認知相違を生み出すバイアスについて考える

人の判断は時折合理的でない場合があります。その原因として考え足らずの浅はか、率直に言えば軽薄というのがあるのですが、浅はかさとは必ずしも思考能力の低さや弱さだけに原因があるわけではありません。

例えば、「自分はどうも雨男だ。イベントの時はいつも雨が降る」と嘆いたり、誰かが異例の昇進をした時、「やはり彼は国立大出のエリートだから」と決めつけたり、中には緊急事態宣言下でも「自分は大丈夫、自分は死ぬことはない」とばかりに街に出歩いてマスクもせずに大声で喋りまくるといったように、さして具体的根拠があるわけでもないのに何らかの思い込みが衝動的に湧き出て来ることによって、平然と逸脱行動をしてしまう人がいます。

日頃は熟慮して非常に論理的に意見を述べる人でも、時にこういった発言や行動をすることが良くあります。ここで登場してくるのがバイアス、認知バイアスという世界です。ある種の錯覚や錯誤です。

 

人の認知を構成する認知バイアスと心理バイアス

バイアスには「万人に共通する生理的なもの」と「個別に起きる心理的なもの」があります。生理的なものは脳の持つ特有の働きによって生じる作用を云います。

人間の脳は他の動物に比して非常に高度な処理能力を持っていますが、それでも社会的な環境情報を処理するには限界があります。人はそういった状態をできる限りうまく切り抜けるため、脳の処理活動に様々なショートカットの仕組みを入れ込んでいます。

この仕組みを使うことによって人は判断の処理速度を高め、社会的な適応行動の精度を高めようとします。

しかしショートカットの仕組みは確かに判断に至る時間は早めますが、必ずしも応じてそれが正しいわけではないという別の問題を引き起こします。それは判断結果に一定の偏り(バイアス)が含まれることを余儀なくされるからです。

つまりショートカットの仕組みは日常活動上では多くの場合効果的に作用するのですが、時に誤作用する時があるということです。その時に生じる現象を生理的な認知バイアスと云います。

 

例えば人が持つ、光景の把握に対する視覚情報の処理速度は10秒間で全体像の2%程度ということが分かっています。また視野も目に入るのは100度位ですが、脳内で認識記憶できる中心窩(ちゅうしんか)は数度と云われています。それを補うために人の目は始終ぐるぐる回ってものを注視しようとするのですが、それでもその能力にも限度というものがあります。

ですから極言すると人は瞬間では殆ど何も見えていないのに等しいことになります。まさに「人の目は節穴」なのです。でも人は何故か見えていないものが見えている気になる場合があるから不思議なものです。

 

また人の記憶能力にもいくつか欠陥があります。よく見てもいないのに見た、とか経験してもいないのに経験した、と思ってしまう誤認などがその代表です。

実は記憶は何らかの情報操作によって容易に書き換えられるのです。それでも人は自分は間違いなく物事や出来事を記憶していて、それは間違いない事実であると主張します。

この極みが目撃情報の誤認です。こういう例があります。

ある人が暗闇で襲われました。いきなりですし、暗闇なので実際には顔は見えていません。ところが事情聴取の時にこの人は犯人の顔を見たというのです。

さらに犯人は自分が快く思っていなかったある一人の同僚だというのです。後での話ですが、被害の直後に「彼ならやりそうだ」とか「この状況でやれるのは彼しかいない」「犯人は多分彼だろう」といったことが頭の中に浮かんできて、そうすると何となく彼の顔が見えたような気になったのだそうです。

それが名指しをした理由だったそうです。しかも聴取時においては彼的には間違いなく同僚の顔が見えたと確信していたのだそうです。

このケースでの同僚は確固たるアリバイや状況検分で顔が見えるはずはないということが認められて助かりましたが、世間ではこういった歪んだ証言で冤罪になるケースが後を経ちません。本当に怖い話です。この場合確かなことは彼の記憶は感情優先のバイアスによる想念で事実が書き換えられてしまったということです。

 

様々な認知バイアス:利用可能性ヒューリスティック・確証バイアス・代表制ヒューリスティック・ステレオタイプ

脳活動において記憶にもメカニズムがあります。

例を挙げますと、人はよくある情報、目に付きやすい情報、頻度の高い情報は記憶されやすく、記憶された情報は想起し易いということがあります。

そのため人は思いつきやすさ、思い出しやすさでそれはよくあることだといった物事を偏って判断する習性(利用可能性ヒューリスティック)を持っています。

ヒューリスティックとは人が何らかの意思決定を行うときに、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことです。これらは、経験に基づくため一般に経験則とも云います。

