ビジネススクールは企業の判断基準で目的の生死が決する

これまでのコンサルタント人生の中で、教育に関する仕事としてかなりの割合を占める依頼は社内版のビジネススクールの運営でした。今様々な大学がビジネススクールを開講していますが、残念ながらそこのスタッフは実践的な経営に携わった方が少なく、研究的なアプローチでの企業論にならざるを得ません。また時にビジネス界から転職された先生方もいますが、企業論全体からみるとその一部を担当するに留まっています。加えて先生同士の連携がほとんどなく、企業活動を俯瞰的に見た研修をすることが出来ません。その為分析論に偏った机上論での企業活動の理解に終始してしまう側面があります。中でも大学で弱いのが組織論です。大学運営自体が企業のガバナンスと違うのですから、企業における組織運営の暗黙知が分からないのはやむを得ません。事実ビジネススクールにおいては世界の雄とされるハーバード大のMBA取得者でも経営実務において失敗をしている例が後を絶ちません。実際の所MBA取得者で成功している人は全体の2割といわれています。
そういった状況の中で多くの企業がより経営者人材の確保をするべく、将来の幹部候補生に受講の機会を与えるビジネススクールの社内版を依頼して来られます。このやり方は現在の経済環境における企業の戦略活動において、ワンマン的な運営体勢よりもチーム的な運営体勢の方が、成功確率が高いという実勢にも合致した取り組みといえます。
そんなことを背景に社内版ビジネススクールを依頼されるのですが、では何故それを受けるのがコンサルタントなのか、私なのかというと、意外と理解されていないコンサルタントの真の役割が分かると思います。
大学教授の本来の仕事は理論作りにあります。社会に起きる様々な現象を分析し、その共通点の発見から様々な事象の中に普遍性や再現性がある理論を構築することにあります。それによって万人が一般化された理論を活用することで、より合理的でスムースな問題解決が行えるようにすることを己の使命として活動されています。従って各企業が個別に抱える問題解決はその理論を利用して自分で行いなさいというのが基本姿勢です。
一方コンサルタントは、そういった教授たちが生み出した様々な理論を各企業が持つ個別の問題解決に向けて組み合わせたり、カスタマイズしたりして問題解決のバックアップをすることにあります。ですから、各企業の中に入り込んで活動する関係上、大学教授よりも細かな、或いは暗黙知的な情報を持ち、実践的な活動を行なっています。
欧米では大学教授がより実践的な問題解決に寄与できる理論を構築しようと、自らがコンサルタント活動に身を投じる人がかなりいらっしゃいますが、日本では象牙の塔といわれるように学内での活動が中心の人ばかりです。
そういった中、日本においてはコンサルタントが理論を使った支援者というよりも、固有で特異な経験知を使った教師であったり、業界の環境予測をする評論家であったりとするのが実態で、欧米的なコンサルタントとは違う認知でコンサルタントを見ている人がかなりの数に上ります。コンサルタントの仕事は社会科学上でのエンジニアが本来の定義ですが、コーチの定義が欧米と日本とで違うように、コンサルタントもこれまた誤った活用になっているのは気にかかる所です。中にはAI時代になるとコンサルタントという仕事は無くなるといった頓珍漢なコメントをする人も出てくる始末です。
さてそのエンジニア的な機能の一つに人材育成、特に経営者人材の開発があります。そこでコンサルタントが果たす役割は、企業の内部に入り込んで経営実務に関わる支援活動から得た知見や技能を活かして、各企業が固有に持つ企業文化やガバナンス、意思決定メカニズムといった暗黙知を読み取った中で見いだせる、企業ごとで求めている経営能力を基軸にした人材の開発を行うことです。その最たる領域が企業組織における固有の意思決定構造や政治的な力学のハンドリングと云えます。これは経営リーダーシップにおいて心臓部となる要件です。そしてそれを支えるのが個人としての経営哲学の有無であることは間違いのない所と云えます。企業においてビジネススクールに本当に求めているのは経営をしていく上での知識の向上以上に、経営哲学を始めとした経営者としての意識の開発と醸成であると云えます。

