• 心の歪みは単に過酷な状況からばかりに生まれるものではありません

心の歪みは単に過酷な状況からばかりに生まれるものではありません

前回カサンドラ症候群による職場内のコミュニケーションやリーダーシップの瓦解ということについて紹介したところ、読者の方からとても役に立つフォローを承りました。

 

「社内におけるパワハラのようなハラスメントの多くはやり手側のアンコンシャス・バイアスといった歪んだ認知だけでなく、やり手の情的障害によるカサンドラ現象を受け手の方も勘違いしているのかもしれない」というものです。確かにやり手の方が障害的な問題を抱えている場合、いくらハラスメント教育を行なってものれんに腕押しです。ハラスメントのような他者に悪影響を及ぼして組織の生産性を悪化させる問題の解決には介入者の無知や思い込みはかえって事を複雑にしかねません。

 

ということで前回までは生理的なレベルで人間関係の希薄さを生んでしまう心の障害や経験として醸成されてしまった歪んだ社会体験による後天的なレベルでの心の障害を取り上げました。

今回は反対に関係的には濃密なんですが、それが社会的には歪んだ体験として心の未成熟さを生み出す結果になってしまう心の問題を紹介したいと思います。

人間という生き物は本質的として、不快なものを避け、快適なものを求める性向を持っています。これを心理学的には「快感原則」と呼びます。社会的存在としては心が熟されていない幼児などは徹頭徹尾この原則に従って行動しています。利己主義的な思考はその一つです。

しかし人間は成長するにつれて、一般的にはただ「快感原則」に従って行動していくだけだと社会的な関係の中ではかえって「痛い目にあう」ことがあるということを学んでいきます。

 

裸の王様はどこにいる? ~快感原則と現実原則~

なぜならば「快感原則」は万人誰しもが欲する性向ですから、万人が同時にかつ平等に得られる快感以外は、関係の中で得られる快感に対して差が生じたり関係の中で快感の損得交換が起きたりすることがあり、その両者の間に生じる受益のアンバランスが起因して関係がこじれてしまい、結果得た快感以上の不快感を被ってしまうことになることが多々あるからです。

つまり誰かが快感を得る過程で誰かがそれによる犠牲をこうむるという関係が起きる中では一方的な快感取得は成立しづらいわけです。

例えば、自分の主張ばかりしていれば、そこから反射的に受ける社会的な不利益に憤る上司や保護者に叱られます。自分は無責任だから良くても、誰かがその責任を代理しているのが社会です。端的に見れば、友人同士の関係において自分のやりたいことばかりを主張していると仲間外れにされてしまうなどもその一つです。

そうしたことを経験して、人は「嫌なことでも必要があればしなければいけない」とか「自分の欲望や衝動を、ある場合には我慢しなければならない」ということを学んで行くわけです。そして成長するにつれ、世の中には社会的生活上相互がバランス的に快感原則を享受し合う心構え「現実原則」を身につけて行くことになります。

人は徐々に「快感原則」から「現実原則」へと行動の基点を置き換えていくのです。それが大人になるとか社会人となるといった成長過程です。そう、快感とは自然に得られるものではなく、努力して得るものなのです。

 

ここでいう「現実原則」とは、「快感原則」のような本能的な生理欲求ではなく、「今は仮に不快に耐えることになったとしても、長期的に合理を考えれば、より不快を少なくし快を多くすることになる」という認知的な社会欲求に基づいた行動を選択するといった、人間のもう1つの心理原則のことです。

先の「物言い」の例でいえば、「今は面倒くさくても、ここで一旦人の気持ちを重視して人を受け入れれば、上司にも保護者にも怒られないし、人も自分の主張に譲歩して話を聞いてくれる。結局はその方が物事は通るし、より大きな快感につながる。だから、今はもっと人の主張に耳を傾けよう」と考えることです。

 

「快感原則」の力は本能的な力ですから、結構大きな影響があります。皆さんも「裸の王様」という寓話を知っていると思いますが、「裸の王様」は単に本人が調子に乗っているだけではありません。頭抜けた勢力を持つ人に対して周りが「現実原則」を発動した中で相互のバランス関係が失われ、本人が思うよりも権力が増大した中で、それがちょっとした油断による「快感原則」による意見、行動の発露によって暴走し始める現象です。これは大人になっても、特にリーダーになると多出し始めます。

 

この「快感原則」は多くの場合「誰も俺の気持ちをわかってくれない」といった「不信感」や「孤独感」から漏れ出てきます。「自分の主張が全てだ」「自分の考えが一番正しい」「お前らは分かっていない」或いは「皆自分を利用することばかり考えている」と自分の中では正義だが、周りからは「慢心」と映る状態になった時に、人は自分の意見を言ったり関わったりすることをやめてしまいます。

「言っても無駄だ」「自分はマイナスに見られている」とばかりにまわりの方に「現実原則」が発動し始めます。そして黙って忖度を始めるのです。この時リーダーは、自分は「現実原則」だと信じています。しかし人は誰しもその人なりの「快感原則」を持っています。それは平等な感覚です。

リーダーの「快感原則」は周りの「快感原則」と乖離します。リーダーが周りを「快感原則」ばかりだと認ずるに応じて、周りはその考えがリーダーの「快感原則」だと受け取ります。そして周りの「現実原則」はリーダーの「現実原則」を「快感原則」だというように判断する様になります。そう「裸の王様」化のスタートです。

 

古くは織田信長や明治以降の天皇の例がありますが、身の回りの経営者の中にもごまんと居ます。豊臣秀吉も箴言(かんげん)してくれる人がいる内は賢者でした。リーダーは常に自分の「快感原則」をチェックしてトリートメント(調整)し続けなくてはなりません。

