• ソモサン第165回目 「組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その四。」

ソモサン第165回目 「組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その四。」

ショートソモサン① メンタリストDaiGo問題について:知識が豊富にあったDaiGoさんになかったものは何か?

皆さん、おはようございます。
昨今ゴシップ誌を賑わせているDaiGoというタレント?を皆さんはご存じでしょうか。女優の北川景子の旦那さんのDAIGOさんではありません。メンタリストという新しいジャンルを日本に伝播した人です。ここで但し書きをしたのは、実際には驚くほど大勢の人が二人を混同して、DAIGOさんの方に風評被害が出ているからです。でも面白いのは風評の中でも、多くの方々が「彼がそういう発言をするとは思えないので、どうしたのかと思った」というものです。一方DaiGo氏に対してはそういう発言が出て来ないというのが特徴的です。本当に日常のイメージと云うのは重要だなあ、と感じるところです。
さてこのDaiGo氏ですが、生活困窮者、いわゆるホームレスの人たちにかなりの暴言を弄してしまいました。ペット動物以下と表現したのですから弁解の余地もないところです。しかしどうしてこのような常識をも超える暴言を吐いてしまったのでしょうか。
私が不思議に思うのは、彼が売りにしていたのが心理学だということです。これは紺屋の白袴で済まされるレベルではありません。私は事例として、良く「人体にはプロだが人間には幼児に等しい医者の人格」といった話をするのですが、今回はまさに人間学たる心理学を生業にしながら人を否定するような失言?(確信犯かもしれませんが)をしてしまう、それこそ心理に違和感をもったわけです。
一部の科学者が、彼は心理学者でも科学者でも何でもない。心理学をより身近に人々に紹介した点は評価できるが、その内容は贔屓目に見ても陳腐である。巧みな話術やプレゼンテーション能力で誤魔化していただけで、彼の話の内容は、通俗的な心理読み物や出典もよくわからない論文の抄録などを切り貼りしただけの寄せ集めに過ぎない」と断じています。確かに科学的根拠もないようなサプリメントや健康情報を断定的に勧めたり、自ら宣伝したりしていることも多く、見方によっては疑似科学の権化のような存在となっている面があるのも確かなことです。
しかし私的には科学者も現場の体感も分からずに論を振りかざすだけで、現実の問題解決に寄与していないヘッドトリップ人材も五万といるので、実務家の目としては、彼の功績は少なくとも貴方よりは社会の役に立っていると思うところも多々あるところです。
それにしても結構理知的に見えていた人が何故ここまで陳腐なへまをしたのか。私はここに知と意の違いを改めて強く思います。DaiGo氏のこれまでの発言や振る舞いを振り返って私的に感じるのは、彼は知はとても高いが意に乏しいということです。社会学者の橋爪大三郎氏は、意とは「知識を理性でまとめたもの」と説明しています。一般にはそれを「教養」と表現しています。自分が「よく生きる」ため、そして社会をより良くするために知識を結びつけた存在が教養であるとでも云いましょうか。
これまで何度も「知情意」という「心を構成する三要素」をご紹介させて頂いてきました。そして「知と意を繋ぐのが理」「情と意を繋ぐのが気」ということも紹介させて頂きました。JoyBizのLIFT概念から行けば、理とは「方向付け」、気とは「力」ということになります。その視点からすれば、教養と云う表現だけでは気力と云うエ
ネルギーが含まれていませんので、微妙にニュアンスは異なることになります。
最近BS放送のコマーシャルで、「年を取ると知力だけでなく気力が衰えて覇気がなくなる。運動が面倒になる」といった紹介がありますが、サプリメントを飲めば良いかどうかということは分かりませんけれども、少なくとも心力には知力と気力があるということや出所は同じとところであるといったことへの理解促進には貢献してくれていると感謝するところ大です。
DaiGo氏に話を戻します。教養と云う視点での意を捉える限り、「彼には知識の断片の寄せ集めはあるかもしれないが、我々が生きていくうえで、人として正しい意思決定を行うための基礎となる「教養」がないといったところでしょうか。つまり彼には社会の一員として生きるとか、集団社会を維持成長するために人に目を向けて相互扶助を基軸に社会に帰属するのが人としての責務、常識である、といった教養、哲学、つまり意が醸成されていなかったということです。
元大阪市長の橋本徹さんが非常に有意義なコメントをされています。「DaiGoと同年代で高額な収入を得ている人の多くは、自分の税金がどのように使われているのか、自分のためになっているのかを疑問に思っているのではないか」「これは周りが、ないしはメディアでとか社会で、なぜ税金がそういう社会保障に使われるのかってことをしっかり伝えるようなことが必要だし、DaiGoさんもしっかりまたもう一回勉強してもらって頑張ってもらいたいなと思いますね」。
後者はやはり政治家さんならではのコメントですが、前者はかなり本質を突いた内容と思います。今の人は思考の前提となる意志或いは教養の根幹が「利己」だということです。ここで気を付けていただきたいのは「利己」が悪いということではないということです。今放映中のNHK朝ドラでそこを突くやり取りがありました。主人公は東日本大震災で被災した過去を持ちます。その彼女が地元の気象情報に強く肩入れして、彼女的には「地域の人たちの安全のため」つまりは利他として行動を取るのですが、それを見ていた同僚が「結局は自分のためではないか」と指摘をするのです。果たして利他と利己の違いは何か。

