• 経営者として、意味ある人生を生きる者として、自分固有の哲学観を持つことの意義を考える

経営者として、意味ある人生を生きる者として、自分固有の哲学観を持つことの意義を考える

お陰さまでここの所大変忙しく、ソモサンのネタが浮かび難いこともあって「今週はサボろうか」というすけべ心を抱いていたのですが、こういう時に限って「ソモサン読んでますよ」という読者の方の声を頂き、「いかんいかん」と再奮起した今週のソモサンです。

 

見渡しますと、日本では未だに経済成長が追い風の時代であった価値観に染まり、その残照や思い出に囚われる経営者が一杯います。そして何時までも過去の栄光にしがみ付き変化に対応できず経営体力を無くしていっている経営者も昨今相当数目にします。

そういう人たちに共通するのは、良かった時に大した工夫をしたわけでなく、ただただ我欲に従い利己的な金儲けを優先する思いが心中を支配するのみだったために、「その時代は誰が経営者をやってもそこそこには会社が上手く回っていく時代であったのだ」ということや、「自分に経営能力があってここまで来たわけでもないのだ」といった実存にまで思いを及ばせることができないということです。

 

そういう人たちには「哲学観」というものがありません。古来日本の経営者は二宮尊徳に代表されるように「道徳の経営」を行ってきました。知っている方もおられるでしょうが、世界の中で200年以上に及ぶ持続性を確保した会社を「エノキアン企業」といって世界が賞賛しています。

日本はその件数が3000を超えます。中国で9件、インド3件、ドイツ800件、オランダ200件ですから圧倒的な老舗大国と云えるのですが、その原動力が家訓などによって組織の凝集性を確保する「徳」の哲学と云えます。組織にとって如何に求心力たる哲学が重要かは、以前のソモサンで理念の重要性として紹介させていただきました。先の経営者たちにはこの哲学観が欠落しているのです。

経営とは科学に使え哲学を具現化する

日本では戦後西洋文化が半ば強制的に導入されたことも交え、国際競争の舞台に躍り出たのを機に競争力のための合理性(科学)を一挙に取り入れるようになりました。それが欧米型の「マネジメント理論」です。

この両輪によって戦後の日本企業が行動成長を成し遂げたのは確かな所です。しかし永続性を追求する「日本型哲学論」と成長拡大を追求する「欧米型マネジメント論」は目標に対する長期と短期という視点における決定的食い違いがあります。

 

誤解なきように説明をしますと、そもそもマネジメントとは手段としての科学です。そういう意味において日本型哲学に基づいた創業目的や経営目的と衝突することはありません。しかし西洋型マネジメント手法はあくまでも西洋型経営哲学に付随して生み出されています。そういう意味においては輸入理論を導入するに際しては一定の翻訳、日本的な思想観に見合った改変が求められます。

例えば「愛」という思想は西洋では宗教的に神のみが持つ絶対的心根であり、「神の前で人は皆平等である」という概念です。つまり神のみが無条件の愛を持ち、人同士は無条件ではないその人なりの思いの表れで、そこには隔てが存在する関係という観念です。

そう、ですから西洋の愛にもとづけば、まず自分があって、そして他人という考えによる行動になってきます。ですから欧米の愛の精神を持ってすると時に押し付けがましさが生じます。

一方日本は仏教的な思想が根底になり、愛とは「慈悲の心」という概念になってきます。慈悲には隔てがありません。日本の愛の精神は「無私」です。ですから日本における愛は受け身の精神です。欧米は能動です。そこにボランティアの仕方などが出ています。

教会は積極的ですが、寺が消極的なのはその為です。良し悪しは別として。このように手段は目的に応じます。欧米型のマネジメント論はやはり欧米の宗教や思想観をベースに作られています。ですから日本に持ち込む際にはアレンジが必須なわけです。

 

さて欧米型でも日本型でもそれなりの思想観があれば問題は軽いのですが、哲学観のない経営者は、当然我欲に拘泥する思いが軸ですから、経営哲学の大義たる「関与するステークホルダー、中でも所属する仲間たる社員の物心合わせた幸福を追求することが使命である 」という思想にまで考えが辿り着くことはまずもってありません。

その所作は人材育成面で顕著に現れます。まずもって人を育てていません。何より金には関心があっても人には関心がないのですから。

好景気の時は実入りも多く大方の人は不満も少なく黙々と働くことでしょう。大きな障害もそうはないはずです。また関わる人も哲学レスの同類が金を目的とした利害共同意識で参集します。非常に薄い繋がりです。

本人たちも自己啓発意識は希薄です。あってもあくまでも自分個人の利己的目的のための啓発活動です。会社や仲間のためではありません。お互いが目先の利に走る集団。それでも事業が当たれば会社はうまく回ったわけです。

しかしクライマックス(絶頂期)は永遠には続きません。必ず停滞や衰退が始まります。その時求心力のない組織はどうなるでしょうか。思いがない組織。金が得られない組織。自ら金を得る力を持つ人やその準備をした人から離脱し始めます。人に関心がなく、人を育てなかった会社に忠誠心も感謝もありません。

