仏教が教える利他の考えとその実践によるJoyの創出をものにする

仏教が教えてくれる「戒律」の意味

先週は人が本性として持っている利他の心、言い換えると大人としての要件について生理学や社会学的な視点から紹介させて頂きました。今回は少し日本の精神的支柱の一つとなっている仏教的な視点から見つめてみたいと思います。

仏教の出だしはお釈迦様が行き当たった問題意識、「苦しみ」の本質理解とそこからの解放から始まります。お釈迦様は苦しみの本質を「欲」と捉えました。そしてその欲から解放されるには、自ら戒めを守ることである、と説いています。

ここで着目したいのは苦しみとは何か、欲とは何か、そして戒めとは何か、ということです。仏教では苦しみや欲、そして戒めについて四諦として捉えています。四諦とは、真実を表す苦諦、集諦、滅諦、そして道諦のことです。

苦諦は導入です。迷いは一切が苦であるということです。そして集諦は苦の原因は煩悩、妄執、愛執であるということ、滅諦は無常の本質に気付いてそれを克服し、執着を断つことが悟ることであるということ、そして道諦とは、それを実践するには八正道を貫くことというのが教えの骨子です。

 

因みに八正道とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことで、真理を正しく知り、正しく考え判断し、嘘や無駄話、陰口、誹謗中傷といった妄言を言わず、五戒と呼ばれる殺傷や盗み、姦淫といった行いをせず、日々を道徳的に生きることや、過去の不善を断ち切って未来の善行に勤しむ心構えを持つこと、その上で常に今の自分の状態に気づいているマインドフルネスを保ち続けること、そしてそれを通して正しい集中力を身につけることを云います。

まあ人として生きるにおいて為すべき品行方正の全てといえるでしょう。

この行動をしっかりと行えば、人は欲や苦しみから脱して心の平穏が得られる、まあ鬱にならなくて済むと説いたわけです。

当たり前のようですが、ここでお釈迦様は非常に重要なことに着目しています。それは「戒め」という表現です。戒律という言葉がありますが、この真意をきちんと理解している人は稀です。

 

戒めとは「自らが進んで守る行動規範」のような存在です。昨今でいえば「ルーチン」のような意味合いです。ここが大事です。要するにお釈迦様は、戒めは頭ではなく身体で身に付ける習慣のような存在であるといっているわけです。

一方で、律は「ルール」のような存在です。これはある意味強制的にでも守るべきもので、頭で理解して身に付ける存在といえます。そうルールは外からの押し付けですが、ルーチンは内側からの習慣的な動きです。

瞑想という行入法:メタ認知と利他心

ここに「瞑想」という行入門法の重要性がクローズアップされてくる謂れが浮かび上がってきます。心の動きは主に感情の流れに支配されます。そして欲の本性は感情の起伏によって生み出されます。

我欲をセーブするには幾ら理屈をこねくり回しても埒がありません。感情をコントロールするには理入門ではなく行として、直に感情の動きにメスを入れていかない限り、それをメタ認知することもマネジメントすることもできないのです。

これが修羅場経験がある人しか自己認知したり自己統制することは出来ないといわれる所以でもあります。ここでいう感情に入れるメスとは逃げ場のない葛藤体験とそこからの自己の心の昇華を云います。

吹っ切れるというかスッキリするというか、得も言われぬ心境といえます。意はこういったプロセスの中から形成進化されていくものです。これをお釈迦様は戒めという言い方で示しているわけです。

 

今の若者はルールで語るものばかりです。経験知や臨床知もない中で、溢れ返る情報洪水に塗れながら耳学問で狭い見地やアンコンシャスバイアスであるということにも気がつかず、したり顔で人や世を語ったり、知ったふりする若者が如何に多いことか。そりゃあ世の中が歪んだり沈滞するのは必然ですよね。

チャンク化という言葉があります。認知心理学の言葉ですが、少ない作業記憶で頭が使えるように知識を圧縮して構造化する働きをいいます。体内記憶する上で記憶する対象を構造化して記憶する負担を軽減させる働きともいいます。

人はこのチャンク化によって認知した情報を型嵌めして脳に余裕を作り、思考に柔軟性を生み出します。平たくいうと「体に染み込ませる」という奴ですが、いわゆるパフォーマンスを上げるゾーン創出もこのプロセスによる一つの成果と言えます。

