• JoyBizが何故モメンタムを重視するのか。今年の納めとしてその思いを語ります~ソモサン第221回~

JoyBizが何故モメンタムを重視するのか。今年の納めとしてその思いを語ります~ソモサン第221回~

ショートソモサン①:日本人の「気概」~マインドフルネスとモメンタム~

皆さんおはようございます。

師走も差し迫った段階となり、今年のブログもこれで締めさせて頂きたく思います。一年間本当にありがとうございました。

関西出身の私は中学時代に三洋電機役員秘書をしていた方が隣に住んでいて、時折お茶をご馳走になっていました。その方が付いていたのが後藤常務という方で、PHP文庫で「こけたら立ちなはれ」という伝記を上梓されていました。当時本の虫であった私はそれを頂いて熟読させて頂きました。当時はわかりませんでしたが、振り返るとその内容こそがまさに「マインドフルネス」を示唆するものでした。その後人気があったのか続編が刊行され、それが「立ったら歩きなはれ」という題名で、こちらも、それこそ「モメンタム」を示唆する内容であり、この二つのセットは言葉こそ知らないけれど、青年期の心に深く刻まれた概念でした。マインドフルネスもモメンタムもどちらも「気概」を表す言葉ですが、これまで日本人的には余り馴染みがありませんでした。私はそれはこれまでの日本人においてはそういった気概が当たり前のように生活に入り込んでいたし、また改めて意識せずともそう動けるレベルでの変化やハードルの存在だったからだと考えています。

例えば大阪には「やってみなはれ」という言葉があります。静岡などでも「やらまいか」といった言葉があり、モメンタムを示唆する言葉は至る地方に存在します。私的にはそれだけこういった概念は日本人にとって身近なものであり、かつ重要な概念でもあり、皆心根ではこういった概念を大事にしていたのだと思います。

それが今更言葉を変えてでも注目されるようになったのはどうしてなのでしょうか。

その一つは戦後の進駐軍による教育施策にあります。知力の啓発に対する教育は強化されましたが、ある種危険思想視された日本における信念体系や道徳的意識といった人間力の根幹が去勢されてしまったことが原因の一つ考えます。以後日本人はまともな道徳教育などを系統だって行っていません。また経済優位での復興政策への傾きによって物質的な豊かさが40年近くも続き、心の豊かさや人間関係の中での幸福に対する考えが脆弱化して、偏った個人主義が蔓延ってしまったことも一因だと考えられます。今の日本人、特に70代前後人たちはフォローウィンドの経験が基軸で、アゲインストウィンドの経験が少なく、心に耐性が備わっていない方も多いよう見えます。これらによって先のような気概を表す言葉はおろか、気概自体がひ弱になってしまったのが現代日本の現状だと私は見ています。

ところが2000年代に入り、日本はグローバルレベルでのダイバシティの進展を経験し、ビジネス環境もどんどんアジャイルになり、かつての明治時代のそれをはるかに凌駕する変化として襲い掛かっている状態です。完全なアゲインストの状態です。当然これまでは、気概といった概念をスルーし安直な意識概念でいても享受できていた生活や未来が、ある日ハッと気づくと見えてくるのは尻すぼみかサドンデスといった闇の景色。多くの人が相当の心の疲弊や病を患い、社会全体がそうした空気に包まれるつつあるようにも見えます。このままでは、先には絶望しかありません。何とかするにはどこかで気持ちを切り換えて、再起するために気力を充填するしか動きは出てきません。

ショートソモサン②:「気合い」とは何なのか?

しかしてその方法は?これに対する回答が今社会には求められているのだと思います。そしてそれがマインドフルネスやモメンタムが注目されてきている最大理由だとみています。

ところで日本人、特に若者にとって「やってみなはれ」「やらまいか」をもたらすために、今最も必要な力としてマインドフルネスとモメンタムという心の力の概念をご紹介しているわけですが、このモメンタムという言葉、日本語としてそれにピッタリくる適語がありません。しかし同じではありませんが日本には同義語的に「気合い」という言葉が存在しています。「気合い」とは「あることに精神を集中してかかるときの気持ちの勢い」という意味で、日本の場合は主に「呼吸や掛け声」を対象としてます。モメンタムはそれだけではなく「心の奮起」ですので微妙に食い違いがあります。でも実はこの「気合い」。逆に欧米にこれに同じくする言葉もないのです。ということでそうした全体感を見渡して大きく括りますとモメンタムに最も適する用語は日本では「気合い」というのが最もふさわしいと思う次第です。