その帰結として人資産は減るばかりで、残った人もどちらかというと行くあてのない人ばかりと云った状態で、有効には機動しません。やがて組織としての知恵や勢力は機能不全となり、力なきものは先も見えずの状態に陥り、元より哲学観がないので、今後の経営の舵の切り替えも道筋も判然としなくなっていきます。

そして皆が背を向ける中、孤軍奮闘で日々の自転車操業に追われる状態に陥ることになり、混迷の度はどんどん増す一方と云った有様になっていきます。そうなると沈む船から逃げるが如く、人も歯止めなくどんどん辞めていくといった羽目になっています。

 

何が間違っていたのか。もはや後の祭りです。これはそもそもが間違っているわけです。そもそものところで経営のイロハが分かっていなかったことが原因です。

「経営とは科学に仕え哲学を具現化する活動である」これは欧米の著名な経済学者の言です。経営とは科学的でないといけない。しかしそれはあくまでも哲学を具現化する手段であり、道を方向づけ人を参集させ凝集一体化し動機付ける目的たる哲学がなければそもそもの体をなさない、という道理が分かっていないわけです。

哲学のないエリートが経営を滅ぼす

高度成長の波に乗った辺りから、日本は徐々に苦労をしなくなりました。「逆境は人に哲学的な模索を与える。それは自分なりの人生観や価値観を構築する」と云います。人は確固とした人生観や価値観を持っていないと「こういう生き方をすべき」とか「こういう判断をすべき」といったアイデンティティを持った意見を他人に説けなくもなります。

そうです。苦労をしないと自身の中に哲学を構築できません。私は時折高学歴者を批判することがあります。皆がそうだと言っているわけではありません。しかし大手企業の本社スタッフやエンジニア、学者や二世といったインテリの多くは何でも頭の中の思考で物事を処理しようとします。

しかし圧倒的に現場の五感的な臨床知が脆弱です。特に人を動かす感情といった知覚情報がお粗末です。こういった人がエリートと云われる立場でリーダーシップや指揮を取る状態になったのが高度成長以降の日本の経営状態です。

こういう人たちと面する時一番感じるのは固有の哲学観の無さです。形式知は多いので、いろんな本や論文からの情報は駆使します。曲がりなりの哲学も披露します。しかしそのどれもが他人から得た情報や考えで、自分が苦労して身に付けたオリジナルの知恵や考えではありません。

エリートさんは学者がデータを元に一般化した理論やテクニックを振り回すばかりで、特に泥臭いものづくりは分かっていません。

哲学観がないと人は積極的になれません。当然逆境にも耐えられません。人に関心がないから人を育てません。当然人は付いてきません。こんな安直な理屈が何故に分からないのでしょうか。

私は高度成長で苦労を知らず頭でっかちになったエリートの台頭に加えて、それを加速させる西洋型のマネジメント論への妄執があったと見ています。元々あった戦後の欧米コンプレックスも一因でしょうが、競争に生き残るため、西欧の合理に追いつこうとするがため、日本型の良さをも犠牲にして西欧型のやり方に教育すらも傾倒させたことが日本経営の脆弱さに拍車をかけたのではないでしょうか。

その典型がMBA礼賛です。未だにそうですが書店に行くとMBAを謳ったり冠した本が席巻しています。そのどの本も哲学の重要性よりも方法論の合理性を謳っています。MBAが全て悪いわけではありません。私もMBAの講座を受けていますが、その殆どが財務とマーケティング、戦略といった論理ばかりで、組織とか人とかいった領域はお粗末なばかりです。哲学も殆どといって含まれていません。

 

一方で実践的な経営現場で問題になっているのは、戦略の妥当性よりもそれを動かす組織の硬直性や力の分散、そして人が動かないといった実行的な側面です。知らないことは出来ません。それよりもエリートがいうのだから確かだろうとばかりに、誰も組織問題に目を向けようとしない負の連鎖です。

組織を動かすのには人の存在が外せません。そして人を動かすには心を打つ関わりが外せません。それには論理よりも哲学観が欠かせないのです。

最近名を成してきた埼玉大学の宇田川さんはその著で組織が硬直するのも疲弊するのも、組織内が「私と貴方」といった血や感情の通った関係ではなく「私とそれ」といった無機質な関係になってしまったからだといっています。まさに彼の主張の肝だと思います。

 

学習は大切です。しかし間違った学習をすると悲劇です。人間一度色づいたことを脱色するのはなかなか大変です。何を学習するか、何を捨てて自らを変えるか、成長の鍵は自分固有の哲学観があるかないかで決まります。

貴方は借り物ではない自分固有の哲学観を持っていますか。それは貴方の思考の柔軟性を見ていれば一目瞭然です。そして心ある人はそこを注視しています。有能な人よりも有用な人になりたいものですね。

 

さて皆さんは「ソモサン」?