• 組織で起きている人の生産性を阻害する根本問題としての力動という存在を考える。

組織で起きている人の生産性を阻害する根本問題としての力動という存在を考える。

悪意のない対人攻撃 「舐める」軽んじる」の違い

巷では良く「舐められる」という言葉を耳にします。はたまた「軽くみられる」という言葉も同様です。この両者一見似たように思われますが、かなりニュアンスが異なる言葉です。実際弊社の連中も両者をごちゃ混ぜにして捉えていました。

では一体何が違うのでしょうか。

 

それは前者が意識的な態度から出る言葉であるのに対して、後者は無意識的に出る態度からの言葉ということです。「何だ、それの何が違うんだ」と思われる方、いやいや、両者は全く違う影響を相手に与えるのですよ。

意識的という世界には無論悪意という意識も入っています。一方無意識の場合、本人的には悪気はない、流石に善意はないでしょうが、気にしていなかったということも含まれています。これは人間関係においての間や場というものへの認知に大きな影響を及ぼします。

 

例えば、意識的に悪意を持って「相手を舐めてかかる」といった行動や言動は相手に対して大きくマイナスの影響を与えるのは確かです。しかしその相手がそれを気にしない自尊心を持っている場合、その情景はどの様に推移していくのでしょうか。

もちろん相手が鈍感という場合もあります。でも多くの場合、それこそ対人への感情が醸成されない障害がある人の場合を除いては、相手の意図的な態度に対してそれを感知出来ない人はそう多くはないでしょう。

相手を舐めてかかる態度を露骨にされてもそれが気にならないのは、発した人の力が弱いというよりも受け手の認知として、それを意に介さない自己概念を持っている場合が殆どといえます。

その為こういった状況では発した側が返り討ちの様な状態になり、ある種自業自得の様な状態になります。そしてこの場で生じた負のエネルギーは発した側に蓄積される様相となって行きます。

でもそこには期初として(良くはなくても)理性的で自己選択的な認知も同居していますし、そもそもその動機自体が発した側の自尊心の低さに由来するものでしょうから、その憤りが感情的な爆発に繋がることはあっても、それを自分の内面で修正していく手立てもないわけではありません。要は意識的に一定の制御が効く世界だということができるわけです。

一方、無意識に「相手を軽んじている」場合、それ以上に相手に対してと言うよりも、やり取りの内容自体を軽く見て発言している、大した話題ではないと認知している場合はどうでしょう。

こちらの場合、受け手が自尊心が高ければたとえ相手に悪意があったとしても気にはならないので、問題自体が生じないことになります。しかし発した側に悪意はなくても受け手の自尊心が低い場合、お互いの間には大きな衝突が生じてきます。

このような時、悪意のような意識的な上での対峙であれば、双方に負のエネルギーが蓄積されることになり、それがエネルギーのぶつかり合いによって相乗化することが圧倒的な状態となります。

一方、いくら発する側が悪気がないにしても、受け手の方に引っ掛かりがあることになれば、その負のエネルギーは一方的に受け手側に蓄積されることになり、しかも受け手側にはそもそもの意図はないわけですから、そのエネルギーは行き場をなくして一気に噴き上がることになります。

これは外に対して出るとは限りません。内側に噴出してストレスを生み出し、精神的に病む場合もあります。悲しいかな、きっかけを作った張本人には罪意識はないから、その憤りはどんどんエスカレートします。そして抑止が効かない状態まで到達してしまうのです。

そういった現実を見ていますと、一見同じような行為であっても、私的には実は後者のパターンの方が罪深いと考えています。皆さんも認知されるように、前者には少なくとも悪意という意図があり、その分責任意識が内在しており、後者にはそれがないからです。後者は解決の糸口が見つかりません。

そして残念ながら昨今の人としての意の教育が疎かになった社会状況においては、この後者のパターンによる弊害が至るところで噴出し、それが組織内での最も大きな中核的問題となっているだけでなく、引いては社会問題のレベルにまで発展しているようになっているのです。これが人への関心ということの本質といえます。

例えば、人が一生懸命話しているのに相槌もない。また感謝や労いといった感情的交流がない。人の話の腰を折る。多くは腰折りまではいかなくても、人の話に反応せずにいきなり話題を変える。

しかも自分が話したいことにしか関心を持てずに、相手の話に無反応に自分の話をし始めるなど、弊社でもこういったことを無意識にやる若者がいますが、これこそが「軽く見ている」と受け止められる骨頂といえます。