また先週「やる気」という話題もしましたが、日本でモメンタムに該当する「気概」は、内発的動機として使われる「その気」という言葉の方が適しています。人を「その気」にさせる「気合い」に該当するのがモメンタムということになります。

さて、私は巷で個人的に「石田J1の定理」という概念を提唱しています。これはサッカーの話ではありません。ある芸能人の動きをモチーフにした概念を云います。意味は「知性と意性は別物だ」ということで、それを分かりやすく表現したものです。何故それを提唱するかと云いますと、日本から「気概」の醸成が失われていった原因である学校教育の歪みによって、「心」に目を向けなくなった日本人が、ついには心の成り立ちするも分からくなってしまった、そうした人たちが増えてきたことへの憂慮が挙げられます。

皆さんの中でもカントや古くはプラトンが定義した心の要素としての「知情意」と表現した心の三元素のことは耳にされた方は多くいらっしゃると思います。知とは知性、知力といった「考える力」のことです。また情とは感受性、気力といった「感情や情念」のことです。そして意は意志力や人間力とか「品格や信念体系といった心構え」を指しています。集団社会に依拠する人が生き続けるにおいて、他者との関係を円滑かつ生産的に過ごすにおいてこの三要素は相互に影響しながら三位一体的に不可欠な存在と云えます。ところが実際の現実社会ではこのどれかが欠落しているか脆弱なために人間関係の上で様々な問題を生じさせています。例えば知力の弱さ故の「短絡浅慮」な思考によって起きる問題発生。或いは情緒不安定や感受性の欠如からくる人間関係の拗れなどといったことです。

その中でも最近最も大きな問題となってきているのが、「意志や信念の無さ」「品格の欠如」「ネガティブに偏重したなマインド」といった「心構えにおける人間力」の未熟さから生じている社会的な歪みです。皆さんもSNSなどでのバッシングや様々なヘイト問題、苛めといったモラルハザードを超えた闇を目にしたり耳にしたりしていると思います。或いは余りの無責任さや利己主義的な態度。心を構成する三要素の中でも特に中核と云われる「心構え」の醸成不足からもたらされる社会的な弊害は、徐々に健康な文化を侵食し、心を病ませる主因となってきています。これがグローバルでの競争力低下や創造力欠如といった未来づくりへの弊害に繋がっています。

にもかかわらず社会的には相も変わらず「知力」や「感性」の未発達や欠如からくる弊害については論じられますが、何故か「心構え」「人間力」が主因となっている問題に対するアプローチとして、ダイレクトにそこに切り込もうとする話が俎上に上ることはほとんどありません。それよりも「心構え」「人間力」は「知力」の副産物であって、「知力」が高ければ、また「知力」を高めれば「心構え」「人間力」も備わってくるといった認知が世の中を席巻しています。つまり「人間力」と「知力」を同じカテゴリに捉えているわけです。そうして「知力」を高める教育を行えば、それによって「人間性」も醸成され、道徳も品性も高まるといった錯覚が横行しています。その典型が学歴主義が象徴するような「あの人は高学歴だから物事への分別力も高く、即ち品格も高いはずだ」といった社会の大勢が描く浅慮な認知状態です。確かに知力がなければ「人間力」という存在が認知できませんから全く別物とは言えないでしょう。しかしそれは必要条件ではあっても十分条件ではありません。

