客観性が希薄になって皆がそれぞれに自分の都合の良い主張をすることになってしまいます。これは権限の集中というものが非常に危険と背中合わせになっているということを物語っています。適切な人物に適切な権限が委譲されている場合は良いのですが、そうでない人物に権力が集中した場合、全体から見ると著しくバランスを欠いた状態に陥ってしまうのです。そしてそれは権力への拘りとか有能感への執着といったことによる問題だけではなく、ある意味忠実で真面目な人が視野狭窄に動いた場合や使命感に準じた場合にも起きるということを示唆しています。

この役員は、管理の5機能における原則をしっかりと押さえ、自らそれを果たしています。5機能とは、計画、遂行、統制、調整、評価という働きです。原則では計画や遂行、統制、評価は当事者主義が望ましいが、調整だけは権力が求められると言っています。前記の四つはドラッカーのいう所の目標管理として当事者主義における原則です。自分で計画し、自分で遂行し、自分で統制し、自分で評価するのが最も無駄がなく、精度も生産性が高いという考えです。もちろんそれをするには当事者に応じた能力が求められます。その教育こそが上位者の仕事というわけです。

でも実際の各組織では上が計画し、下に遂行させ、上が統制し、そして上が評価しています。そこには自主性の片鱗もありません。これではいつまで経っても人は育ちません。まず持って当事者という感覚すら芽生えて来ないでしょう。これこそ無能な指揮者のあり様であり、指揮者の責任逃れを自己保身的行動で体現した状態です。

しかし論点は次の方が重要です。調整機能だけはお互いが利益相反する状態の中で、当事者同士での処理は導入的にも困難であり、ここは権力的な介入が必須であると言われているのです。確かに口火を切ること自体、そのきっかけはなかなか掴めません。ことが押し詰まり崖っぷちになってようやく動き出すといったことが多々ありますが、そういった場合は余程の奇跡でもない限り手遅れ状態といった話が累々とした屍の如く撒き散らかされています。

この調整を先鞭することこそ組織にとって上位者がいる意味といえます。この役員はまさにその責務を全うしているわけです。さすが「組織のM」と称される会社と言えます。

残念ながら多くの組織では本来の仕事を当事者から取り上げるだけでなく、肝心の自分の責務を「当事者同士で話し合え」と放棄する指揮者の何と多いことか。管理者が会社を潰すとはこういうことを指します。もちろんこれをお読みになっている皆さんは大丈夫ですよね。

次回は引き続いて組織の暗黙知的な原則である、文化的な側面での普遍的な基本についてお話し出来たらと考えています。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?