 

最後に明智に反抗された織田は「是非もなし」と言いました。その瞬間彼は自分の暴走に気が付いたのではないでしょうか。まあ、トランプは確信犯というか障害の方が大きいと踏んでいますが。

ともあれリーダーは浮き、現場は忖度と狭量な知見で非生産的な度を高めていくことになります。

 

現代は甘えて未発達な人が増えている

ところで、昨今「欲しいものは何でも揃う」とか「自分の主張は無条件に受け入れられる」といった環境や対人的に葛藤したり、我が儘が通用しない裸の環境の経験のない人、特に溺愛されて裸の環境に晒されていない人や「裸の王様」の如く社会的に苦労や我慢といった辛さを経験していない学習不足、経験不足の人は、現実原則をしっかりと身に付けていません。心構えが未成熟なままに外見だけ大人になっているという人が増えています。

少子化による一人っ子の増加による溺愛や経済の豊かさによるもの余りやサービス過多による貧困意識のなさといった仮の便利さがこの状況に拍車をかけています。

一人っ子は親の溺愛だけでなく兄弟がいないために兄弟間での心の葛藤の経験が乏しく、幼少期に「現実原則」を経験する場が与えられていませんし、ものが溢れ親が溺愛する中で兄弟間でもものが満たされる中で一人っ子でなくても「現実原則」が未発達な状況が増えてきています。

最近若手俳優がひき逃げ問題を起こしましたが、あれもこの原則の好例と言えます。今回のような交通事故であれば、俳優さんにはまず被害者を助ける義務が生じますし、警察や救急車を呼んで事情聴取も受けなくてはなりません。しかしこれらの行動は短期的に見れば非常に面倒くさいこと、つまり不快なことに当てはまります。

 

さらに俳優さんは、事故を起こしたことが報道されれば仕事にも影響が出るでしょうし、世間からもバッシングを受ける可能性があったでしょう。これも「不快なこと」として頭の中に浮かんだことでしょう。結局俳優さんは「快感原則」の命じるまま不快なことを避けたい一心でその場から逃げてしまったと考えられます。

 

これが「現実原則」へと行動を置き換えていくことが出来ていたら、「いやもしここで逃げたらもっと大変なことになってしまう」と合理に判断することが出来たでしょう。「現実原則」はその時々の状況を合理に判断し、どう行動するのが自分にとって一番「不快」を少なくできるかを感情を抑えて考えようとします。

 

報道によれば俳優さんは物心つく頃からチヤホヤされて、普段から嫌なことから逃げるタイプの人間だったと報じられています。育ての親ともいえるマネジャーの「忠告」も無視し、本人のためを思って素行の悪さをたしなめてくれる周囲の人間も遠ざけてしまった。

 

とりあえず目の前にある「不快なこと」を避けてその場から逃げてしまうのはまさに「快感原則」の典型です。若くして売れてあまり下積み経験のない人は、得てして「自分は特別な人間だから少々のことなら許される」という根拠のない特権意識を持ってしまいがちです。皆とは言いませんが、「薬物中毒」にも見る限り、総括するとどうしても陥りやすい落とし穴ではあると言えます。

「快感原則」で行動する人は、「あれは運が悪かった」とか「環境が悪かった」とか「周囲の人が悪かった」とか、自分が悪かったことは棚に上げて、何でもすべて他のせいにしてしまう傾向にあります。

 

「快感原則」を制御して卒業するには、まずその存在を知って、次に自分の責任を自覚することです。そして耳に痛いことでも他人の忠告や助言は、今後ちゃんと聞くように心がけないといけません。まさに『良薬は口に苦し』で、真摯に耳を傾ける姿勢をまず作ることしかありません。それこそが「快感原則」を調整して改めて「現実原則」に移行していくために必要なプロセスとなります。

 

残念ながら「快感原則」でしか行動できない人は破滅しやすい傾向にあります。警察沙汰になるような事件や事故をおこした人の場合、その多くは「快感原則」で行動しています。

 

良いなと思う異性がいたら衝動的にレイプをしてしまうとか、欲しいものを見つけたら見境なく奪いにいくとか、カッとなることがあったらすぐ暴力を振るうとか、「快感原則」の赴くままになされる行動は犯罪と直結しやすいということです。

そしてさまざまなハラスメント行為を引き起こす温床にもなっています。それも本人にその自覚がないままに行ってしまうのです。ハラスメントはアンコンシャス・バイアスや障害ばかりではないわけです。

 

「快感原則」は社会的に人との関係の中で相対的に発せられます。ですから一人で向き合っていくのはなかなか何処からどこまでとか、何がとか気付くことが難しいテーマです。支えが一番重要な要素になります、上司や保護者、あるいは参謀などの存在が成否を握ります。しかしそういう人がこういった概念を認識していなければ何もなりません。

 

最近の若者は学力に関してはうるさく関わられますが、こう言った心構えに関しては未成熟な人が非常に多くなって来ています。親自体がそう言った環境で育ち、もはや子供に何を教えなければならないかが分からなくなってきています。高学歴だが何か考え方がおかしい。人に関心がない。思いやりがない。当然協働という意味がわからない。組織というものの重要性がわからない。そう言った人たちがSNSで大騒ぎをする昨今。いよいよ彼らがマジョリティとして社会の中枢に座しようとしているのが現代です。

 

人には厳しさも重要である。厳しさを乗り越えてこそ成長がある。古くから言われた金言ですが、その理由の一つにこう言った概念も含まれているのは確かなことだと思います。

それよりも「快感」は生理的本能です。常に油断大敵です。そうマネジャーは孤独が前提だからです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」