そこでそのズレを指摘するために私が事例的に考えたのが「石田J1の定理」という概念なわけです。皆さんも予想がついていると思いますが「石田J1」とは不倫礼賛をした某タレントのことです。彼は日本では二大雄と云われる私大の出身です。それだけで彼は「頭が良い」ということで、一時はニュースキャスターにまで推挙されました。特にあの大学はマスコミ関係に強いのでそこは「さもありなん」です。さてではそういう知的に優秀と云われる大学卒の彼の「人間性」「品格」は如何でしょう。皆さんはどう思いますか。「不倫が文化」発言以外でも「コロナで社会が自粛中に飲み会に出席(それも必ず女性同伴)」。それも1度ではありません。指摘された後も続け、結局はマスコミからも総スカンで借金人生になったという話です。皆さんはこういった人を「人間力」的に優秀というのでしょうか。大学が良いから品格も高邁というのでしょうか。インタビューを見る限り、彼自身がそれを錯覚しているような発言もしています。その限りでは彼は知的にもどうかと疑う面もあるのですが。ともあれ知力と品格や人間力は別物です。交わっている部分もあるとは思いますが、軸としては別。だから知情意なのです。

ショートソモサン③:厳しくなる環境を切り抜ける力を社会に復活させたい

日本はむしろ戦前の方が海外に対して知力では劣っていてもその「人間力」で賞賛されたり信頼を得た人が一杯いいた感があります。今でもサッカーなどのサポータによる試合後の会場の掃除は世界中から文化の高さ、品格として注目を浴びています。ですからそう捨てたものでもないのですが、これも知力とは違った話です。

この人間力低下が生んでいる社会的諸問題の病巣こそが「人間力」を対象とした教育不足にあります。そのため戦後日本は知力に偏重した教育によって「人間力」や「心構え」という「心が醸成された」「心が鍛えられた」人材の育成に失敗しました。そして今やそういった偏った心の人材がマジョリティ化してきています。それが更に二代目世代となり三代目世代となり、その歪みの度合いは増すばかりの様相に思えます。

この心の野放し状態が「心の疲弊」をもたらしています。その骨頂が先にも上げた「利己的思考」の跋扈です。確かに「貧すれば鈍する」という格言通り、自分の立場が窮した場合に他者にまで目が届く人は稀有です。それは致し方ない話です。しかし先週の「怒り」の話題でもご紹介したように、動物は自己保存のために怒りによって境界線の確認をしますが、それ以上に侵略をしようとはしません。そこに和解を見出しています。ところが現代の人は「利己」を中心に際限なく物理的にも心理的にも侵略を仕掛けようと動いています。それこそまさに「品格」や「人間力」といった「心構え」を逸してしまった姿に他なりません。そしてそれがまるで「悪貨が良貨を駆逐するかの如く」まともな人間性や良心を持っている人の心を侵食していっているのが現代の実勢です。

まともな人が「自己肯定感を下げる」という社会的な風潮。「正直者がバカを見る」という風潮。人の心の中に「人間性」や「品格」がなくなると人は人でなくなります。そういった風潮の中で「人間性」を保つのは至難の業です。こういった風潮にどっぷり付け込まれて、そこで自噴しようとすれば、それはかなりのエネルギーを要します。底なし沼に立ってジャンプしようとするようなものだからです。でもそこで諦めたら全ては水泡に帰します。

ではどうすれば良いのでしょうか。それは「まずは塊より始めよ」です。お釈迦様ではありませんが、人を当てにするのではなく、まずは自分を律し、その上で少しずつ周りに影響し、徐々に同胞を作っていくしか手はありません。

私は警鐘を鳴らし続けることで一人でも賛同する仲間を増やし、その高い自己肯定感からもたらされる力の結集から未来を作り出していきたい。「最大多数の最大幸福」を実現していきたいと願っているわけです。まずは日本が世界から人目置かれる存在になる。それは資源のない国においては、物質ではなく心を含めたソフト財による立国だと信じています。その一歩を作り出したい。

その第一歩が日本人にマインドフルネスやモメンタムというお家芸を復活させて、それを普及し、グローバルに影響していくというビジョン、目的への挑戦なわけです。

 

ショートソモサン④:モメンタムが生まれやすい目標を科学的に考える~期待値と予測値の差分を利用する~

では今年最後は「モメンタムやモチベーションと目標概念との関係」についての話によってブログを締め括りたいと思います。

人が目的やゴールを設定するのは、それが曖昧だと不安を感じやすく前進しにくいからです。マインドフルネスやモメンタムは、その取り組みによって脳科学的にはドーパミンという快楽物質が分泌されることから行動を促進させると捉えられています。そして安心がドーパミンを誘発するということも分かっています(因みに目標が高過ぎるとノルアドレナリンを誘発し、それが過ぎると却ってネガになるということも知られています)。人が快楽の可能性に近づこうとする情動や好奇心を持っているのは先にも述べました。そして更に人は一度でも快楽の情動を学習すると、もう一度それを味わいたいとする情動を引き起こします。

