バイアスの矯正とトリコロールが意味するもの

先週の初めに、私の人生に大きな影響を与えた前職の経営者であり中興の祖と云われた方が92歳でご逝去されました。 

現役時代には非常に厳しい方で何度も叱責を受けたのですが、今の自分があるのはこの方との関わりがあっての賜と自覚しています。 

現役時代には様々な哲学的な教えを口にされていましたが、今回は生前を忍ぶ意味も込めてそういった内容を交えて文を認めようと思います。 

 

先週、確証バイアスから脱却するには、バイアス化した認知を強い刺激によって矯正する以外には手立てがないという旨に触れさせて頂きました。 

例えば、飽食によって緩慢としてしまった思考の在り方は、体感的に飢えを経験することから認知を改めるとか、多少リスクがあったとしても強制的に窮地に追い込んでそれを打破させるといった方法でバイアスを修正するといった具合です。 

では、バイアスがない状態とはどういう状態を云うのか、それは自然界における鉄則であったり、集団社会における万人に普遍的な道徳の在り方であったりを指します。 

 

昨今の若者の「浅慮と短絡思考の弊害」といった問題を解決するのにも、このことは当てはまります。今の若者の行動特性は一定の共通点があります。 

それは今の多くの若者にとって「利他」という考えが皮膚の裏側にまではきちんと染みいっていないということです。利他は共生という本能的な概念に端を発する思考ですが、 

それが飽食になればなるほど希薄になり、その状態が代を重ねるほど強くなっています。代々が基本を教えないから分からない、分からないままに経験もしないから気にしなくなる。意識しなければ徐々に思考停止が進む、といった循環が形成されているのです。つまり今の若者の浅慮や短絡、それ以上に利己的な志向性は親の影響が大と云うことです。 

知力ではなく意の在り方においては、親がしっかりしていて子がおかしいというケースは希です。 

そういった歪みは、ネット社会やマスコミの歪みによって群集心理的に助長され、知は重視しても意を重視しない風潮が蔓延してきているのです。 

 

この問題の本質は、ほ乳類型の生物が自然社会において生き残るために身に付けた集団性に対してのルールの修得が、飽食によって妨げられてしまったことに起因しています。 

その前提は「無い」が基本なのか「有る」が基本なのかということです。これが人の道徳心や哲学観に大きな変化をもたらしています。マズローやハーツバーグは、人の欲求・本能には物理的生存に関する生理的欲求と社会的生存に関する心理的欲求に大別されると説きましたが、現代は飽食によって物理的生存が満たされ、生理的な危機感が希薄な中でも共生的価値観の衰退と個別的価値観の多様化によって人と人との間に心理的な距離が生まれ、社会的生存に不安を持つ世界観になりました。 

そのため利己的でありながらも繋がりを欲するという歪な構造が生まれてきています。それをネット社会が助長し、今はヴァーチャルであっても嗜好の合う人と繋がり、リアルで五感的な世界であっても嗜好の合わない人とは繋がらないという不可思議な状態になっています。従って人間関係は全て好き嫌い一辺倒に偏り、それでいてリアルに肌観的な触れ合いは欲するという、かなり心理的に歪んだ人間が続出してきているのです。そのような状態では、未来を生み出す問題解決のための思考力よりも、今を楽しむ対人関係力の発揮に精を出し、愛想は良いが他者の思いや気持ちなどには目が向かないといった人たちが刹那的に行動し、コストばかり生み出すということになりかねません。 

 

こういった人たちは何事も依存的で、自ら考え逆境を超えて何かを得ようとする根性もなく、独創性が育っていないことに加えて未来に失望していますから、刹那的で我慢が出来ません。 

そういった自分を内観したくないので、条件反射的に他者に責任を転換して自分を温存しようということにだけ思考が行きますから全く成長の足掛かりが持てません。 

全く困ったものですが、こういう人材は一見すると対人関係力に長けていてアメニティが高く、何かと使える人材のように映るのが面白いところです。 

 

こういった人材の対人関係力は、あくまでも「自分のため」の対人関係であるという意識面を見逃していけません。能力は意識によって開発されますが、その能力が必ずしも社会のための能力とは限らないのです。 

「利己」的人材の対人関係力はあくまでも「自分が得する」「自分が損をしない」ためです。一見対応が柔らかくても、基本はまず自分ですから、火中の栗を拾うとか、責任意識といった動きはありません。 

