• クールモメンタム発動における倫理と宗教の役割 ~ソモサン第262回~

クールモメンタム発動における倫理と宗教の役割 ~ソモサン第262回~

皆さんおはようございます。

これまで1年近くに渡って追いかけてきた「モメンタム」ですが、JoyBizが本来追いかけてきたのはSD(セルフ・ディベロップメント)、つまり自己啓発としての世界ではなく、リーダーシップやコミュニケーションを通しての組織マネジメントの世界です。日本のマネジメントはつい最近までは上意下達を徹底させる統制アプローチで、相当に嫌なことでも我慢してやれ、といったネガティブな概念が支配していましたが、ダイバシティ&インクルージョンが世界レベルで叫ばれていることや、心理学や脳科学の発展を背景として、人が生産的に行動するための動機づけ的、支援的アプローチがマネジメントの主目的であるというように、ポジティブな概念に大転換が進行しています。しかし残念ながら一度染み込んだ想念や習慣はなかなか変わるものではなく、未だに昭和なアプローチで組織の生産性を下げ続けている名ばかりの管理者が闊歩している現状も残念ながらあります。

JoyBizはその様な背景の中で、とくにZ世代に対して動機づけを可能にする心理的な概念としてモメンタムというアプローチを開発し紹介し続けてきています。

例えばパッとしない人が気づきを得たり、マイナス思考に陥っている人が発想転換できたり、エネルギー切れになっている人がエネルギーを充填できたり、生きがい漂流によって今ひとつ集中できない人が示唆を得られたり人生を楽しく感じさせたり、と人が持つ本来の姿を取り戻させるためのマネジメントによって組織的にもシナジーが引き出される状態を演出するアプローチに力を注いでいます。JoyBizはこれまでの行動心理学や脳科学の研究によって、それこそが21世紀以降の「心の時代」にふさわしいマネジメントのあり方と確信しているからです。

これまではマネジメントの一つの鉄則である「リーダーシップを発揮する」という概念の筆頭に位置づけられる、「セット・エグザンプル(やって見せる)」を表現する「まずは隗より始めよ」という言葉に基づいて、マネジメントを実践するマネジャーの自己啓発を念頭にモメンタムを語ってきました。今週からは実際のマネジメントを語っていこうと考えております。

言葉と音楽に見る「論理と感情」の相互影響

先週のNHKの番組である「クラシックTV」において「音楽と言葉のマリアージュ」という内容が紹介されていました。クラシック音楽が如何に人の心に影響するかについてがテーマで、冒頭に「歌詞と音楽がどう結びついているか」という話があり、ゲストの漫才師である又吉直樹氏が「歌詞だけだと今ひとつピンとこないが、そこに音楽が鳴ったら急に腑に落ちるということがある。旋律によって歌詞の保つ意味が更に分厚さを増す。例えば宇多田ヒカルの『初恋』という楽曲の場合、それを聴くと実際に初恋を体験した時の感情が呼び覚まされ、その時の感情になる。言葉は大雑把にその対象となる全般を意味することしかないという限界があるが、音楽は言葉に含まれるより細かめの感情を伝えることが出来る。まさに琴線を奏でるということで、旋律やリズムを伴った言葉によって感情が繋がっていって、それが音楽になる。」と評していました。私はこれまで音楽の旋律やリズムの視点を基軸として、そこから織り込まれる言葉の力を捉え、モメンタムにおけるホットとクールの関係を分析していましたが、正直何処か音と言葉の関係がしっくり云っていませんでした。音楽が持つリズム感覚などが瞬間的なホットモメンタムにおける感情を惹起させるのは確かですが、その高揚的な気持ちをより持続的なクールモメンタムとしての思いに繋げるにおいて、言葉としての歌詞がどの様な効果的な役割を果たしているかを十分に説明できていないと認識していたのです。

又吉氏はその反対に言葉の世界から音楽を捉えて、旋律やリズムの持つ力を射抜いた説明をしていたのです。無機質な言葉(や論理)の世界に潤いを与えて人の感情に論理を繋げていく、これは「お笑い」の世界にも通じる話です。確かに「この人は非常に論理的だな」とその頭脳の働きを称賛できる人は多くいます。しかしその論理を人に感情も含めて伝達できる人はなかなかいません。昨今どんどん少なくなっている感もあります。どんなに立派な御高説も、伝わらなかったら全く用を為しません。こういう人に共通するのは言葉が人の心を打てないというあり様ですが、その顕著な例が「人を笑かせられない」「ユーモアがない」といった振る舞いです。話がつまらない、というよりも話に気持ちが乗れないといったところです。又吉氏の言を借りると「腑に落ちる」です。

