• 集団の「空気」〜集団忖度と媒介信念への影響とモメンタム〜 ソモサン第213回

集団の「空気」〜集団忖度と媒介信念への影響とモメンタム〜 ソモサン第213回

ショートソモサン① 空気が集団のモノの見方を支配する

皆さんおはようございます。

かつて日本人の集団主義的な社会を研究した方で山本七平という作家がいました。私の世代では「日本人とユダヤ人」という書籍で日本人を「オアシスの民」、ユダヤ人を「高速道路の民」と表現して日本人の呑気さを言い当てていた話を覚えている人もいらっしゃるかもしれません。この山本氏、もう一つの傑作として「空気の研究」という書籍も残されました。

山本氏は「空気」に対して、「日本はムラ社会であり、ムラには独自の論理や善悪の基準がある」と述べています。そしてこれを山本氏「情況倫理」と解しています。状況とは「特定のもの見方」です。「情況倫理」とは「物の見方に影響を受ける倫理感のことを云います。山本氏は、その対比として、西欧の「固定倫理」も紹介しています。固定倫理とは、「規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさず、それをもって平等に各人を律する。ここにおいての不正とは、人間がこの規範をまげることである」と説明しています。いわゆる情状酌量の余地は一切ないという論理です。

日本は言わずと知れた情況倫理の社会ですから、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまいます。このことは日本の刑事事件をみると一目瞭然です。殺意があったか否かが罪の計量に影響を与えるのが日本の常識です。被害者の悲惨な結果はまったく同じであるにもかかわらずです。

情況倫理について、山本氏は「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」とか、「当時の情況ではああせざるを得なかった。従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ」という考え方を例にとって、「特定の物の見方」に支配された集団に放り込まれたことで、自分も倫理の基準を変えざるを得なかったのだ、という釈明、言い訳をし始めるのが日本人の倫理観だと指摘しています。そして山本氏は、これを一種の自己無謬性、責任が自分にはないという主張だとしています。

そこには「情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態になる」。そしてこの考え方をする者は「同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違い、その違いは各個人の自らの意志に基づく決断であることに起因するが、それを絶対に認めようとしない」と断じています。

集団社会の典型である共同体の物の見方の形成は、参加者たちがその考え方を放置して、反論や批判をしなかったことが一つの理由になります。ということは、情況が生まれたことに対して、それは全員が加担したということと同義になります。例えば、誰かの言葉にあなたが反対せず、別の視点を投じなかったことは、その集団の情況(物の見方)の支配を加速させたということになるわけです。当然中には共同体の物の見方に流されない人もいるでしょう。ですから集団の情況にのみ込まれるか否かは、実は100%個人の決断であり、賛同した人にとって、結局は悪いほうに倫理基準を変えた自己の責任を情況のせいにしているだけなのです。

ところで山本氏は厳密には状況と空気は違うと説明しています。例えば、「当時の情況ではああせざるを得なかった」という物言いに対して、「当時の空気では……」「あの時代の空気も知らずに……」という人がいる。一見この論理は同じように映るが、実は言っている内容はその逆である。情況とは当時の実情すなわち、対応すべき現実のことを指している。だから例のような話は、実は空気の拘束ではなく、客観的情況、客観的情況と称する状態の拘束を意味している。つまり山本氏からすれば、「空気」とは「ある種の前提」ですが、「情況」とは「その前提を起点にして形成された、集団の物の見方」ということになります。

この二つの最大の違いは、「空気」は暗黙知が前提であるときに使う場合が多いことにあります。戦時中の日本の無理な作戦が「空気」によって決定されたことは「失敗の本質」などで有名ですが、それは、戦陣訓などによって「生きて帰ることは許されない」といった軍部上層部の“前提”が起点となっています。

しかし「死ぬこと」が作戦の目的であるなど、公の場やそれが身内の関係者の前であっても口が裂けても言える話ではありません。そのために、空気(前提)から発生した情況「この作戦だけは不可避である」という大義名分だけが外に出てきて、集団の中で連呼されて次第に支配的な考え方にさせられるということになります。

これは良くある話です。大きな共同体の中で、ごく特定のムラだけに都合のいい前提など、公表できるわけがありません。特定のムラと共同体全体で、大きく乖離している前提を正当化しようとすれば、全体側から激烈な怒りが生まれるからです。だからこそ、空気は隠蔽され、物の見方(情況)だけが外に出てくるのです。

山本氏は情況を、「当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである」と述べていますが、情況は「作戦の実行は不可避である」など、会議の席などで支配的な意見として続々と表面に出てきます。情況は空気のように隠蔽されず、対応すべき現実が圧力として目の前に迫ってくるのです。“空気”そのものの論理的正当化は不可能だからです。

これは丁度認知心理学における「認知」を形成する「自動思考」に潜む外側的な「媒介信念(バイアスやルール)」と更にそれを左右する根っこである「中核信念(スキーマ)」と同じ構図を示しています。集団的認知心理とでもいった所でしょうか。認知心理学の説明はこれまでも何度かさせて頂きましたので、今回は軽く概要を紹介するのみにしますが、認知とは「人が物事や情報に対して想起させる考え」であり、自動思考とは「これまでの人生的な学習や経験から咄嗟に認知として浮かびあがる想念」を云います。そして媒介信念とは「『ねばならない』といった自動思考の中身としての心の拘り」であり、中核信念とは「媒介信念の理由となる、

『何故ならば』といった刷り込み、いわば本音」を云います。今回の場合、媒介信念が情況倫理であり、中核信念が空気ということになります。

ショートソモサン② 私たちの内面はハッキングされている?

