• モメンタムマネジメントの第一歩は相手を知ること ~ソモサン第281回~

モメンタムマネジメントの第一歩は相手を知ること ~ソモサン第281回~

料理家の和田明日香さんが非常に蘊蓄あるコメントをネットで語っていました。曰く「SNSはトイレである」。彼女によればSNS、特に誹謗中傷で使うSNSはトイレと一緒で条件反射的な排出欲求に応じた無意識的行為なので気にするだけ無駄なことだということです。まさに同感です。私はSNSで誹謗中傷に明け暮れる輩は、単純に「病んでいる」とみています。和田さんにおけるトイレ的に云うならば、心の排泄行為においてお尻に締まりがなくなった人が所かまわず漏れまくった状態ということです。

人は心が病むとネガティブな制御が利かなくなります。そして所かまわず毒を吐き出し始めます。この根本は孤独感と自己正当化という防衛機制です。人に相手にされないとか認められないといった寂寥感や焦燥感は社会的な存在としての人にとってとても苦しいものです。まして現代のように論理や物理偏重の無機質な知性教育のへいがいによって人間性が未成熟な人たちにとっては我利的な発想しかできないので、自分の所業がどれだけ他人に影響しているかが測れません。

そういう基盤だからこそ心が病みやすくなるという問題に加え、それがマジョリティ化する一方ですのでそういった闇は限りなく相互増殖していくばかりです。

人に関心がなく、人の心が読めない。自分にばかり目線が向いているのですから必然の動きだと云えます。人を知ろうともしませんから自分の言動や振る舞いが与える影響にも無頓着になります。そういった人には他人も振り向きませんから当然の見返りとして孤立の度合いは高まるばかりといった負の循環が加速していきます。

誹謗中傷は過激化するばかりになっていきます。

この人への関心のなさといった流れは最近のマスコミの鈍感さにも表れています。今年に入ってからも大阪の有名芸人のセクハラに対する風評が取りざたされていますが、その内容は被害にあったという女性による一方的な偏った声に肩入れした報道としか映りません。またそういった報道をマスコミがいったというだけで妄信する大衆の姿、それによって自らの偏見を、バイアスとも思わずに誹謗中傷的に参画する正義感ぶった「病んだ人たち」の動向には辟易した気持ちを持つばかりです。

私的には「弱者救済」という名目で、マスコミが偏向報道によってかえって「弱者横暴」を生み出してしまっているように見えています。しかも「報道の自由」に名を借りた傍若無人な無責任行動です。見えてくるのは部数増という儲け主義です。マスコミという権威者がこの様では、一般レベルでの匿名という卑怯な武器を持った誹謗中傷はなくなるはずもありません。明らかに今の風潮は堕落したマスコミの責任が大きいとみています。

近日になってそのあまりの偏向的な状況に一部の体験者がそういった女性の発言は嘘が混じっているという告白をし、今度はマスコミの方が実に防衛心が見え見えの姿勢を示していますが、本当に見苦しい様相を呈しています。

今から48年ほど前になりますが、1976年に「リップスティック」という映画がありました。マーゴ・ヘミングウェイという文豪ヘミングウェイのお孫さんが主演で、その妹さんも共演していた映画でしたが、その内容こそが今回のマスコミの問題点を示唆するものでした。暴行された女性が警察に訴えるのですが、警察は相手にしてくれません。その理由は、1960年代に頻発した暴行事件の対策で警察がかなり強気の態勢で臨むようになったことを利用した逆犯罪が多発したことに起因します。逆犯罪とは「慰謝料」目当ての嘘による告発です。日本でも時折痴漢犯罪で同様の事例が起きていますが、そういった人の持つ闇と権力を持ったマスコミのような公共機関が担う責任を訴える内容でした。常々フェミニストぶる悪癖のあるマスコミですが、事案が本当に真実なのかはフェミニストといった感情論ではなく、きちんと公平に調査によるデータで示してほしいところです。いずれにしてもこういったことが起きるのはやはりマスコミに入るような人材が無機質な学校教育的な知性には秀でていても、生身の人間を見据える人格的教育に脆弱さがあるが故の現代の歪みだと思います。

 

