武器としてのこころリテラシー【2】~こころのLIFTモデル(前半)~

みなさん、こんにちは。

 

本日のテーマはこころのとらえ方です。先日からこころのリテラシーを高めよう、ということでご案内をしています。

▼前回のブログはこちら▼

武器としてのこころリテラシー【1】 ~序論~

※なぜ「こころの問題」をことさら取り上げねばならないのかについては、またどこかで詳しくお話したいと思います。

これまでも当社代表恩田のブログ「ソモサン」で折に触れて語られておりますので興味のある方はこちらもご覧ください。

人痴(にんち)か発達障害か

チープアダルト人材が招く社会的影響とは

 

 

さて、「こころ」といった時に皆さんは何をイメージされるでしょうか?

 

こころというと

 

・この人のこころが通った対応に温かみを感じる

・形は整っているが、こころが入っていない

・あの人のこころない一言で傷ついた

・人間大切なのは外見ではなく中身(こころ)だ

 

などさまざまな文脈で使われます。

「こころ」とは物事の表面だけではなく核心に近いようなものだというニュアンスが感じ取れます。私たちの核心ですから、それがなくなっては私たちは自分が自分ではなくなってしまうような、私たちそのものを成り立たせているもの。あえて言葉にするとそれがこころのイメージではないでしょうか。

 

このように自分を自分たらしめているこころですので当然、これが良い状態であれば、より自分らしくいられますし、悪い状態になれば、ありのままの自分らしくはいられなくなるということになります。しかし大変残念なのですが、それは目に見えません。そのためにこころが大切だとみな頭ではわかりながらうまく扱う術を知らないというのが現状ではないでしょうか。

 

人間らしさ、自分らしさの根幹なので、こころの問題は古来から人間の思索の的でもありました。人間のこころの要素に対する洞察で代表的なものが西洋の代表的な哲学者であるエマニュエル・カントが唱えた知情意の3つの要素です。

 

人間のこころはこの3つの要素が複雑に絡み合って形作られていて、この3つの要素の働きがあるからこそ物事を認識し、それに対して反応が生まれるというものです。

~知・情・意の働き~

まず知の機能ですが、その名の通り「知る」という働きの主軸となります。何かしらの情報を知り、因果関係の論理的分析・整理を行い、知識や経験・記憶として私たちの身体の中に情報を蓄積させています。私はいわばこれを情報のデータベースのようなものだと捉えています。

 

複雑に、目まぐるしく変化していく現代において、私たちが時代に取り残されず、人材としての価値を落とすことなく、サバイバル・成長していくうえで知が大切だといわれます。前回のブログ記事(リンク)にも書きましたが、今は情報爆発が起こっていると言われます。その中でこれまでの知識はものすごいスピードでコモディティ化していきます。

そしてまた新しい価値を作ろうとして、私たちは日々流れてくるニュースなどのマスメディアやツイッター・フェイスブック・noteなどの個人情報メディアのユースフルな情報をチェックし、仕事に活かしたり、アンテナを高めたりしています。いわゆる知的武装をしているわけです。このあたりは知の部分に働きかけようという話なのですね。

 

基礎的な知識や知識を整理していくための四則演算的な論理思考は自分の中の情報を増やす意味でも他者と何かを共有し分かり合っていく上でもとても大切です。そのため学校教育でも(少なくともこれまでは)この知の部分が重視されてきました。

 

ですがここで一つ疑問がわきます。仮に持っている知識や論理思考力が一緒だとしたら人は同じ結論を導くようになるのでしょうか。論理思考は112になるように基本的には誰もが同じ結論にたどり着くいわば普遍法則的な思考です。誰が計算しても基本的には112なのです。ではその思考力が一緒で持っている知識が一緒ならば同じ結論にたどり着くはずではないのでしょうか?

 

これは皆さんどう感じるでしょう?おそらく何かに少しでも真剣に取り組んだことがある人ならば「そんなわけないだろう!」「それができたらこんなに無駄に長い時間会議をやってねーよ!」と感じるのではないでしょうか?