ともかく人に優しく人に甘いのは、何よりも自分が良く見られたいからです。自己保身に走る人材は社会的な対人関係力の持ち主ではありません。自分に甘いので成長も期待できません。 成長しませんから幾つになっても自分に言い訳をしながら生き続け、何事にも臆病で、それを自分は傷つきやすいと行った美辞麗句で誤魔化して生き続けます。社会的には従属的に生きる存在と云えます。 

 

一方「利他」的な対人関係力の持ち主は、相手や人を第一義にしますから、時には相手に厳しいですし、自分が嫌われることを厭いません。責任感が強く、自分に厳しく、依存心を廃して自ら内観し苦手なことでも嫌なことでも目的意識を持って我慢して成長し続けていきます。そして必ず目的を達成していきます。 

人の役に立ちたいという利他的な志が自分に力を与えてくれるからです。JoyBizではこの力をマインド・ヴァイタルとかモメンタムと言っています。まさにリーダー人材であり、人から一目置かれる存在になっていきます。 

利己人材が、リーダーシップを取りたいとか、人から愛されたいとか、真逆の目的を持つのはおこがましいわけですが、前述もしましたが今の若者はそういった当たり前の道徳教育が為されておらず無知なのが基調ですから致し方ありません。 

 

明治時代に西欧に渡った新渡戸稲造氏は学識者達から「日本は宗教教育がない中でどうやって道徳心を教えるのだ」と訝られ「武士道」を執筆したのは有名な話ですが、戦後の日本はそういった道徳や意の教育が欠落したままにもう70年以上が過ぎ去ってしまいました。

さて、冒頭にご紹介しました私の心の師ですが、彼は「人間の社会的な約束事」として万人に共通する3つの道徳概念を教えて下さいました。その基本は中国で云う「タオ」の陰陽2原則にも当たる「人間社会での権利と義務」についてです。権利が陽とすれば義務が陰です。つまり社会において人は、あくまでも義務に応じた中での権利が生じるというものです。 

これには3つあります。フランス国旗にも代表されるトリコロールの3原則。それは個人としての自由・平等・博愛(友愛)は、社会的な責任・差異、そして懲罰(友愛)という土台があっての中で成り立つというものです。共生を考えた場合、社会的な秩序がない限り全体的な維持や発展は望めません。それには責任が全ての基礎である、 

違いが前提である、秩序を維持するには規律がいる、という道徳観があってこそ、自由が享受され、平等が尊ばれ、お互いが愛を持って前向きに関われるということになるわけです。 

 

社会が苦しいときには共生が前面に出てきます。そして協同精神が重視されます。そういった条件下においては問題なく義務は万人に意識されます。社会を形成していく上での基本の基本だからです。 

ところが飽食になり、関わらなくても生きていける状態になると人は個別化を望みます。対人的なストレスを敬遠します。動物界でもトラのような肉食種族は単独的な動きが主ですが、弱い草食種族は集団で群れを組みます。飽食になると個別化するわけです。日本でも、一時は世界最大の成功と云われた農業協同組合が崩壊し始めたのも、こういった意識に対するマネジメントを軽視し、刹那に飽食を享受したからに他なりません。しかし人間社会の実態は飽食が基礎ではありません。日本でも飽食になったのは有史以来戦後の時代だけです。 

いつ飢餓に陥るか分からないのです。従って、今の道徳心や意の弱まった社会は薄氷の上に立った状態であると云えるわけです。ルールのない社会、道徳心のない社会、利己的人材が大手を振る社会など、今、秩序整備が追いつかないネット社会を見ればその恐ろしさが見えてくると思います。 

 

残念ながら社会的に道徳教育がなくなり、家庭教育も飽食と共に今日・明日といった目先の享楽を求めたファスト・ラーン思考による正解探しのような知の教育が横行する世の中になっています。 

それが核家族によって強化され、経年の代替わりによって意の希薄化は進む一方です。ともあれ、利己から利他への回帰こそが今後の社会成長の足掛かりであることだけは確かです。 

しかし利己的人材には利他的人材の気持ちは分かりません。利己は自分の内向きにしか思考が向いていないからです。これを如何に外に向けさせるか、これこそJoyBizのLIFTプログラムの目的です。 

ただし万能薬がないように、根っからの利己人材だけは手に負えません。身体と同じように心にも末期症状というのはあります。我々も特効薬が開発できるように日夜努力は続けているのですが。 

 

さて、皆さんは「ソモサン」?