認知障害とその問題が組織にもたらす災いを考える

認知の意味を正しく整理しよう~人の認知=意識という正しい理解を妨げる語句の乱用~

少し難しい話からのスタートで恐縮ですが、お付合いください。

 

「認知」という言葉があります。認知とは「人が自分以外のことがらを知覚した中で、それが何かを解釈したり判断したりする働きのことで、「意識」と同義に捉えられています。しかし一般にこの二語を同義と認識している人は非常に少ないといえます。これが意識という存在を扱う上で様々な障壁を生み出しています。認「知」という字を見る限りでは、知能を意味する言葉と捉えてしまいがちになります。

しかし実際の認知は、解釈や判断といった知能に関わる働きの前に「知覚」するという働きがあります。知覚とは出来事や気持ちといった刺激を感覚として察知して、その刺激に自覚的意味づけを行う働きです。つまり認知には第一に情報を感覚として察知するというアンテナの働きがあって、その後に思考として解釈するという働きが出てくるということになります。

思考は知(※)に属する領域ですが、感覚の察知は知能ではありません。これは感受性に関わる情(※)の領域です。このことは認知が知ではなく、知・情併せ持った「意(※)」の領域に座する言葉であることを意味しています。これはとても重要なことです。

※人のこころは知・情・意の3つの要素で構成されています(詳細は下記ブログを参照ください)。

武器としてのこころリテラシー【2】~こころのLIFTモデル(前半)~

 

これまで何度となく「発達障害」という用語を使って来ました。発達障害とは主に脳機能における機能不全によって社会生活に支障が出ることですが、一般には知能障害と区分けして主に他人とのコミュニケーションに稚拙さが生じることから人間関係に問題を抱える面を指す用語になっています。この「発達の障害」という発生している現実の問題と直結しない意味不明な用語のあり方が世の中の無理解を助長していることは否めません。

正確には「汎用性発達障害」といいますが、この用語を使うとますます意味不明です。いずれにしてもこういった用語使い自体が、影響が大きい大切な問題にもかかわらず、いかに社会がタブー視してぞんざいに扱ってきたかの証だともいえるでしょう。

 

知能障害は明白です。思考能力の優劣の問題で、解釈力や判断力といった働きに直接影響して社会的な生活に様々な支障をもたらす障害です。その為社会としての捉え方も周知された現実として認識され、社会活動上でも様々にケアされています。

しかし発達障害はどうでしょう。非常にあいまいとした扱いです。社会的に周知された事実認識とはいえず、社会的なケアも殆ど為されていません。そして現実の社会活動で自他ともに様々な苦悩や弊害を生み出しているのが実際のところです。

 

先天的な障害においてもいい加減な扱いですから境界性(障害と云えるか健常といえるかの端境領域)となるともっと玉虫色です。知能障害などは医学的な判断材料も充実しており、その度合いに応じて実社会での活動に対するケアも丁寧に為されていますが(それでも十分ではない)、発達障害においては野放しの状態です。判断基準が明確になく社会の関心も低いため、本人自体に自覚がなく、それが社会活動で様々かつ深刻な社会問題を発症させているのです。

 

最近では89歳で事故を起こして若い親子の命を奪った老害事件です。本人は「自分は悪くない。車の問題だ」と主張しているようですが、あれも明確に「認知症」とは云えませんが端境的な境界性の起こした事件と云えます。また後述もしますが、怖いのは彼が元技術院のトップであったという知能偏重主義に基づいた偏見による社会の取り扱いです。

 

知に偏重したトレンドのバッドスパイラル~「認知=意識」を軽視し続けた末路~

さて、では具体的にはどのような弊害が起きているのでしょうか。

発達障害は、私の定義では「認知障害」です。「意識障害」といっても良いのですが、これだと「意識朦朧(もうろう)」とごっちゃにされるので私的には「認知障害」の方が良いと思っています。

 

皆さんも「認知症」とか「認知バイアス」といった言葉を耳にしたこともあると思います。認知症は出来事や人の気持ちが察知できなくなったり、判断できなくなったりする脳の障害です。認知バイアスとは何らかの自己定義(思想や信条など)によって見方が偏っていたり、察したことの解釈が偏ったりする作用をいいます。この偏りや欠落が先天的であれば発達障害であり、原体験による後天であれば愛着障害ということになります。

そしてその度合いによって境界性の問題が生まれてきます。日本人は集団主義による排除の論理が染みついており、白黒つけたがる習性がありますが、知能障害同様に認知障害も社会生活上支障があるか否かの端境があります。ですから本当であれば個々人が自分の認知力のレベルを知能同様にしっかりと認識していることが社会生活をウェルビーイングに送っていく上で最善であると云えます。

また社会もそういった能力がもたらす様々な問題をきちんと認識して、まどうことなく冷静に対処していくことが望ましい状態であると云えます。

 

この認知障害の中でも最も中核なのが人や状況の気持ちを認知する側面です。状況を察知して、人の気持ちを察知して、社会人としてより良い状況を生み出すように解釈、判断する能力の発達状態です。社会を維持していく上で必須である人と良好な関係を作っていこうとする心根が未発達(先天的欠損と修正可能な後天的教育弊害がある)な人材が知能一辺倒な社会的判断軸で一定の権力を握った時に生じる社会の歪みを皆さんは真剣に考えたことはあるでしょうか。

 

最近東大生の多くに発達障害の兆候が見られるといった記事が出たりしていますが、東大生のみならず社会で一定の知名度や権力を持った人が「人でなし」のような振る舞いをするケースを目にするにつけ寒々とした思いに包まれます。恐ろしいのはその振る舞いに本人としての自覚がないということです。