そういった本質から目的を考えると、そこでのエンジニアリングに求められるのは事業に関する実務経験であり、更には組織運営の実務に関する暗黙知と云えます。具体的には前者は銭のやり取りであり、後者は集団運営ということにあります。学者さんの多くは理論に関してはプロフェッショナルですが自身の日々は銭抜きの活動であり、基本個人行動が主でリアルな営業やマネジメントを経験した人は稀と云えます。ですから受講者が経営意識のある人であれば、学者との協働は相互補完的に有効ですが、意識のない受講者を啓発していくにはやや物足らない面があると云えます。ただこれは私自身がビジネススクールに行った経験的な印象も含まれています。
ともあれ社内版でビジネススクールが営まれる理由、またコンサルタントに依頼がある理由はそこにあると私は理解しています。
そうした際私が当惑することとして、企業において意識啓発をするにはその企業特有の判断基準が求められるのにその判断基準が不明瞭という問題があります。企業における判断基準は意思決定においての中枢部です。経営活動においては様々な判断作業が生じます。やる、やらない、進める、退く、どこに重点を置くか、といった具合に企業の生命線は判断活動にあります。従って組織において上位になればなるほど判断行為が主の仕事になるのはいうまでもありません。それがないと現場は安定せず、動きもバラバラになり統制も取れなくなってしまいます。戦略は機能不全に陥ります。ところが古老企業になると日々のルーチンの中でそういった判断基準が不明瞭になったり、明らかに時代遅れで慣習的な判断基準に基づく行動が当たり前になっていたりします。
創業者が存命の企業やオーナー企業が強いのは何よりも判断基準が明瞭だからです。こういった経営者は明確な哲学やそれを地とした判断基準を持っており、その履行を社員に徹底し啓発しています。少なくとも自分が対面できる範囲には直接に伝えています。名物社長と云われる人は社外的にもその基準が喧伝されている人です。ところがサラリーマン社長や後継者になると自身の哲学がなく判断基準が不明瞭な人が出てきて、それを機に会社が衰退期に突入すると行ったことが起きてきます。そういった場合を調べると、殆どが有名な大学の経営学を学んだりと、知は高めているが自身の哲学がなかったり、経営者としての判断基準を持っていないということに行き着くのです。特にバブルのような時代や上げ潮の経営基調によって外的環境に対応するための知恵を使わなくても組織活動が好調に推移した場合、「会社は潰れることがある(寿命がある)」という実存が抜け落ち、内部政治に明け暮れて「社長をする」のではなく「社長になる」ことを目的として活動する輩が出てきます。そしてそういった人材が経営者に推挙された場合、大体の場合が自身の経営哲学を持たず、前例踏襲の判断基準に依存したり成り行きで経営したりする状態に陥っています。そしてトップのみならず幹部全員がバラバラの価値観で活動するという愚挙に陥っているのです。それでも経営環境がプラスの時には誤魔化せます。しかしそれは虚構の経営ですから環境がマイナスに転じた瞬間、新しいことへの挑戦といったリスクが担えずに一挙に転落し始めるのです。
何れにせよそういった状況の打開をするためにビジネススクールということになるのですが、そのプログラム上最も中核となる判断基準を身に付けてもらうプロセスにおいて、会社に組織合意の判断基準がないと魂のない内容に堕してしまいます。魂や心柱がないとモチベーションも上がって来ませんし、モメンタムも生み出されません。そのために活動も活性しません。
せっかくのビジネススクールなのに、組織的に判断基準が不明瞭になっていて、今の経営幹部がバラバラの判断基準で意思決定をしているが故にビジネススクールに肝が入ってこない。本当に困り果てた問題です。
さて、皆さんは「ソモサン」??