このチャンク化によって人は苦や欲からの解放を日常的に得易くなるのですが、これを身に付ける効果的な手段こそが瞑想といえるでしょう。

何れにしても欲や苦はまずは感覚器官を通して入ってきますから、心身を整えることできっかけ自体を遠ざけるのは良策であることは間違いのないところです。

さてこの瞑想ですが、瞑想とは「心身への観察」から今の自分や自分の拘りをメタ認知する取り組みです。これは一切の現象や、その背後にある道理を見極める心理作用を行うことで、これを仏教では智慧と称しています。

智慧には四念処という4つの観想がありますが、中でも重要なのは心念処と法念処です。これは諸行無常という心の無常を観ずることと全ての真理は無我であるということを観ずることに気付くことですが、これこそが心がオープンで平穏であるということの本質です。

どこかに拘りを隠したオープンはありません。無常の中の無我であって、拘りや囚われ(アンコンシャスバイアスの場合が多い)あっての無我ではないということです。観察の対象を定め、そこに集中して真剣に冥想していると自然と一体になって理屈ではなく目覚めが起きてきます。

この時「自分一人でやっているわけではない」という直感が働きます。これはハイパフォーマーと呼ばれる人たちのインタビューからも明らかです。高名なプロ選手は総じて「自分は生かされている」ということに理屈ではない閃きがある日突然湧いてくると言っています。

これこそが体得した利他心の目覚めなのではないでしょうか。お陰様や感謝の心、まさに大人に一皮向けた瞬間といえましょう。

 

最近の若い人を見る限り利己的なパフォーマーの話ばかりでこういった人をなかなか見かけません。

とあるインターネットショッピングで成功した経営者などはその骨頂で、自分が思った以上に成功してお金を手にしたは良いけれど、精神的に大人になれず、利他が分からず、結果お金の使い道が分からないでもがいている姿などは何か孤独で悲しい感じにさせられます。

こういった物的には成功しても心的には応じたものが得られておらず、そのアンバランスに悩む若者が非常に増えている感があります。本当に社会教育の歪みが起こした弊害以外の何者でもないでしょう。

さあこの利他心ですが、これが仏教では慈悲心の始まりになっています。慈悲は利他の本質的行動です。自分の苦しみを瞑想で清めることで脱し、心に余裕ができたときに本来人間が持っていた利他の本性が作動し始める。

理屈ではなく感情を伴って解放されることから、人の苦しみが我がことのように認知出来るようになる。これが慈悲への第一歩です。

慈悲で重要なのは「空」の概念です。空はゼロにも通じる東洋ならではの概念ですが、驚くことに西洋では近年になるまでその発想はありませんでした。これが西洋人の物質至上主義の土台にもなっています。それを盲信する日本人の敗戦根性は本当に国家や思想、アイデンティティの消失に繋がること必至と憂える今日この頃でもあります。閑話休題。

空の概念ともたれあい

この空の概念ですが、大乗となった仏教思想の背骨でもあります。初期の上座部や大衆部の部派思想では経年の中でお釈迦様の考えを言葉と頭で分析論的に理解しようとし始め、それが本来の目的たる悟りに辿り着けなくなる状態に陥る結果となってしまいました。

これは今の日本の西洋的な分析論への過剰傾倒によって目的と手段に対する考え違いを起こし、評価対象を歪めてしまい、本質を考えない評価によって学歴主義に陥り、柔軟かつ創造的に考える子供を育てない結果として、将来を生み出す科学者の創出を遮断してしまった姿とダブって見るのは穿ち過ぎでしょうか。

そのような中で生まれた原点回帰を端とした大乗思想は、再び体験を重視して、耳の理解だけでなく体の理解を推し進めます。それよって一切の事物には実体はなく、心が作り出したものであるということに体感的に行き着き、空という概念を生み出します。

あるべきところにあるべきものはない。そもそもがない。全ては関わりで作られ固有はない。「全ては関わりに中にある」という概念は本質を捉えるに画期的でした。これは空間だけでなく時間にもいえることで、「全ては生じては滅するものである」という概念です。