そして権力を勘違いして誤った行為に対しても「虎の威を借る狐」のようにそれに加勢した振る舞いを行う愚集の見苦しさ。これは主にネット社会において「正義警察」と名付けられた知能レベルの足りない輩に多く見られます。

 

私的には最近飲食店で口論となり、それをネットで復讐のようにバッシングした某有名人などは「認知障害」の一例ではないかとみています。MBA出身とか知能では社会的地位を築いていますが、すぐに感情的になったり攻撃的になったり、対人的にネガティブで全てを自己正当化する姿は、過去に暗い影があったことによる愛着障害か自己否定感が強い疑似認知障害者に映ります。人に優しさが見られない人はバッドビーイングです。人を愛せない、大事に思えない。敵対視しかできない。 そしてお金しか信じられない人は何となく似たような振る舞いが映るのは偶然でしょうか。

私にはトランプ大統領にも同じにおいがするのですが。こういう人は権威に拘ります。力でしか人間関係が築けない人、論理でしか人と対峙ができない人は私には本当に悲しく映ります。

 

そしてそういった人の病的と云える(本当に病気かも知れません)認知的な偏りを、無知や低知能によって思考力も判断力もなく権力を妄信して弱いものバッシングする愚集。こちらの方が日本の未来を寒々とさせます。

論理力がないがゆえに論理力の限界がわからず論理力にへつらう社会の風潮。知能コンプレックスゆえに権力者に物申せない弱さが先に立つ意のない若者たち。 それを後ろ盾に自己正当化して偏った自己肯定感を高めようとするパワーエリートと云われる高学歴者たち。何かがどんどんズレていっている感があります。

今必要なのは「知」の人材ではなく「意」の人材である

ともあれ知能が高ければ発達障害でも優秀と見る無意識な偏見が歪みの度合いに拍車をかけていっているのは確かです。その典型が採用です。

学歴主義で履歴書や知能優先での採用。そこに認知や意識の粋である人間性は考慮されません。そして一見知能はある、論は立つ人材を最優先で採用という運びになります。社会的に権力を持つ組織ほどがその度を強く活動します。あげく人間性に問題ある人材は度外視で大量採用されていきます。

こういって採用された人材が職場内で学歴的にあるいは論理的に出世するほど今の企業は甘くはありません。しかし絶対数が少ないという隘路に嵌まります。またこういった企業はついこの前まで前例踏襲でも業績は伸長して判断的な権力者は上層部に滞留しています。官公庁など未だに寄らば大樹の陰人材が中堅くらいまでを占めています。

 

また無意識の偏見は、群れの心理が増長します。いわゆる「同じ匂い」という奴です。私は30年程前日本興業銀行というところで仕事を頂いたとき、中山素平さんの最後の世代と云われた部長さんからこのようなコメントを頂いたことがあります。「このままでは担保主義でこの銀行が成長した証である人に金を貸すという文化が萎んでしまう。そこで採用時に履歴書を見ないで面接から始めることにした。ところが現場に面接させて上がってきた人材を改めて履歴書で確認すると90%が東大だった。気が付くと面接官も東大卒ばかりだった。これが気質というものかと思い知った。」

その時担当者の一人に早大卒がいましたが「同期の殆どは皆大学時代から知り合いで、なかなか本音で親しく話せる人がいなくて」と云われていました(これも彼が私に同胞意識があって言葉が漏れた感がありました)。そう空気は空気を呼びます。こうして企業(特に官庁)は同じ色に染まっていくわけです。

 

こういった風潮や規範(無言の空気的な圧力)がある中で、論理よりも人間、知よりも意と云ったところで詮無い話です。まして本当かどうかは分かりませんが、発達障害の気が高いといわれる高学歴人材の発達障害とは思えないような上にならえ、長い物には巻かれろ的な採用結果。

こういった人材を取り揃えて、それを教育で何とかしろと教育担当は振られてもどうしようもありません。同じ空気の中で問題意識もなく教育を流しでやっている担当もいるでしょうが、当然問題意識をもってやっている担当も多いわけです。しかし問題意識が多ければ多いほど苦しむことになります。

知能と同等に大事な「認知(意識)」。この開発は今や必至のところになっています。貴方の企業内にも影で病んだりネットで悪さをしている人が潜んでいたりするかもしれません。

 

今はその人の人間性が先天的な問題なのか後天的な問題なのかすら関心を向けていない社会状況です。後天的ならば手が打てます。しかしそれも40代を過ぎると固定化して手遅れになっていきます。そしてそういった人間が偏った人事管理システムや評価で管理者になり、リーダーになったときに悲劇は一挙に起こります。ウツ。自殺といったメンタルヘルスの崩壊。誹謗中傷の歪んだ人間像。アンコンシャスバイアスやハラスメントの横行。

これらを対処療法だけでお茶を濁そうとし、本質から目を背ける一部の組織。これが大手であればあるほどその悪影響は大きいものです。

時代は閉塞状況です。打開するのは創造性とウェルビーイングでエンゲージメントな関係が構築できている組織風土や集団規範を持った前向きな勢いしかありません。真の問題は内憂外患です。

 

今やるべきは目先の能力ではありません。その能力を受け入れて使おうとする思いや気概のある人材の開発です。それをバックアップする職場の雰囲気です。そしてそれを作ろうという気概を持ったリーダーの開発です。

打つべき手を間違ってはいけません。

 

さて、皆さんは「ソモサン」