• レジリエンスの本質であるアンコンシャスバイアスを正しく理解する

レジリエンスの本質であるアンコンシャスバイアスを正しく理解する

21世紀は「心の時代」になると言われて早20年に足が掛かってきました。その間日本でも着目され始めたのが「レジリエンス」という概念です。レジリエンスはストレスなどに対する復元力を意味し、その力を高めるアプローチに注目が集まったのですが、流れとしては予防策と云うよりは対策的な領域として「マインドフルネス」という技法が米国のグーグル社による宣伝が功を奏したのか、日本ではIT企業を中心にもてはやされる流れとなりました。

マインドフルネスとは日本発の禅における瞑想法を活用した精神安定の体感技法ですが、よほど長年続けないと予防策の領域には達せない技術といえます。禅のお坊さんでも体得するには何年も掛かるアプローチですが、導入的には分かり易くハードルが低いのであっという間に広がっていった感があります。

一方でポジティブ心理学が着目したレジリエンスは、そもそもストレスによる精神障害を軽減するために、ストレスが発生する要因を探すべくストレスに対する耐性が弱い人の心理を分析し、その根本原因に人の持つ認知領域が大きく関わっていることを見出したことから始まります。そして精神疾患の治療法として確立していた認知行動の技法を活用して認知の歪みを抜本的に補正することから耐性の獲得を目指すアプローチです。

レジリエンスが取り沙汰されて以来の23年はマインドフルネス嵐が吹き荒れ、本来のレジリエンスが陰に隠れた状態になり、その為根幹アプローチである論理行動の矯正が関心に上がらず、このままでは対処療法として一部のブームに終わってしまいかねない懸念がありましたが、流石にグーグル、満を持してアンコンシャスバイアスという銘を持って認知行動の補正へのアプローチを押し出してきました。

ところがここに来て、またもや日本の一部の人たちが欧米盲信を起こし、文化や価値観の違う西欧の技法を検収もせずにそのまま普及させようとしている気配があります。これまで、そのようなやり方によってせっかくの技法やアプローチが何度も一過性に終わってしまったのを何も感じないのでしょうか。それこそアンコンシャスバイアスの極みです。

 

アンコンシャスバイアスとは「無意識に働く認知の歪み」のことですが、心理学的にはイラショナルビリーフと称しています。これは「非合理な信念体系」を意味します。例えばネガティブ発想などが典型例です。自尊観が低い人はその顕著な行動として物事を何でも否定的にみる傾向が出ます。そのため起きる事象を何でも自分へのマイナスアプローチとして捉え、結果感情的にも思考的にもマイナス反応をしてしまいます。

具体的には誰かと出会った時に、相手から挨拶がないと、すぐに「彼は自分を嫌っている」と捉えて反応するなどがそうです。実は相手は頭が何かで一杯で出会ったことに気付かなかっただけかも知れません。しかし非合理なビリーフがあると認知にバイアスが掛かり、物事を歪んで捉えることしか出来なくなってしまうのです。

さてグーグルが取り組むアンコンシャスバイアスは、こういったビリーフに対して自尊観に根ざす防衛規制を強調してアプローチします。何故ならばグーグルのような組織においては他のビリーフ以外はさほど影響が出ないからです。

しかし他の組織体、特に日本の組織体となると状況は異なります。例えば組織開発の日本の権威である甲南大の西川教授は「日本は世界の中でも極端に集団主義であり、にもかかわらず権威主義の社会体系である」と仰っています。非常にアンバランスな行動規範を伴う認知特性を持った国民なわけです。こういった日本人は組織の中での行動や世界での対外的な行動を取るときに、他国では当たり前であるビリーフが当たり前として認知されていないことが多々あり、それがコミュニケーションに深い谷間を生み出していることがあるのです。

その一つである集団意識は日本人の意志疎通のあらゆる側面に出てきます。欧米の方が日本人と結婚して一番困るのが、揉め事が起きたときに押し黙ってしまうことだそうです。人は違う考えであるのが前提である欧米の人は、だからこそお互いが自分の考えを述べ合って解合していくのが前提だと認知しています。

ところが日本人は違うと話し合えないという反応をするのだそうです。前提が一緒でないといけないというビリーフなのです。このことは日常では至る所で弊害をもたらしています。会話上理解の相違があると多くの日本人は分からない相手が悪いという認知をします。常に自分は正しいというのは欧米も同様の所がありますが、欧米の人は相手にきちんと自分が正しいという根拠を論理的に話します。また相手も理解するために細かく質問をします。これは前提に人は違うという認知があるからです。

一方日本人は正しいという主張するだけで、その根拠や意味をきちんと説明する人は少ないように思います。分からないのは相手の問題。それよりも相手は分かっているのが前提とばかりに紋切りで物言いをしたり、慨然的な物言いに終始したりします。また相手も聞くのは一生の恥とばかりに知ったかぶりをしたり、黙り込んだりして意志疎通を拒みます。双方とも歩み寄らず、牽制し合って、これ以上云うと感情論だとばかりに重石を相手に投げつけます。

ところが相手が権威者と認知すると是非も考えず、盲信し追従する理解の姿勢を示すのです。そこに論拠や論理性が無くてもお構いなしです。どちらにせよ日常他者の意図を考えるという行為や相手をより知ろうという行為をしない、したがらないのが日本人のコミュニケーションに対する姿勢です。そして自分の狭い見識に拘泥して、持論を相手に押しつける話し方が横行します。分からないお前が悪い。分かって当然だという歪んだ共同体意識が働きます。

こういったビリーフからもたらされるアンコンシャスバイアスは防衛規制のような反応ではありません。幼少期からの刷り込みがもたらす信念、心の奥深くに突き刺さった基本仮説(思考のタガ:メンタルルーフ)といえます。

このようなケースは対話的関係が錬成されていない日本人に様々なパターンで見られます。家族主義という集団主義は、家族は正しい、特に自分の母は正しい、時には絶対だというビリーフを生み出します。マザコンなどと称される反応はこれに該当します。これは欧米の一神教的な考えによる「家族であっても神の前では平等であり、一人一人は独立的でなくてはならない」という教えが刷り込まれた人々には奇異に映ります。

アンコンシャスバイアスは善し悪しや正誤ではありません。社会常識、社会ルール、対人関係の維持や相互の幸福度からみてズレているかいないかが重要になります。ズレていれば歪みとなります。日本の場合、グローバル化に対して、世界とその関係が維持できる状況を基準として歪みが問われることになるわけです。

 

アンコンシャスバイアス、漸く本質的なレジリエンスへのアプローチが始まったと云えます。入り口でそれこそアンコンシャスバイアスによって導入に歪みが起きないようにお気をつけ下さい。

さて皆さんは「ソモサン?」。