頭が悪い、ということ

恩田 勲のソモサン:第七回目

 

巷ではよく「あいつ頭悪いからなあ」という俗語が飛び交います。この「頭が悪い」とは具体的にどういうことでしょうか。作家の吉田健一氏は「人は食うために働くと云うが、食うという動詞が生活一般の漠然としたことを指している場合が多く、それでは意図は伝わらない。人と意思を共有するには具体的に食べたいものを想像し、観念的ではなく、肉体感覚にまで注意深く表現することが重要であり、日常的に注意深くない人が必要なときに突然注意深くなると云うことはない」と指摘しています。

 

全くその通りで、この「頭が悪い」という表現もそれだけでは単なる悪口で、相手の行動改善につながるわけでもなく、それこそ云った方の頭の悪さが露呈している状態と云えます。例えば人事担当者の中には、頭の良さは即ち理知があることであり、人は理知の枠組みを理解さえすれば理知的になるだろうと安易に信奉する人がいますが、そういう人は自らの理知が足りないが故に理知というものを具体的に解釈することができないため、結局のところそういった世迷い言にたぶらかされることになってしまっているように思われます。
実際巷間でこういうレベルの人の多くは、理知とは論理と知識の掛け算であるという外延だけに目を向けてすぐに「論理思考」に飛びつきます。論理思考の枠組みは「演算処理としての四則法則」や「演繹や帰納といった思考法則」そして「因果関係」といった内容がその殆どです。ここには肝心な思考が生成する生々しく五感的で身体的な実際の訓練は入っていません。
ところが理知が立たない人は、なにが目的であるか、ということに頭が働かず、その枠組みを学習すれば理知的になれると錯覚し、枠組みだけで理知的になれるとばかりにそういった講座に多額のお金や時間の投資をするわけです。
実際こういった「だましの講座」の何と多いことか、また受講生の多いことか。もしもそういった人が読者の中にいらっしゃったならば一言。残念ながらそういった枠組みをいくら知っていたからといって理知的にはなれません。

 

さて前触れはこの位にしておいて、具体的に頭が悪いとはどういうことかを探求してみましょう。
皆さんの中にはトヨタさんが「問題を発見したらその原因を5回は何故だと究明しなさい」と教えているということはお聞きになったことがあると思います。私たちが持っている問題解決のプログラムにも原因究明というセッションがあります。この原因の究明という論理課程を実習すると頭の良し悪しの本質、すなわち思考力の程度が浮き彫りになります。これは枠組み論で云うところの「ロジックツリー」、マッキンゼーさんは「ピラミッド思考」と称しているところです。通常この思考法を的確にやれば、大まかな現象が具体的になっていったり、問題に対する原因が更に本質究明されたりします。
ところがいわゆる思考力に欠ける人は、「何故?」「どうして?」と問う流れの中で「こうだから」という理由に対する探求ポイントが2段階程度で想起できなくなったり(頭が白くなると云う奴です)、理由が元の原因に戻ってしまい究明の論理がループ状態に陥ったりと云うことが起きてきます。要は日常深く考えるということをしていないわけで、頭が動かなくなってしまうのです。
そう頭が悪いと云われる人の顕著な特徴は、思考の深堀、思索的な探求が出来ないということです。こういう人は日常では言葉尻に反応したり、対症療法的な対応をしたりしか出来ません。また施策が浅い日々を送ってきていますから、知識や情報に対する多様性も多面性もなく、狭い知識量の中で返答しようとするために思索が非常にワンウェイ的で求める答えのピントを外したり、ボキャブラリーの少なさから多彩な比喩が表現できないので話が分かりづらく内容を簡潔に纏めることが出来なかったりという特徴もあります。

一般に頭が悪い人は論理が飛躍したり、因果関係上必要な情報が欠落したりするために話が生産的に進展し辛いと認知されていますが、それは最も外延的なところで、寧ろ思考的に深堀出来ないことの弊害の方が大きいと云えます。従って従来の論理思考啓発のアプローチは殆ど効果を得られないわけです。
ワンウェイ思考とは演繹的な思考しか手立てを知らず、そのたの前提を求めるが故に懸念論や原理原則論へ拘ろうとし、とても狭量的で保身的に映るという特徴もあります。時には独善的利己的に認知されるときもあります。こうなると理知と云うよりも意気の方の問題も関わってきてしまいます。

 

こういった思考の偏りは活動の偏りを招くことになり、情報収集に対する行動も限定的になってしまうため、それが思考の固定化という悪循環を加勢させてしまう結果にもなってしまいます。そうなると良好な意思疎通が阻害されることにも繋がってしまい、徐々に防衛的保守的でネガティブを主軸とした思考に陥ってしまう人も結構見られます。
こういった問題を抱える人は理知の領域を超えて最早意気の領域に闇を持っていることになります。つまり人の話を聞かない。自分に都合の良い聞き方をし、そういう話しか聞こえなくなるという観念にどっぷり浸かってしまい、ある意味学習姿勢に開き直りが生じてしまいます。そして前提の姿勢がそういった現実から逃避しようと反応するようになります。そういった状態に陥った人にそれこそ理知や論理の枠組みを教えたところで使いこなせないのは必定ですし、まるで砂に水を撒くに等しい行為と云えます。
ということも分からずそれに執心する人はまさに「頭が悪い」を地でいく人としか言葉が見つかりません。でも30歳を過ぎた人には意外と多くみられます。これはもう能力よりも意思力の問題になっています。
意思のない人に枠組みを教えても意味はありませんし(やっても名目的にこなすだけでその場凌ぎをする)、やらせても反発するか逃避的・防衛的に反応するだけです。
最早云って聞かせるとか、自己判断に委ねるとか、気づきを求めるといった生ぬるい手段では何ともならないことを、自分自身が「頭良く」「頭を使って」自覚しなければなりません。
思考ができない人には徹底して思考をさせるしかありません。運動でコツを体に染み込ませるのと同様に、思考も脳にコツを染み込ませるように徹底して訓練をするしかないと云えます。これをPDC的に行うとすれば、研修会のような一過性ではなく、現場で論理的な人が徹底して対話を行い、チェックし、修正をして正しいコツを擦り込むしかないわけです。こうなると根性や辛抱と云った情的な領域が頭をもたげてきます。確かに周りから前向きな空気を演出させることも重要な要素です。しかし、いつでもそういった他力に依存するようでは自分を鍛えることはかなり困難になります。
まあ、それが分からないと云うこと自体が、頭が良くならない主因であると云えるわけです。嫌なことをさせるには躾と同様に最初は鍛錬しかありません。思考も体の反射神経同様に訓練で鍛え、無意識に反応するように慣れさせることです。そうして出来る様になれば楽しくなり、自助努力が働き始めるのです。何事も出来ないうちは辛く面白くないものです。技術とは須らく最初は目的意識を持って我慢し耐えて身に付けるものです。

今の若い人の多くはそういう経験を積まなくて済む環境下で自分を鍛えずに成人となった人が一杯います。そして30代を超えた頃から主体とならざるを得なくなった段階で苦しむ結果に陥っています。これを乗り越えられるか否かで人生は決しますが、結局ヘタレはそういったレベルでの人生を選択するしかありません。繰り返しになりますが、これはもう意気の問題です。理知も結局は意気に掛かっているのです。
ともあれ「頭の良さ」とは理知のみではなく、意気や情熱と云った要素も包括した能力であることだけは確かな様です。

さて皆さんは「ソモサン?」