仏教ではこういった物事の関わりのことを「縁起」といっています。これは因果関係と同じ考えです。そもそも執着は「人はその存在として何処かへ向かわなくてはならない」という目的への拘りであり、それが人を苦しめる一因になっています。人には目的を持たないという選択もあります。タレントのタモリ氏などはそれを主張しています。

 

目的を持つことが楽しみであり自己奮起になるならばそれも良し。でもそれが苦しみになるならば手放すも良しといったところです。最初に主観を持ち、それを梃子にして対象を区別して分析するという、ありのままではなく差別相対が前提の認知が分別であるならば、真の智慧は無分別知として囚われないことによって見えてくることもあるといったことで、目的意識もまた空を軸に見ることが大切に思います。仏教ではそれを大悟といっています。

ともあれ全ては空であり、一つ一つには実体がないという視点に立つと、全ては互いの関わり合いにあり、全てはバランスにあるということが鮮明になってきます。そうすると「持たれあい」は大切な考えであるということが浮かび上がってきます。本来の日本人は長い歴史の中でこの考えの方が中心であったようにも思えます。

 

そしてこの持たれあい、から「慈悲」の心は生まれてきます。慈悲は関係の中から自然と湧き上がる縁起の動きです。慈しみは、人々の心に幸福を与えたいという気持ち。非(憐れみ)は人々の苦しみを取り除きたいという気持ちです。この慈悲(正確には四無量心と呼ばれる徳目、慈悲喜捨の二つ)の心こそが利他の本質行動といえます。

お釈迦様は紀元前6世紀もの前にこういったことへの真理に辿り着いていたと思うと、今の社会を見る限り人間の業の深さを慨嘆するところです。

体験学習という理論では、体験と振り返りによる知的理解での気付きの普遍化が提唱されています。瞑想はそれだけでも効果があるのですが、最初は慣れずぎこちないためにインパクトが得られ難くなかなか継続が出来ません。それが最も高いハードルになっています。そんな時に瞑想後に行うと効果を引き上げるとされる方法があります。記述による深掘りです。

日常でできるメタ認知トレーニング

では最後に日常手軽にメタ認知を記憶に留めるための方法として瞑想後にマインドフルネスを高める効果の高い記述法を紹介しておきたいと思います。ぜひ1日10分ほどの瞑想と共にどれかを選んで実践して見てください。

メタ認知の前提となる自己認知力は訓練によって強化することが可能であり、文章を書くことによって自らの考えや行動、感情、信念についての洞察を深め、自己認知を高められるといわれています。方法的に三種類の文章タイプがあります。 瞑想によって心を静め整えた後に行うと強力な効果があります。

 

1:Expressive Writing(エクスプレッシブライティング)

他人に見せることを前提とせず、文章や言葉の間違いも気にすることなく、ただ思っていることをありのまま書き出していくというものです。

エクスプレッシブライティングは難しい感情を処理する上で有効とされており、 自己認知を高めるほか、 抑うつ症状や 不安、 ストレスの軽減などにも役立つといわれています。

2:Reflective writing(リフレクティブライティング)

特定の状況や記憶について記述し、さらにその内容について「自分は何に気付いたのか?」「この出来事が自分をどう変えたのか?」「違った行動をしていたらどうなっただろうか?」といった点に着目し、自分の考えや反省を書き込むというものです。次に生かせるものを見つけたり自分の行動を評価したりすることもできます。

リフレクティブライティングを行う場合は、自分自身に質問を行い、常にオープンなマインドと好奇心を持ち、分析する姿勢が必要となります。人々が自分の経験と相互作用から学ぶことで 自己認知を向上させることができ、メンタルヘルスや人間関係の改善も期待できます。

3:Creative writing(クリエイティブライティング)

クリエイティブライティングとはその名の通り、詩や小説(短編・中編・長編含む)といった文章による創作のことであり、記憶と共に想像力を使用し、比喩や心象表現といった文学的なスタイルの執筆を行うものです。

クリエイティブライティングは思考や感情、アイデア、信念を探求するユニークな方法を提供し、「気候変動への懸念を示すSF小説」「友情への信念を表す童話」「不眠症の苦しみを伝えるフクロウ視点の詩」などを書くことができます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?