学歴と能力が生み出す社会の未来とは

恩田 勲のソモサン:第十六回目

お盆も過ぎ、これからは何をするにも良い時節柄に突入です。とは言え、最近の異常気象(というよりも温暖化に伴う当然の現象といえますが)による台風の連続発生には困りものです。

私の先輩であり名経営者に、西和彦氏という方がいらっしゃいます。知る人ぞ知る凄い人で、大学在籍中にITの未来を見抜き(大学の情報工学は当時電子工学科などと称しており、機械工学科の派生的な見られ方をしていました)、単身アメリカに乗り込み、ヘリコプターをチャーターして当時まだ新進気鋭の若手経営者であったビル・ゲイツ氏に面会して、マイクロソフト社の日本法人を立ち上げた好漢です。
その後情報工学系の雑誌アスキーを出版し、一躍時代の寵児になった方ですが、ある時マイクロソフト社から排除されたという情報と共にメディアの一線から名前を聞くことがなくなってしまいました。今は研究者の立場となり、同時に教育者に転じたということで、最近ネットニュースを通してその話題を知ることとなったわけです。その西氏の話題から前回のソモサンにも通じる内容があったのでそれを少し取り上げてみたいと思います。

彼は今「思えば経営者の仕事は楽であった。ある程度の大きさの企業の仕事はやるかやらないか、投資するかしないかの意思決定が中心だったからである」と述懐しています。本心かどうかは分かりませんが、少なくとも単身ビル・ゲイツに会うべくアメリカに乗り込んだ様な逸材ですから、彼にとっては多くの人が「腰が引ける意思決定」という活動は意図も容易いモノだったのかもしれません。私的には事業家と経営者とは別物と捉えており、彼の言葉を解釈する限り、彼は経営を事業の目線で捉えているとみています。
何故ならば、その後彼が話している研究者の活動は「研究の種をまき、水をやり、葉を剪定して、花が咲くまで、全て一人でやらなければならない。業績評価も厳しく、他者からの評価として駄目出しされるのは日常茶飯事のことだ」と云っていますが、これはまさに経営活動の流れに他ならないからです。
経営ではこれに更に人を上手く采配して、という組織活動が加わります。こうやってみると彼自身が創業した会社を追放されたのは何れの場合も、一人で何かを立ち上げる事業家としてのセンスは抜群であるにも関わらず、その次に求められる組織化という経営者としてのセンスはお粗末であったのかもしれません。これは初期のスティーブ・ジョブズにも繋がる話で、ジョブズの場合はその後禅などで人間学を学習し(それでも死ぬまで結構変わり者であった様です。この辺りは以前ご紹介させて頂いた広汎性発達障害の内容をご参照下されば幸いです)、晩年は名経営者と称されるようになりますが、西氏の場合は(理系には多いのですが)人と組んでやると云うことが苦手だったのかもしれません。