欧米、特にイギリスなどでは、本当に頭が良いというのはエスプリが効いた話ができる。ジョークやユーモアある話ができて、人の心(この場合は感情)を解きほぐせるということだと昔習いましたが、これは話すだけでなく聞く場合もそうです。最近の若い人は本当にジョークが分からない、冗談が効かない人が増えました。妙にクソ真面目なやり取りしか出来ず、そのために話が盛り上がらないパターンが増えてきています。換言すると「頭が固い」ということです。これでは人に影響は出来ずリーダーシップは発動できません。

一方で最近の若い人が人一倍「お笑い」を求め執着するのも不思議な限りです。本能的には感情的な潤いを求めているのかも知れません。それにしてもそこまで他者に依存するなよ、自らが「柔らか世界」を演出できるコミュニケーション力を身に着けろよと私的には思う次第です。

この話が盛り上がるという「柔らか世界」は、創造性においても大きな働きがあります。「お笑い」が出来る人は共通して創造的です。漫才でも脚本を書く側(主にボケ側が多いですね)は創造的な人が多いようです。古くはヤスキヨの横山やすし氏。ダウンタウンの松本氏やウッチャンなどボケるのはツッコミに対して相当な「笑かし」のリズム感、センスが必要です。そう、笑うとはリズムです。そういった感情を揺さぶるのが音楽の力で、それによって言語が有機的になって心に染み入っていくわけです。

又吉氏が漫才師なのも含めて非常にモメンタムの構造を解き明かしてくれた一時でした。これはマネジメント的にも重要なところで、確かにまず持って「笑い」はポジティブな感情であり、そのリズム感で人の心を解きほぐしながら言葉を相手の中に織り込んでいけるマネジャーには高い人気があります。印象も明るく、それによって話しやすく、特に目的がなくても人が接してくるのでシームレスに情報を仕入れており、オープンな姿勢が基調でそれによってタイムリーな思考や判断が出来るといった正のスパイラルを持っています。こういうマネジャーであるならば、そういったロールモデルが近場にあるならば、「自分もマネジメントをしてみたい」と思う現場も増えてくるでしょう。まあ皆さんも周りを眺めてみてください。どうです、自分も含めて、居ますか?

この番組では言語の象徴たる文学と音楽との歴史的な関係や発展についても詳しく紹介がされていました。

音楽が古典派の時代、音楽に文学を持ち込むのは邪道だったそうです。音楽的には文学の物語が音楽の純粋な感情の揺れに対して邪魔のように映っていたのだそうです。ところがロマン派の時代に入ってその考えが一変しました。音楽だけによる想像の限界にブレークスルーが求められ、徐々に楽器だけの音楽に詩歌を組み込んでいったのです。どこか技術が芸術に昇華されていったプロセスを視るようです。その代表がベートーベンの第九やシューベルトの菩提樹などです。流石ベートーベンが「楽聖」と呼ばれたわけで、その理由も分かってきました。彼はイノベーターだったわけですね。そうして言葉の力を得たことで音楽は大きく表現の幅を広げていったのだそうです。

このプロセスには人にとってモメンタムを高めるための成長と発達の段階が如実に示されています。より心が高次に発達していく上での右脳と左脳が統合されていくプロセスです。思考を高めるには感情の力が求められ、感情の発達にも思考の啓発が必須であるという相互作用の話です。

因みに18世紀以降、欧州はキリスト教的な価値観を背景に、個人の思いよりも理性や道徳を重要視する世界であったのが、その息苦しさからの脱却という後押しもその改革の理由だったそうですもっと自由に快楽を享受したい。それは普通の人の欲に対する本音です。そうしてゲーテのファウストなどの影響もあって音楽と文学は深く融合されていったそうです。

その流れにおいて、ショパンは更に詩から得たインスピレーションを音楽に昇華させていきます。それは一度自分の中に入れてそこからインスパイアされて出てくる世界です。また、シューマンは文学的な原作があるかのように音楽を作っていきます。ノスタルジックな思い出などをショートショートのように音楽にしていきました。音楽がどんどん文学に歩み寄っていったわけです。人間としての脳が進化していく真骨頂の話です。

