新元号に変わるに際して思うこと

皆さん、こんにちは。

日本人のアイデンティティはどこに行ったのか

今週は10連休の真っ直中の日々を送っていらっしゃることと思います。GW中は日本を離れていて、このメルマガを読んでいるのは掲載1週間後の方もいらっしゃることと思います。私は溜まっていた書類の整理と著述に追われる日々となっております。

さてそれぞれの方においてそれぞれ悲喜交々な日々を送られていることと思いますが、本来ならばこの休日期間は先進国的でありながらも同時にアニミズム的であるという世界でも希な存在の日本にとって、元日以上に敬虔な態度で歴史的な行事を国民が共にしなければならない10日間といえます。

とまあ堅い調子で始めましたが、最近面白く思ったのは元号問題です。日本の元号は憲法違反だと本気で裁判を起こしたという人達がいるのです。それも「基本的人権の侵害」というのだから驚きです。内容は「国民が有している<連続している時間>を切断して国民一人ひとりの<個人の尊厳>を侵害するもの」というものですが、まず「へえ」と思うのは国民の時間連続の基準は西暦だという主張です。そして更に天皇の交代によって勝手に時間軸が寸断されるということは「天皇と共に生きろ」という強制であると主張しているのです。皆さんは果たしてどう思われますか。

私的には基本どうでもいいというのが本音ですが、何か日本人としての美徳や哲学といった文化の香りがここまで薄まってきているのかと慨嘆する思いがあります。確かに公文書が元号表記を義務づけて強制的に二重の時間軸を強いられるというのは、もう少し便宜があっても良いのではないかとは思います。しかし、それが人権侵害かと云えばそれは別問題のように感じるわけです。

それよりも考えるべきは日本人としてのアイデンティティの有無がグローバル時代にどのような影響を及ぼすか、ということの方が’重要な問題のように思えるのです。

昔SF作家の小松左京氏は「日本沈没」という小説によって、日本という母国を失った日本人がどの様に他国の中で生きていけば良いのかを問いかけました。また哲学者の山本七平氏は「日本人とユダヤ人」という論説によって、高速道路の中の民とオアシスの中の民という比較から日本人の甘えの構造を問い質しました。

何れにしても我々日本人は島国的な物理的な安住の地とそこで育まれた共通の安定的な価値観によって、身も心も穏やかで豊かな状態を享受してこられたという恵みの中に生活を営んでいます。そしてその日本人としてのアイデンティティの象徴、ブランディングとして天皇が存在しているわけです。「自分たちは日本人だよ」という存在観を自他共に打ち出して心を充足させているわけです。

人によってはそれが生きる意味となって「私」を支えてくれている場合もあります。それは海外に出て生活を体感すれば一目瞭然です。アメリカのような歴史のない国では日本の歴史やアイデンティティを羨ましがる人が一杯いらっしゃいますし、天皇のような存在によって日本を信頼する国も一杯あります。日本が観光立国になれている理由の一つも歴史の価値であり、その象徴としての天皇の存在といえます。元号は天皇の存在を認知する手段としてのビジュアルとも云えるわけです。

私的には今の日本人はあまりにも西洋中心のある種、洗脳的な教育によってオリジナリティとしての日本人の価値の体系を軽視、或いは忘却の度を高めてしまい、意のない国民、世界の中で民族的な気概を失った、心が貧弱な民族として馬鹿にされる立ち位置に堕してしまっているのではないかと危惧する思いです。それが韓国や中国とのやり取りやアメリカとの交渉にも現れているのではないかと思うのです。

個人の尊厳は重要です。しかしその個人は手段や組織の中で活かされている存在です。人は関係(「間」)の中に存在を発揮する生き物です。そういった中で人はもっと「活かされているということ」に感謝の念を持たなければならないと思います。飽食の時代において今の日本人はあまりにも感謝やありがたみという概念に鈍感になっているように思えます。

そして歪んだ個人主義が横行し、人間関係がギスギスし、未来への見通しがどんどんと曇ってきているように感じます。今回の訴えは行き過ぎて偏った個人主義の横行がもたらした社会風潮の現れの一つのように思えます。

個人と集団の調和をとる時代

SMAPが解散したときに、組織に残る決断をした木村氏は大きく糾弾されました。しかし彼らは組織に守られてあそこまでの地位を築けたのが現実です。彼らのマネジャーも同じです。木村氏はただ組織への恩義を重視し、組織人として振る舞っただけのように思います。それは中居氏も同様です。私の目には他のメンバーの方が身勝手な存在に映っています。

しかし日本は判官贔屓で、どんなに組織のお世話になっていても個人や自由を礼賛する傾向があります。礼を持たない似非自由人を尊ぶ風潮が行き過ぎると集団は何れ崩壊します。

大きな力から見放され、個として戦わなくてはならない立場になったとき、多くの力なき存在はなにを思うのでしょうか。人はもっと感謝という気持ちを、活かされている側面をありがたいと感じる感受性を磨く必要があると切に思う今日この頃です。それこそが殺伐とし始めた日本社会に潤いを取り戻す唯一の手段だと思うのですが。

「令和」は命令の令と和議の和の融合体です。まさに組織の二面性である執行集団と討議集団を表す言葉と云えます。令和の時代には行き過ぎた個人主義、我が儘主義を軌道修正して集団調和主義としての社会行動が尊ばれるバランス時代になると良いと願う次第です。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。