ショートソモサン② 利己と利他の違いは私たちの目標にどういう違いをもたらすのか?

「方法序説」を書いたフランスの哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と云いました。人は全ての存在を疑ったとしてもそれを疑っている自身の存在だけは疑えません。人はまず自我からスタートするわけですから、全ては利己から始まるといっても過言ではありません。問題は利己の本質です。利己とは自分です。それは円周で表現すれば、円の内側に位置し、その方向付けは内心に向かう存在であるということです。

皆さんも少しイメージしてみてください。基点は利己で構いません。しかしただただ利己を目指すということは、深めるということは自分を外と隔絶し、外に背を向けるということです。外から見て自分に背を向けて籠る存在を楽しく思うでしょうか。大事に思うでしょうか。働きかけに目を向けず、応じずといった存在は単につまらないだけではありません。次第にエネルギーを抜かれるばかりで鬱陶しいと思うようにもなるでしょう。挙句は孤立です。いわゆるドツボに嵌まるということです。全くもって愚かでしかありません。

ところが利己的な人は自分しか見れませんから、関係性の中でモノが捉えられません。人は本来自己保存の本性がありますから、そういう状態になるとただただ自己正当化に拘泥していきます。それがまた人を遠ざけます。自己肯定感を下げるのも自分ならば、それを堂々巡りで下げ続けるのも自分。それが利己と云う悪循環の怖いところです。

今多くの若者が幼少期にこのような意についての教養、人生哲学を教えられずに「無知の涙」を頻出させています。その為人とどう付き合えばいいのか間合いが分からず、また人を信じることが出来ずに利己の地獄に嵌まっていっています。その最たる世界が「お金」への妄執です。信じられるのはお金だけ、という奴です。

人にとっての「生きがい」とは明確な目標観をもって活動することですが、その目標自体が社会的には「人と共に活動することによって自己実現を成し遂げること」が軸足になっています。何故ならば、人は本性として集団維持という欲に従って社会活動を希求する衝動がありますから、常に他者との関係の中で比較を求めます。それが動機になり活力の源になります。それが人間と云う存在です。

ところがそれがうまくいかない場合、期初から諦めが起きた場合はどうなるでしょうか。心理学では仮託愛と云う現象が起きてきます。代償としての目標と対象を作りあげてそれに溺れようとするのです。本質から目をそらすべく妄執し始めます。その象徴が「お金」です。

経済社会の発展としての「貨幣」の発明は人の欲求目標を押し上げました。「お金」は物欲を始め、多くの欲の対象となる価値を得る交換手段として最も合理的で権威的な発明であることは確かです。その為「お金」自体に目標を置く人まで出てくるような存在です。人としての本来的である他人や集団という要素と渡り合うことで社会的な活動を通すことから自分の価値を高める意や気が持てない人は、その正当化として「お金」に存在意義を求めるのは非常にインパクトある抗弁となるわけです。そして今やそういった背景も無知なままにそういった歪んだ活動を是として人生を歩む人も出てくる風潮の社会になってしまいました。

橋下さんの言は、まさにそういった利己とお金への信奉が基調となった若者が、社会活動と云う根っことしての相互扶助を教えられて来なかったという二重の歪みによって起こした倫理的な歪みを喝破しているのではないでしょうか。DaiGo氏もその一人と云えるでしょう。

彼の出自はよく分かりませんが、「自分は頭が良い」「自分ならば東大は当たり前。でも頭以外のアクシデントで行けなかった(弟は行った)」といったコンプレックスの上に周囲からの様々な軋轢によって対人厭世観を持ったのかもしれません。実際そういった障害から心理学に興味を持ったり、心理学に傾倒する人が非常に多いのも確かです。真実は分かりません。でも幼少期に社会的常識と云う意をきちんと親ないしは大人が教えていたかは疑わしいところがあります。

ショートソモサン③ 人生において、欲とは滅するものなのか?