 

※ちなみに恥ずかしながら今振り返ってもとんだ「勘違い君」だった自分のことを思い出します。幼きころ(とはいえ大学入りたてくらい)の話ですが、世の中の難しさや人の苦労などついぞ知らなかった私は、普通に、かつ無邪気に、「持っている知識量がそろえば論理的に思考すれば大体結論は同じになる、それが人間なのだから知識量と思考力をある程度揃えれば大体分かり合えるといえるのではないか?」と本気で信じていました。

学生時代は人並みにサークル活動でステージパフォーマンスを創作する活動に精を出していたのですが、こんな勘違い具合なので、友人との話し合いにバシバシ切り込みをいれていき、彼らが知らないことがあると思えば情報提供をはじめ、意見が分かれそうなことがあると論理的に妥当そうなことをいち早く見つけみんなを説き伏せようとし、反論があればそれを理屈全開でねじ込もうとしていました。

ご想像の通りで当然みんなから反発を食らい、世の中論理だけじゃないなということを曲がりなりにも体感したわけです。年月がたちこの仕事を始めるとさまざまなビジネスパーソンと数限りなくお会いする機会があります。失礼ながら昔の自分を見ているかのような印象をもってしまう方が結構いますが、それはまた別の機会に書くことにします。

 

 

では一人一人の意見や考えの違いはどこから生まれるのでしょうか?そこで白羽の矢が立ってくるのが意という存在です。意とはよく意志とも解釈され、知に命令を与えたり、情の働きを抑えたりするものだといわれています。一般的なイメージでは、やや道徳的なイメージや高邁な精神の話をイメージするのではないでしょうか?たしかに意を意志とだけ解釈するとそうしたイメージと直結し、意志が強い・弱いという基準が持ち込まれます。

しかし知が一緒でも考えが違ってくるのは同じ知識に対してもそれに対する意味づけが変わってくるためという点を考えると、意とは、同じ知でもそれをどのように活用していくかというような「方向付け」的な機能を持つものだといえます。知に意味を与え、活用の方向性を与えるものです。

 

つまり、意とは価値観をはじめとしたその人が持つ観念や信念の体系(その人がものをみるときの世界観)のようなものだということができます。もっと平たく言えば、その人が世界をみるときの「とらえ方のパターン」のようなものです。システムで言うとアルゴリズムのようなものと言えるでしょうか。意と知が関連しあい、データベースに入っている知識や記憶に意味付けがなされ、思考したり、判断が出来るようになったりするという訳です。

 

 

では情はどうでしょうか。情とは言葉のイメージ通り人の気持ちや感情を生み出すものと言われています。ちなみに人間も動物である以上、動物として持っている本能的な情動のようなものがあります。しかし人間がもつ感情は情動以上に複雑なものだと言われていて、この領域は日進月歩でさまざまな研究が進んでいます。

最近の脳科学分野の研究では、感情の体験には情動と認知の双方が必要とされることがわかってきました。つまり人間独自の感情にも、上記で説明した自分が「世界をどうとらえるか」という意の領域が介在するということです。つまりは意と情が相互に反応することで感情が生まれると言えます。その意味では情というのは感情になる前のより原始的、本能的な情動ということができます。そして古来より人間は本能的に危険回避していくことによって生き残ってきた事実を見ると、情動は行動や生存のためのエネルギーとなるものと言えます。

ちなみに心理学・心理療法の領域でも人は同じものをみても異なる思考をし、異なる感情を持つということはABC理論(A出来事、B信念(とらえ方)、C結果の3段階があるという考え方)でも提唱されていて感情の問題を扱うための有用なモデルとして広く浸透しています。

 

~小まとめ~

まとめますと、こころを構成する3つの要素は下記のようにとらえることができます。

 

◆知=情報のデータベース

◆情=生存(行動)のエネルギー

◆意=信念・解釈のシステム

この3つが複雑に絡み合って思索にふけったり、何かに感動したり、反射的に行動したりと私たちのこころの働きを形作っていきます。

 

 

~後半に続く~

武器としてのこころリテラシー【3】~こころのLIFTモデル(後半)~