面白いのは、今度は19世紀に象徴主義の詩人(ベルレーヌやボードレーヌなど)が「その瞬間の印象や感覚を言葉として捉える」という形で、音楽的な言葉や文章を操りだしたという流れです。彼らは「音楽から詩人たちの富を取り戻す」という標語でフランス語の響きやリズムを重視して音楽のように聞こえる詩を追求し出しました。いわゆる韻を踏むアプローチです。それは時には文法的な言葉の配置を無視することもあったようです。音楽の発展に今度は文学者が啓発され、追いつき追い越せという競争が始まったわけです。そして更にはドビュッシーの牧神の午後のように、その韻律に影響される音楽家が生まれてきます。音そのものを大事にする。詩の響きそのものを纏った音楽を追求するといった塩梅で、こうなるともう混戦状態です。

このように音楽と文学は相互啓発的に発達してきた歴史がありますが、実はここにモメンタムにおけるホットの領域とクールの領域の関わりにおける非常に複雑で切り離せない世界における理が潜んでいます。そうモメンタムがホットからクールへと発達していくプロセスが読み取れるのです。動物的な生得感情だけの世界から思考が啓発され、人間的な意図感情が育まれて、より深い心情を誘発する。そうして歌詞を持った楽曲、音楽がモメンタムをより深く長く盛り立てていく。このような構造や効力での間違いのなさがその発達経緯と共にモメンタムの力を証明しているわけです。ホットとクール、この関係は一朝一夕で出来上がったものではなく、両者が絡み合った一つのセットとして存在するということが論理としてきちんと示されているということです。

倫理の中核を担う宗教の本質的な意味を振り返る

ところで、先週もご紹介させていただいたクールモメンタムの支柱たる倫理ですが、世界中の殆どの民族や国家において、その精神的支柱であり価値の体系として宗教を位置づけているのは皆さんもご承知のとおりと思います。価値の体系とは判断基準や分別の軸となる拠り所です。人はその基準に従って自身の生きる目的なども想像していきます。いわば「何のため」の「何を」を担う世界です。人はお互いに共通する判断基準がないと協同することができなくなってしまいます。「力」の暴走をコントロールするのも「価値」です。

先だって、ある人からキリスト教の世界観は愛だけど、仏教は死なのかな、という問いがありました。素朴ですが、そのニュアンスにはキリスト教は陽だが、仏教は陰の印象を与えている感じがあって、何処か近寄りがたいところがある、というメッセージが含まれているように聞こえました。それは若い頃に宗教学を齧っていた私的には少々違和感を覚え、残念な思いがしました。単純に云えば、さすが西洋はイメージ作りが上手いと言いましょうか、キリスト教は市井にポジティブな印象を与えており、信者であるなしを超えて活動の活性さにおいて大きな力を得ているのは確かです。そういった視点だけでもこのイメージの持つ違いは大きいと思います。人の生きように対して倫理的支柱という同じ使命を担った両宗教にとってこの認知の違いは、特に仏教的な倫理観で社会形成してきた日本人にとってはその影響も大と云えます。これから日本人は国家としての求心力をどうして維持し形成して行くのでしょうか。

そもそも仏教が死のイメージになったのは「葬式仏教」という印象に負うところが大と言えます。本来宗教は須らく「生」を扱う思想なので、このイメージのあり様は謂わゆるCI(組織アイデンティティ)として残念な話と云えます。これは若者の仏教離れにも少なからず影響があるのではないでしょうか。実際には自然宗教的な概念としては正月には社寺を問わずお参りしているのですから仏教に日常的に触れて入るのですが、そこにある有益な教えを積極的に学び、それを生き方に応用すると云った動きは戦後加速度的に失われていっています。

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、葬式仏教とは人生の節目である冠婚葬祭において、今や葬儀の時にしか仏教が関与していないこと意味し、それが引いては「死」という印象と結びついて、何処か陰のイメージを作り出してしまっている、それ故にネガティブな印象とともに仏教を忌諱したくなる状態を醸し出しているということです。