さて、集団圧力や私の云う「集団忖度」は、この空気と情況倫理に酷似するとことが多々があります。

それは例えば、ムラを軸とする集団社会によって形成された中での組織の構成員にされた人たちは、「自分たちが群れて付和雷同することによって出来上がる集合的な場の情報(場の空気)によって、本来内面に合った認知(自動思考)の状態が別の(自動思考)状態に切り替わってしまうことがあるということです。これは特に地方の中小企業や協同組合にも多いですし、学校でもあります。その典型が「いじめの構造」です。

「同胞」という群れの場の情報が個をとびこえて心理内部に入り、認知(自動思考)状態が変化した。組織内で発せられる「それってうちでは常識じゃないの」という発言は、群れに「寄生され」て自動思考が変化させられる曖昧な感覚をあらわしています。まさに山本氏が描写した情況倫理とほぼ同じ構造です。学校の場合、生徒たちは閉じられた共同体で、ある種の前提を共有していき、次第にその前提から発生する「物の見方」に染まっていくわけです。

すると「集団がどのような考え方をしているか」で、生徒たちの倫理基準も変わってしまう。自分で倫理基準を保つ訓練をしていないと、集団の情況(物の見方)に感染してしまい、自己の倫理基準を乗っ取られてしまうということになります。忖度、パワハラ、同調圧力、いじめ、ネット炎上、無責任主義……なぜ、日本の組織の多くが息苦しいのか。会社から学校、家族、地域コミュニティ、ネットまで、日本社会が抱える問題の根源には「情況倫理」という屁理屈を隠れ蓑にした「空気」という妖怪が存在することが主因だと私は考えています。それは明治維新、太平洋戦争、戦後の経済成長にも大きく作用し、今日もまったく変わらず日本人を支配する「見えない圧力」となって日本人の心に多大な影響を与えています。そして「心の勢い」たるモメンタムの発動にも大きな影を落としているのです。「自分の見方」は集団忖度、「空気」の力によってやがては乗っ取られてしまう。

これを打開するには、その集団に所属する過半数の人がその存在を意識し、集団的なモメンタムを発動して変えていく以外に手立てはありません。皆さんの所属する様々な組織は如何でしょうか。

 

ショートソモサン③  空気を変えない選択をしているのは誰か?

先だって「キング・オブ・コント」という番組内で優勝者が司会者からいきなり「ビンタ」される場面がありました。後日その人たちは「泣きそうになった時にそのビンタで活を入れられ平静を保てた」とコメントしていましたが、SNSでは「暴力ではないか」と騒がれたそうです(継続中)。この司会者昔から人をポカポカやるのが芸風で、それで大阪の芸人筋では有力者に伸し上がったという経歴があります。昔はドつき漫才とか言って、人を蔑むことから視聴者に優位感を持たせることで笑いを取るという風潮がありました。しかしその構造は、あくまでも世の風潮が「イケイケどんどん」で優劣がモメンタムの源だった空気、倫理情況が背景にあったと思います。

しかし先週も取り上げましたが、今はマジョリティシフトが起きています。東京の芸人でもそういった暴れるのを売りにしていった大御所が次々と一線から外れ始めています。そう時代が変わったのです。

でも空気はなかなか変わりません。先の場面を擁護したり忖度する芸能界の上下関係や、立場ある人たちの大いなる空気劣化は視聴者離れを生むばかりです。

ちょうど日曜の朝の番組でその用語的なコメントを見たとき、私にはある場面が頭に浮かんできました。

社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』の中にある一場面です。そこには加害者側の生徒が、クラスの空気を読みながらいじめを始める様子が描かれています。

加害者の生徒たちは、亡くなったA君がいなくても何も変わらないと強弁します。しかし、あるクラスメートがA君の机に花を飾ろうとしたとき、加害者の生徒たちは反応します。

ある生徒は、教室でA君の机に花を飾ろうとしたクラスメートを「おまえは関係ないやん」と追い返した。

A君を自殺に追いやったいじめの加害生徒たちは、なぜ1本の献花を嫌がったのでしょうか。A君の机に花が置かれることで、A君が二度と戻らないこと、重大な犯罪が行われてしまったこと、A君が亡くなった悲しみがクラスに広がるからです。

この場合、献花でA君が亡くなったことが意識され、クラスが悲しみに包まれると、生徒たちの「物の見方」が変化します。すると、加害生徒の犯罪の重大さが認識されることになります。

それまで加害者たちは、A君の自殺を知らされた後でも、「死んでせいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などとふざけて話していました。

クラスの情況(物の見方)が変われば、過去の空気は一瞬で崩壊します。上の言葉は、加害者がクラスの“情況”の変化を恐れていることを暗示しています。同時に加害生徒たちの驚くほどの狡猾さ、ずる賢さも示唆しています。

私的にはお笑い界やテレビ界の中での既得権益者たちが、これまでの空気を守ろうとする動き、“情況”の変化を恐れている動きと同じ空気を感じています。これは企業や協同体の組織においても同様です。

モメンタムを潰そうと働く空気の力、情況倫理へ如何にアプローチしていくか、組織開発の壁はそこにあると嘆息する毎日です。

さて次回も「モメンタム」に纏わる内容について、現在進行形の情報提供をしていきたいと思っています。

次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?