こういった人が周りから好意的に見られるわけありません。このようなコミュニケーションのやり方が人との距離を作り出し、結局は見えない損失を生んでいるということに無意識なのが、現代における組織人的な啓発不足の表れであるという典型例ではないでしょうか。

力動の基礎となる自尊心と組織行動における欲求

では、この「舐める」とか「軽くみる」がどうして対人関係や組織の凝集性、生産性にそんなに大きく影響を及ぼすのだろうか、ということについて言及していくことに致しましょう。それは人の心の本質は須らく力動(力の作用)によって支配されています。

先週でも紹介しましたが、人はその心根において、物事への判断や行動を全て力(ちから)とその相互作用に対しての認知に基づいて選択をしているわけです。

例えば「頭に来る」とは、自分が見下されたとか大事にされなかったという「力の弱さ」に対しての自己認知が、反射的な内的感情表現で発露される状態です。それが高じると攻撃や逃避といった外敵反応にまで発展します。

ここで大事なのは感情とはあくまでも副次的な反応であるということです。ですから幾ら感情のマネジメントを唱えたところで、「認知のあり方」という根本がそのままですと何の問題解決にもなりません。人は自分の認知のあり方に応じて感情の引き出しが異なり、感情のパターンや強弱もそれぞれなのです。そしてその認知に突き刺さるのが「力動」の作用です。

 

認知にダイレクトに影響する一つに「自尊心」があります。この自尊心には動物としての本能である欲求行動が大きく作用しています。ハーツバーグという心理学者は、人の欲求にはまず衛生維持として「自己保存」ための独立的欲求があり、それはそこに人がいようがいまいが生存や安全保障のために発動すると唱えました。

そしてその欲求が満たされた時に、始めて「関係的欲求」が発動して、より永続的かつ高次安全を求めて促進的行動を取ると説明したのです。そしてやはり心理学者のマズローはそれを段階的に「集団帰属」「自我地位」と定義して、この両者が外的要因の欲求として最終的な「自己保存」たる「自己実現」としての内的欲求につながっていくと説明付けしました。

両者は「受け入れられたい」とか「認められたい」といった微妙に異なるニュアンスで発露されますが、共に「承認欲求」として顕在化します。

自尊心とは承認欲求充足が自己認知されているか否かのバロメーターみたいな存在といえます。集団帰属と自我地位という対人関係上で生じてくる二つの欲求が充足されている人は自尊心が高い状態となり、自己実現がなされている状態として、ポジティブな意識が常態となっているということになります。

こういう人は帰属に心配はなく、地位にも優劣心がないので非常に精神が安定しており、力動に対しても緩急において非常にバランスの良い取扱いができます。ですから誰からも信頼されますし、好かれます。ポジティブスパイラルが綺麗に廻っている人で思考にも歪みがありません。徳の高いとはこういう人のことを云います。

 

さて「集団帰属」と「自我地位」ですが、両者はどちらも自尊心を生み出す欲求であることは紹介させて頂きました。では両者の実際的な違いとは何でしょうか。具体的な違いがあるとすれば、それこそ前者が「無視されたくない」つまり「軽くみられたくない」という無意識的欲求であり、後者が「見下されたくない」つまり「舐められたくない」という意識的欲求と連動しているということです。

このことは前者の方がより原始的欲求に近く、それだけ不安定で傷つきやすいということを物語っています。人は集団帰属の方に強い危機感を抱きます。

 

だからこそ人は「軽くみられる」ことに対して想外に強く反発的反応を起こし、そういうことに無関心な人、軽薄な人は手痛いしっぺ返しを喰らうことになるのです。

集団帰属の段階は、目的自体が集団に居場所を作りたい。群れから孤立したくないといったレベルでの「大事に扱われる」ことへの欲求意識ですから、個別での具体的な目的はありません。だから大部分は無意識的に反応が起きてきます。

またここでの欲求は「強い弱い」「得損」といった本能的なことが判断基準になります。一方で自我地位は、集団帰属は保障された中での「大事に扱われる」ことへの欲求意識ですから、これはかなり顕在的意識で、しかも固有の価値観も浮き出てきます。

「好き嫌い」とか「支配服従」といったより指向的で意図的なものが判断基準の中心になってくるのに加え、「個別嗜好」な判断基準も台頭してきます。こうして大事なことに対する見方が広がってくるのです。広がってくるというのは、集団帰属レベルから自我地位レベルになったといっても自尊基準が変わるわけではないからです。