ではどうすれば人はドーパミンを誘発するのでしょうか。

まずは快情動を発露するタイミングを能動的に作り出すということが大事です。それには、

①日常の快体験から快感情に意識的に注意を向けることが重要です。最初から快感に気付いて気持ち良くなれるか、それとも何気なく通り過ぎさってしまうかは本人次第です。そして快楽を味わうことでセンサーを磨き上げていきます。もともと人の中でネガティブが優先されるのは生きていく上で危険を避けるために発達している以上、それはそれで大事な機能と云えます。だからこそ意識的に訓練する必要が合うのです。

➁そうして出来たことに意識的に注意を向け、それを徐々に刷り込んでいくとで人は自己肯定感を高めていきます。出来た部分、理由、もっと良くなる点をエピソードと感情を両方混ぜながらともに脳に学習させていきます。

人がドーパミンを誘発させる情動には、「未知を知ろうと探索する情動」、「学習済みのことをリトレースすることによって快楽に向かわせようとする情動(欲望)」、「価値的な記憶から引き出される情動(好感)」があります。ドーパミンには学習を高めようとする働きを促進する作用があるからです。因みに「分析的な活動は足りないところばかりを学習する」ので、却ってモチベーションを阻害します。そしてもう一つ「期待値、予測値差分による情動」というのがあります。

人は脳内で「報酬予測感:何かメリットがありそうだというシグナル。引き寄せ効果」「報酬予測:過去の記憶から未来の報酬を予測する。類推」「希望、予測想像:どうなるか分からないことに対して前を向かせる。リスクも計算した上での反応。不確かさドリブンへの探索」「価値記憶:好きなものや価値として認めているものを想起する」「快楽への予測:報酬のみならず、あらゆる快の感情、状態を予想したり想像したりする」といった情報処理活動を同時に行うという特性があります。これによって人は期待値を描き、予測値を描き、そしてその差分解消に対してドーパミンを大量に誘発すべく積極的な情動的行動を取ろうとします。その特性を利用して行動を促進させるのが目標を持つということの意味合いです。人は目標を持ち、目標に向けてのスケジュールの中に上記の活動が誘発されるような刺激に繋がる内容を組み込むとスムースに「その気」にスイッチが入っていきます。そしてこの時マインドフルネスによって導入期に情動を安定化しておくと、よりスイッチがスムースに入りやすくなるということが分かっています。

その際、自分の期待値や予測値を下げておくと上手く行った時の差分が大きいだけドーパミンは出やすくなりますし、一方で期待値が高過ぎると、成果に対してそれほど差分が出ないため、ドーパミンは出にくくなる(またノルアドレラリンが出てネガティブになる)ので、目標を設定する場合には期待値を低めに見積もるといった演出をするとより効果は的になるということも分かっています。

このように高い目標やゴールイメージを設定し、それにワクワクドキドキしながらも、近場では段階的な目標やゴールを設定して、いかに自分が出来たかという部分に注意が向けられやすくするかといったことに留意しながら目標を設定していくと、人は効率よくドーパミンが誘発されるようになって、モメンタムが発動し、動きが促進さることになります。

人は自己の予測に反することはポジティブであれ、ネガティブであれ今後に向けての自己学習のため必要になってくるので、感情的に強く反応します。それがドーパミンの誘発に強く影響するのです、ドーパミンは予測に対する「予測差分」への認知反応によって強く刺激されて放出されます。ですから目標の適正な設定があるかないかといったことは、ドーパミンの誘発、引いてはモメンタムの発動に大きな関係を持つことになってくるのです。

皆さん、本年もお付き合いくださいまして本当にありがとうございました、来年も何卒よろしくお願い申しあげます。

では次回、来年の週明けにまたお会いいたしましょう。

 

さて皆さんは「ソモサン」?