正義心について考える

皆さん、こんにちは。

~正義心を疑う

アンコンシャス・バイアスにおいては「自己防衛心」という受け身の姿勢からもたらされるバイアスだけでなく、ビリーフに基づく別の姿勢からもたらされるバイアスがあると紹介させていただきました。今回はそれについてお話をしたいと思います。

 

人は他者の言動や行動に対して「自分に都合の良い解釈」を持って自己保身をしようとする習性があるのは確かです。これを自己中心性バイアスとか正当性バイアスという認知バイアスで理解するアプローチもあります。しかし現実の活動において、人は必ずしも反応的にバイアスを発するわけではありません。寧ろ先入観的に「良かれと思って行う行為」にバイアスが掛かっている場合が圧倒的に多いわけです。

例えば身近な日常にあるお節介などは、正に良かれと認知して行うバイアスの好例です。こういった人が善意、少なくとも悪気がない意思を持って行う能動的な側面が偏っている場合、それは自己防衛心という意思の範疇で括れないことは明らかです。

こういった能動的な意思を一般には「正義心」と呼んでいます。正義とは、道理に適った正しいことを云います。道理ですから規範であり、非常に個人の価値観に依存していて、所属する社会特有の主観的な観念に影響されます。正義を組み立てる道理は「公正性」という経験的倫理観と「親切性」という生得的倫理観を基底として醸し出されてきますが、公正性も親切性も、社会性としては万人に共通するとは限らない倫理観です。つまり正義には「都合の良い解釈による正しさ」が内在しているということです。

だからこそ公正性や親切性を万人共通な価値観にするには、意識的にコンセンサスを持ったルールを作り出し、お互いにそれを遵守する契約が必須になってきます。ところが結構この違いを混ぜこぜにして捉えている人が多くいます。先進国はグローバルな交流の中で、お互いがバイアス的な正義によって齟齬が生まれない様に国際社会としての公正性を確認した法を制定して、それに基づいて関係を維持させていますが、発展途上にいる国においては、未だ自国の中だけでの規範としての正義を振りかざして国際社会の関係を掻き乱す未成熟さが横行するケースが散見されます。

意図的な価値観を「信念・ビリーフ」と云いますが、「良いことを積極的に振る舞おう」という正義心は自己防衛心同様にその判断基準としてビリーフの影響を受けます。このビリーフが自己や社会において合理的であれば齟齬や問題は起きませんが、非合理であれば齟齬や問題を生じることになります。

 

認知心理の中でビリーフを捉えた場合、2つのポイントに注視する必要があります。1つは定義の捉え方、そしてもう1つは所属する集団社会での個々のモノの見方考え方です。定義とは、正義の場合「義」の捉え方です。義はそもそも人と人を結びつける倫理として「良い」「正しい」とされる概念ですが、思想として宗教の影響を強く受けています。実際、儒教、仏教、キリスト教、イスラーム、古神道によって義や正義の解釈は多少異なります。

つまり、正義心は宗教的思想観によって対立が生じる場合があるわけです。ただでさえ宗教観によって認知が異なってくる正義ですが、そこに民族性や土着的な村意識や家族意識といった様な集団規範が混じってくると更に複雑性が増してきます。他から見ると悪であっても奸であっても、自分としては善として義として認知しているといったビリーフが生じてくるのです。

そして日常的には良かれと思ってとか悪気はなくといった言動や行動が、受け手にとってはバイアスがかった言動のように捉えられ、それが様々な波紋を生むことに繋がるのです。無論、防衛心と同様に多くの場合が無意識、つまりアンコンシャス的に発せられます。そしてそれに対する相手側の反応によって、今度はそれこそ自己防衛心的によりバイアスに拍車が掛かったやり取りを醸し出すのです。

 

さてアンコンシャス・バイアスを生み出す正体の一つである正義心ですが、自己防衛心を始めこれらの源泉にビリーフがあるのは前段でご紹介したとおりです。ではこのビリーフがイラショナル、つまり非合理な根拠に基づいたモノであった場合どういったことが起きるでしょうか。

最近テレビで「あるある」といった報道を目にしました。生理痛で苦しむ若い女性の方が、あまりの痛さにたまたま空いていた優先席に腰掛けていたそうです。そうすると、近所にいた初老の方が寄ってきて「最近の若い人は優先席の使い方も分かっていない。非常に嘆かわしい」と罵声のような言葉を投げかけてきたそうです。この女性はそれを聞いてとても悲しい思いになったそうです。

皆さん如何でしょうか。私は決して他人事のようには思えません。まずこの初老の方は優先席の意味合い自体が理解できていません。優先席は専用席ではなく、また老人向け席でもありません。そしてそれ以上に人に対する偏ったビリーフがあります。それは「若い人即ち元気」「見た目が全て」です。

ここから来る思い込みに基づいたビリーフが、能動的な正義心と結びつくと始末に負えません。ネットで溢れかえるバッシングもこういったイラショナル・ビリーフと正義心の融合によって行われています。いじめもそういった背景で行われている現状があり、加害者は自分を正義で身に纏っていますので、指摘してもまさに暖簾に腕押し状態になってしまっている有様です。

~新しい情報や教養を身につける必要性

では、こういった状況はどうすれば打破できるでしょうか。巷で紹介される典型は、認知論に基づいた処方箋として「バイアスの意識化」「自己への振り返りと気付きの醸成」そして「バイアスの書き換え」と、まるで認知行動療法のようなアプローチです。しかし先の優先席の如く、ビリーフに凝り固まった状況でのバイアスの意識化や気付きなどは理想論に他なりません。

認知行動療法は、イラショナル・ビリーフによって心から困ったという前提があって初めて「当事者が積極的に取り組むからこそ」効果が出てくるわけです。困ってもおらず、しかも寧ろ自分が正しいと信じ込んでいる状態の場合に、果たしてそれを敢えて批判的に意識化するなどは空論としか云えません。

意識化や気付きは自発的ではなく多発的にしか出来ない領域があるのです。人は自分で知り得る自分だけでなく、自分だけでは知り得ない自分という領域があります。それは外からの指摘や情報提供が必要不可欠になります。特に自己防衛心のような比較的ある程度自己認知している領域ではなく、正義心のように確信犯的に刷り込まれた観念は「井戸の中の蛙」のようなもので、内観のしようも気付きようもない領域です。実はマインドフルネスの限界もここにあります。

禅ではそれを打破すべく公案や講話を持って未知情報のチャージを行ったりしますが、他宗教の場合、思想の違い上この点が厄介なので、逆輸入バージョンでは骨抜き瞑想法になってしまっているわけです。

つまりアンコンシャス・バイアスの調整には、まずイラショナル・ビリーフの修正が求められ、それには内観や気付きの前に新しい情報のチャージ(教養を高める教育:リベラル・アーツ)や他者からの指摘(フィードバック)によって、自分のビリーフの矯正と拡張が必要だと云うことを知っておく必要があります。

欧米では教会の日曜礼拝などで、こういった教養を高める取り組みは未だ粛々と為されています。しかし日本では道徳教育もお寺の講話も、また核家族化で伝承的な薫陶も失われており、非常に薄っぺらな生得的な正義心が横行している現状となっています。戦後80年近くとなり、今や初老者においても思慮の足らない正義心を振りかざすような状況になってきました。そして正義心の衣を纏った差別行為が横行したりします。

知への合理と意への合理は異なります。知は頭で処理しますが、意は肝や腹で、そして情は胸で処理します。日本社会には、今こそリベラル・アーツが求められていると思う今日この頃です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。

 

JoyBiz 恩田 勲