どんどん基準が加わっていくのです。自尊という上下への幅が大きくなると同時に価値という幅も広がってより織物は複雑な紋様を呈し始めるのです。

このような誰しもが持つ欲求本能の持つエネルギーはより人間として高次的な意識になるに従って複雑な様相となっていきますが、応じて力動に対する認知のあり方もより個別的により対人間で乖離的になっていきます。

ある人にとってはどうでも良いことが、ある人とっては精神を病むくらいに大事になることがあります。ちょっとした一言が人を傷つけ、恨みを買い、時には殺人まで引き起こすこともあります。そこまでは行かなくとも力動の働きは、組織的には面従腹背を生んだり、反発や抵抗の要因となります。

そう感情を引き起こすのもネガティブな思考を呼び起こすのも全ては認知のあり様です。そして対人生活における認知の起点は力動に対する受け止め方から始まるのです。

組織開発に不可欠の力動調整

JoyBizは創立以来、組織開発上で生じる問題の根本所在を探究してきました。論理思考的な齟齬や共感の歪み、何がコミュニケーションの破綻を生み出し、集団の凝集性を阻害し、士気や動機を低下させ、組織内に不信感や厭世観をもたらすのか。ポジティブに組織開発をする以上にポジティブな組織を作り出す原動力は何か。

組織に限らず家庭や夫婦など対人間で生じる様々な気の歪みに共通する訴求点が必ずあるという仮説のもと、実証実験を繰り返す中から、結論付けられたのが「力動」の存在でした。そういう実体験を通してJoyBizでは新たに組織道というアプローチ概念を考え出し、今後の注力的テーマとすることにしました。

組織道のエンジンは以前よりご紹介させて頂いてきました「LIFT」という概念です。改めてLIFTを説明させて頂きますとLはLife、つまり人としての生活全般を意味します。組織活動もそうですが、社会活動も含めて生きるにおいての全ての活動です。無論コミュニケーションやコラボレーションのような集団に通じる活動も含まれます。

そしてIはIntentionです。これは方向づけるという意味です。方向づけるとは考え方や意志のベクトルです。人間間における力動的な衝突や歪みは、まず考え方や価値観の方向性の違いから生じます。

これには社会ルールのような規律的なものから社会規範のような約束事のような人として社会維持或いは組織維持のために握るべき方向性もあれば、その組織内で特有の理念的なものもあります。

はたまた個別の価値観の違いの中で相互に理解し合い、契約し合うものもあります。力に対する良し悪しの捉え方や好き嫌いのあり方といった方向性の違いから余計な或いは無駄なネガティブ力動を生み出され、それが生産的な関係を阻害させることが多々あります。その方向づけを調整することが一つの重要な開発的なアプローチと捉えています。

Forceはまさに力動を表す言葉です。重要なのはこのForceが内在している言葉の定義です。純然と方向性も持たず存在する量的な力は通常Powerと称します。このPowerに方向的なエネルギーを加えるとForceという言葉に変わります。

例えば軍隊はForceという力動になります。有名な映画「Star Wars」では「理力」と訳されていました。知恵の力といったところでしょうか。この力動は熱量、ポテンシャルのあり方といったところです。力動への反応はその力の強弱のあり方やそこへの認知、また方向ではなく量的な出し方が関係に齟齬を生み出すことがあります。

最後にTはTreatmentのTです。まさに調整です。力動は意識的に出される場合もありますが無意識に出される時もあります。どちらにしても自他ともに何らかの作用を起こし、それがポジティブでプラスの作用であれば良いのですが、ネガティブでマイナスな作用をすると生産性の低下や機能不全など望ましくない結果を生み出す事に繋がります。

そうならないように相互の間を調整するのがこの概念の骨子です。JoyBizではこのLIFT概念を「力動学」として組織道の中核的な動力源として対人関係の円滑化や組織開発に応用展開していく所存です。

 

ということで、当面このブログはこの力動学を具体的にご理解頂くべく、具体的な事例を交えながら、「力動」とは何なのか、現場でよくある力動的な問題にどういったものがあるのか、人は力動にどの様な反応をするのか、では調整とは何なのか、一体どうすることなのかなどなどを順を追ってご説明していきたいと考えております。

尚、読者様のご要望におきまして、今後は研究発表的なスタイルではなく、読者様の実用を鑑み、内容を毎週これまでの三分の一程度に減らし、読み疲れの無いような体裁に変更していきたいと思いますので、その点何卒ご理解頂けますと幸いに思います。

うん?何処かで良かった良かったという声が聞こえてくる気がしています。

それでは来週も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?