また人は自分が正しいと考えていることを確証してくれるものにばかり注意を向けたがるという脳内ショートカット処理の仕組みを持っています。そのため人は自分の考えに対して、一旦想起した内容において肯定的な立証はしたがるが否定的な立証(反証)はしたがらないという無意識反応を取ってしまいがちな習性があります。これを確証バイアスと云います。

 

このように書くと難しく感じられますが、昨日ある企業での会議で面白いことがありました。

プロジェクトチームが新規事業の創案を発表する準備をしていたのですが、見ているとどうもマーケティングプランに脆弱さが見られます。このチームは製造畑出身者が多く、どうしても「良いものを作れば売れる」的思考が強く出てしまう所があります。

そこで彼らに確証バイアスの話をして人はどうしても自分が是とする内容に注視してそれを補強するように連想をするから気をつけるようにとアドバイスを送りました。

ところが面白いことに、彼らは「うんうん」と頷いていたのにも関わらず、その直後からまたまたアドバイス以前にやっていたプロダクトの性能話に傾注し始めたのです。

ごく自然にごく無意識に。これこそ確証バイアスの為せる力です。確証バイアスは日常のいたる所に潜んでいるのです。

 

このように人は日常の複雑で俊敏さを要求される情報処理をスムースにこなして行くために脳内でバイアスを含めて様々な利便的な作用を行いますが、このバイアスがかえって問題を生み出すことがあるのは前述の如くです。

その際たるケースが経験則上で同じようだと判断した特徴を持つ情報を十把一絡(じゅっぱひとから)げに括ってしまうカテゴリー化という働きとそれを用いて未知に対しても予測をしようとする時に働くプロトタイプという特徴の平均化を梃子にしようとする思考習性がもたらす弊害です。

これを代表性ヒューリスティックと云いますが、一般にはこの顕著な状態をしてステレオタイプという言葉で知られています。これはプロトタイプの代表としてのものの見方や観念が、特定かつ固定的で紋切り型化したイメージになった状態を云います。

例えば「日本人は出っ歯で眼鏡をかけている」とか「着物を着て芸者遊びをしている」などといった発想です。人はこのバイアスによって未知な人に対してその人の属性に関する画一的なイメージを会ってもいないのに勝手に描き、それによって判断・評価する習性があります。

これが差別や偏見を生み出す促進作用となっています。ここに集団相互作用が働き集団思考が起きるとそのバイアスは加速し増長することになります。

ここから脱却する方法の一つは、まず人にはそういった習性があるということをしっかりと認識した上で、事実ベースで思考する習慣を身につけることです。

 

関係性問題の起点は心理バイアス(認知バイアスは促進システムに過ぎない)

生理的バイアスには様々な形態があります。コギャル法ではもう少し詳しくご説明させていただきます。

しかしコギャル法において対人や集団活動を円滑にしていく上で最も重要なのは、心理的バイアスの方です。生理的なバイアスはあくまでも心理的なバイアスの促進的作用をする器のようなもので、本質はその深層に根付く偏見や差別を想起させる思想観、言わば心理的バイアスへのアプローチになると捉えているからです。

確かに浅慮による軽薄なものの見方や捉え方とかステレオタイプのような生理的バイアスに触発されたり増幅されたることによって偏見や差別は助長されますが、何よりも何を持ってジェンダーへ着目し認知を初期設定させたか、障害に対して初期設定をさせたかの方が認知やバイアスの起点として解明し調整されなければならないクリティカルなポイントです。

民族や人種、宗教などもそもそもとしての忌みがあって、それを生理的バイアスが強化させているのが実態です。

 

そこには知性を超えた感情的、むしろ情動的なモチベーション反応が関わっています。そしてその感情には権力関係に属するそもそも論があります。果たして私たちは建前では平等とか平和とか生産性を標榜しているにも関わらず真摯に認知調整に対峙して取り組もうとしているのでしょうか。

 

次回は心理的バイアスの世界に踏み込んでいこうと思います。

日常の私たちにとって最小公倍数的主題なのはハラスメント問題、そして性差やジェンダー、そして障害者に対する偏見や差別であることは間違いありません。その構造が分かれば順次宗教、民族、人種も類推できることも確かです。

 

ということでまずはハラスメントについて言及することから順次踏み込んでいくことにしましょう。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?