ともあれ彼は経営の第一線を引いた後研究者になるわけですが、その理由が振るっています、というよりも私には凄く共感できるわけです。彼が研究者に身を投じたのは、政府のある審議会の委員に任命された際に履歴書を提出したら、事務方からクレームが付き、西氏の最終学歴が「大学中退」となっているが、中退は最終学歴ではなく、西氏の最終学歴は「高卒」であるので履歴を書き換えるように指示されたと云うことがきっかけであるということなのです。
彼の大学は当時の理系としてはトップクラスですが、中退は在籍したことにならないというわけです。しかも彼の場合「除籍」になっている(これは正確には授業料未払による抹籍処分か在籍期間内単位未修による抹籍処分と云います。西氏の場合多分後者ですね)ので、大学に戻るのも大学院に進むのも駄目であると大学の教務から云われたのです。アスキーを立ち上げ、日本のIT発展に大きく寄与し、マイクロソフトの基幹OS(オペレーション・システム)の開発に多大な貢献をした西氏が相当の多忙で大学に来られず、単位が履修出来なくて、結局規定の8年を超えてしまったのは容易に想像できることと云えます。
それにも関わらず今の日本の教育業界はこの様な状態なわけです。ところが日本の大衆社会の方は大学名などで「中退」を持て囃します。現実にはタモリなども履歴は「高卒」で
す。だからでしょう、本人達は敢えて自分の出身(になっていないわけです)大学を自らは一切口に出しません。人を学校名だけで評価するのは、全てに保証を求める企業を初めとする一般大衆です。西氏もタモリ氏も大変聡明な方です。しかしそれだけでは大衆は適正な評価をせず、必ず大学名を欲しがります。
一方で学校側は、寧ろ学校にとって実体的に役立つ働きをした元在校生に対しても意味のない規定を振りかざし門前払いです。これが学歴社会の実態です。これでは大学もそこに入るだけの受験エリートの集団となり、また社会も本当に頭が良くて社会に貢献できる人材よりも、受験脳だけの人材を安全パイ的に求める退廃的な状態に陥るのは必定なわけです。その結果が、今の文科省の腐敗であり、イノベーションが出来ない企業の有り様であり、リスクに及び腰だが口先だけは長けた若者や、ネット上でストレス発散に明け暮れる病んだ人々の輩出なのではないでしょうか。
私は社会までをも変えるような力はありませんが、少なくとも多くの企業が沈滞し、本来は能力に長けた若者が今の歪んだ社会の風潮に染まってモメンタムを低下させる実状にだけは何らかの抵抗をしたいと思っています。

かくゆう私は西氏のような才能も無く、若いときには一時期学生運動まがいの活動によって覇気を発散していましたが、学卒の資格がないとまともな就職も出来ないという現実に直面し、中退というハードルを越えるまでの気概を維持できずに、ヘタレにどこでも良いから修了証書を貰うべく、大学を受け直して社会に染まるという選択をした過去を持っています。そうして大勢に与して過ごしたその後の25年、何処か発想の全てがネガティブだったのには結構悔いが残っています。まあそういう経歴からすると大きなことは云えない面もありますが、だからこそ残りの人生は、社会的に歪んだ評価の在り方や人としてさもしい人生を送ることで晩節を汚さぬように、ポジティブで気持ちの良い人生を全うするべく過ごしています。
西氏はインタビューで、曲折を経て大学や教育に関わる人生に転身したが、博士号を得る過程の中で、指導教授より「博士の値打ちは次の博士を何人作ることだ」と云われ、「企業でも、社長になった瞬間から次の社長の育成が始まる。優れた社長を育てられた社長は、それだけで名伯楽としての名誉を手にする」と述懐されていますが、全く同感です。
こうして彼は教育者に転じていくわけですが、私は名伯楽になるには、そうした土壌も必要であると痛感しています。それにはやはり会社をより成長させ、多くの有能な人材の目に留まる必要があります。しかし一方でどんなに有能な人材の目に留まっても、その人材を適正に育て上げられる社風が必要になります。彼を門前払いにした学校は、今でも頭は優秀な人材が受験してきます。にもかかわらず数年前の不正論文事件が起きたという現実は、彼の大学の姿勢の末路を物語っているように思え、とても残念な気持ちです。
しかしこういった実態は、大手を始めとする企業の中では外目では見えなくても相当数に噴出している問題だと云えます。ともあれ西氏は、やはり「自己効力感」を一度は地面に叩き付けられたのでしょう。それを不屈の精神で乗り越え、その気持ちを「自己肯定感」に繋いだときに他者貢献、利他の気持ちが生まれてきたのも興味深いところです。川野住職が教えてくれた、人はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を乗り越えたときにレジリエンスが身に付くという論説をまさに体現するような話でもあります。そして元々の西氏のエネルギーを鑑みるに、まさにモメンタムの鏡のような方であると感嘆する思いです。

さて、皆さんは「ソモサン」?
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