ところで、実は利己と云う問題は、もっと深い闇を抱えています。先ほど話したように利己とは円周として内面に方向づけられた想念です。これは円の内側で閉鎖的と云う以上に方向が中心点に向かっているということを示唆しています。中心点に向かうとはどういうことか。結論からいえば、早晩成長的に限界を迎えるということです。それ以上に伸びはないということです。皆さん如何でしょうか。利己的な人で魅力的な人はいるでしょうか。確かに利己的でもエネルギッシュな人はいます。でもそれは力強く限界に全力疾走しているということです。やがては先を失い失速することになります。利己的な人は目先ですからそれに気が付けません。同類相哀れむという言葉もありますが、利己的な人は目先が故に利己的な人の限界が見えず、力強い利己的な人に憧れて、相まって落ちぶれていくといった現象をよく目にします。一部の新興宗教にそういった兆候が見られるケースもあります。周りはあきれる限りですが、当事者たちはそれすらが見えないのです。でも最近の若者にはそういった危なっかしさが至るところで目につきます。とても悲しいことです。

では利他とはどういうことでしょう。利他は外に向いた力です。ですから目は常に外、他者や周りを見ています。当然回りも反応して来ます。相乗性が働きますから相互啓発も促進されます。成長感も感じますし、未来が見通せますし、日々が楽しくなってきます。少しでも「人はどう思っているか」を利己のためではなく、利他のために思えば、「あの人に何が出来るか」「あの人をどうしてあげれば良いか」を主軸に考えれば、滅私の勇気を持てば、利己の人はともかく(というか利己の人はすぐに分かりますし、利他であればそれすらが気になりません)として必ずや応えは返ってきます。これが「自利利他」です。利他であれば円周の外側にいますからエネルギーはどんどん降り注いできます。エネルギーが自動チャージされるのであれば怖いものはないと思います。

皆さん、如何でしょうか。実は「利他」こそが「徳」の本質です。徳とは「方向付け」のことです。そして「欲」とはエネルギーと云えます。「強欲は良くない」と云われますが、私はそうは思いません。例えば「怒り」もエネルギーの一つですが、これも良くないように云う人がいます。しかし「怒り」とは「何らかの壁を超える際のエネルギーの放出」が本質です。ですから「怒り」がない人や弱い人は踏ん張りが効きませんし、難関を乗り越えることも出来ません。「怒り」は必要な気の持つ力なのです。義憤は重要です。問題は方向付けです。ネガティブな怒りや利己的(他者不在)の怒りは滅しなければなりません。欲も同じです。欲がなければエネルギーなしでエンジンを回すのに等しいと云えます。まずもって回りません。欲は必要なのです。この欲をどう方向付けるかです。これが利他であり、徳が任ずる役割なのす。

世の中では欲と徳を対峙させて語る人がいます。欲は悪く徳は良い、といった具合です。これは間違いです。両者は立ち位置が違います。徳によって欲を押さえることは出来ません、と云うよりも論外です。欲は大事です。大いに結構です。今社会で啓発しなければならないのは「徳」という「利他」の心構えです。本質的に云えば「意」の啓発です。

皆さんも会社組織としてもそうですが、親としても真剣に考えてみてください。これには不作為の罪と云う面も多々あります。忙しくて子供を構わなかった。話をしなかった。と云うことは歪んだ教育同様に罪です。子供が目的やビジョンを持てていないのも根っこは同じです。

善は急げ。会社は間借りの人生ですが、家族は一生ものです。早く子供と真摯に対話をして徳について利他について語って下さい。まだ遅くはないですよ。

それでは来週も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて皆さんは「ソモサン」?

 

今週の記事を読んでいただいて皆さんのソモサンコメント(感想や質問、逆ソモサン)お待ちしております!