徳川家康のキリスト教禁止の政策の中で、その監視のために檀家制度を設け、それによって仏教を強制した歴史があるわけですが、それが漫然化を産み、更に江戸中期から儒教を取り込んで催事も掌握することから、いわゆる倫理よりも利益という宗教本来の姿を見失った一部の神社仏閣があったことは事実ですし、更にそれらを含めて明治期の廃仏毀釈で宗教が政治利用として振り回されたという歴史も見逃せませんが、それよりも大事なのは、ダイバシティ化やグローバル化の中で、国家間や民族間が価値体系によるアイデンティティによって相互に立ち位置を明確にして渡り合わなければならない現在の状態において、歴史的に価値的支柱とされていた宗教が、ある意味国体にも繋がる人民の精神的な支柱、特に倫理的な柱でなくなった場合、日本人は次に何を柱として自分や民族を語るのでしょうか。

果たして今の日本人は無宗教と自他共に認識があります。しかし日本人は自然宗教(意図的にではなく、生まれてからの生活的に身に付けた宗教)としては神仏習合の政策以来、神道と仏教の混成思想が根っこにあり、厳密には無宗教ではありません。ですから様々な生きるうえでの判断基準として、特に仏教の教えを拠り所にし、そしてそれを糧に生き方の方向づけをしています。そういった存在として心の拠り所であるにも関わらず、それに対して多くの人たちが無知なのは悲しい限りです。信じるものがないと生きていけない。頼るものがなければ生きていけない、それが人間の本性であると言います。対象があるということは孤独ではないということを意味します。実際、したり顔を気取った少数の知識人を除いて、大多数の人達はお互いに寄り添って生きる存在です。そういう人達にとって信じる対象がなければ悩み苦しむだけの生き様に陥ってしまいます。宗教の意義は人の心や生き方に安寧と幸福をもたらすことにあります。人とは数理的な証明のみで割り切れる存在ではありません。それを分担しているのが倫理的な世界です。「生きる」を支えるのが宗教の本来的な使命です。

例えば末期医療としての「ホスピス」という存在があります。ホスピスは人が最後まで生を謳歌するための機能を担う存在です。人間が人間として最後まで人間らしく過ごすための取り組む場所といっても良いでしょう。そしてそうした人達の残りの人生に対して、何を大切にして生きていくのかというプロセスに寄り添う(スピリチュアルケア)のが宗教本来の役割です。ホスピスはキリスト教が作った概念を体現する方便ですが、仏教にも同様に「ビハーラ」という施設があります。それが国民的宗教であるにも関わらず、今一つ認知され普及されていないのは、やはり死のイメージが与える負の力だと思われます。

人の持つ「悲しい」という事実にではなく、「悲しいの持つ意味」に対応していく。例えば末期がんの方に対し、残りの時間をどう過ごすかの選択に置いて、その整理のお手伝いをする。心の充足を促進したり、活力の充填をするのが宗教やその従事者の役割といえます。

そして「葬式仏教」の存在です。今は多くの人が儀式の側面だけに目を向けて語っています。しかし葬式は本来残った人たちの安寧のための取り組みです。死による別れに直面した時、残った人たちがその現実を受容し、これからの自分の「生きる」という気持ちや思いに向き合うプロセスに対して、それを上手に対処していって貰う為の儀式といえます。近親者の死という事実によって、これまでの流れから止まってしまった時計に対して、その心の時計をリセットする時間と場を提供する。ありのままを受け止める時間と場を提供するのが葬式の本来の意味です。そういった支援をするのも宗教の役割なのです。

そして最後に面する人や生き残った人が次に向けて心を整えるのが、「マインドフルネス」の本質です。メディテーションはキリスト教でもそうですが「祈り」の一つの形です。「祈り」によって心を整理し安定化させます。そして決心を持って次を選択し、更に一歩を歩みだします。これがモメンタムです。

私の友人である川野さんは精神科医として日々クライアントに向けてその方向付けの支援や助力をしていらっしゃいます。そして彼はその支援を単にマイナスに足を踏み入れたクライアントだけでなく、健常者でも誰しもがいつ陥るか分からないマイナスの状態に常に対処できるように、またその衝撃を幾らかでも和らげた状態に導くべく、仏教の教えにある倫理を広く伝えようと活動していらっしゃいます。

精神科医の仕事も仏教の教えの現実化の一つと言えるのでしょう。しかし医学でも重要なのは予防医学です。備えあれば憂いなし、です。そしてその具体的な活動としてマインドフルネスの普及やモメンタムの紹介もなさっています。

先週に引き続きですが、人としての生きる意味とは何か。企業人は何故企業組織に従事して日々を送っているのか。自分は意味のある生き方をしているのか。倫理という視点から見つめ直してみて頂けますと幸いに思います。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?