私の共同研究者である川野ドクターは、時折著名人と講演会などをしていますが、先だってエッセイストの青木さやか氏とご一緒したそうです。彼女は昔は舌鋒鋭い芸人として一時代を築いていましたが、最近は真逆な振る舞いで利他的な人生を送っていらっしゃいます。昔私は彼女がどうして「あんなにも攻撃的な言動をするのだろう」「一方的に捲し立てるのだろう」と興味を抱いていましたが、後年彼女自身がその原因として、それが自らの「承認欲求」や「自己顕示」によるもので、それが満たされないところから現れた言動であるということをコメントしていました。そしてそれは原体験での「毒親」的影響がそうさせていたという趣旨の話を語っていました。

その青木氏に対して面白いやりとりがあったので少し転載させていただきます。それは青木さやかさんと鈴木秀子シスターとの対談の内容の一部です。

 

<以下対談内容>

青木 秀子先生、わたしは自分のことを自己肯定感が低い人間だと思っているんですが。自信満々な人がいると、羨ましいなと思います。

鈴木 自己肯定感が高いというのは、自信満々ということとは違うんですよ。

青木 詳しく教えていただきたいです!

鈴木 自己肯定感が高いというのは、自分の長所を認めると同時に、他の人は自分と違う存在であることを認めていること。人と自分を比べて競争するのではなくて、「自分はこれができる」「あの人はあれができる」。それを見極めた上で、自分という存在を認めることができることです。

青木 そもそもわたしの自己肯定感の認識が少し間違っていた気がします。

鈴木 自分は何を通して、人や世の中に貢献できるかがわかっているということですね。

青木 すると、自己肯定感というものはやはり高い方がいいんですね。

鈴木 ええ。例えば自己肯定感が高ければ、嫉妬で苦しむということにはあまりならないはずです。(略)

青木 秀子先生、わたしのところにも悩みを相談したいという人がたまにいるんですね。でもだいたいですね、一度だけ相談しに来て、二度目以降の相談に来ないんです。どうしてなんでしょう?

鈴木 もしかしたら、その人は、ただ悩みを「聞いてもらいたい」と思って相談しに来ているのに、さやかさんがすぐに「こうしたらいいですよ」と導いて教えてしまうからじゃないかしら。

青木 わたしが教え過ぎるということですか? 心当たりしかありません!

鈴木 相談に乗るときというのはね、相手に半歩遅れてついていくくらいでいいんですよ。

青木 半歩後ろですか。他に、良き相談相手になれるコツがあれば教えていただきたいです。

鈴木 相手の話を聞くときには、まずは徹底的に悩みを吐き出させること。全部話し終わると、「でもね、私も悪かったんです」とか、だんだん言うことが変わってきます。そしたら、次はあなたが「そうでしたか。これからどうしましょうね」と言います。たぶんさやかさんは、色々と経験されてきて相手の話を聞くと次にどうしたらいいかすぐわかるから、先に言ってしまうんですよね。(略)

 

このくだりの中に先に私が示した彼女の持つ「承認欲求」「自己顕示」の原因たる「自己肯定感」の低さやその根本原因における毒親からの影響、自己保身や防衛機制の発露が非常に分かりやすく見え隠れしています。

青木氏は病気などのきっかけによって自己改革に成功しています。この事例は人は変われるということを物語っています。また昨今の誹謗中傷が蔓延する遠因も伺えます。

いずれにせよ、冒頭紹介させていただいた和田氏の云うように病んだ人や闇にいる人からの指摘など気にする方が無駄ということです。こちらのことを寸分も考えてはいないし、ただただ自分の心の排泄という我利のために場を求めてるだけだからです。こちらのことを一ミリも知らない輩の妄言にこちらが引き込まれてどうするのでしょうか。

先の青木氏と対談しているシスターはこういうことも語っています。

 

<対談内容>

青木 秀子先生は、たくさんの方々の相談にも乗ってこられて、重いご相談を受けることも多いかと。ご自身のメンタルが落ち込んでしまいそうなときってありませんでしたか?

鈴木 相談相手の問題は自分の問題ではない、ということをしっかり自覚したうえで話を聞くようにしているので、私が落ち込むことはありません。その人の悩みはその人の問題ですから、聞く人が吸い込まないことです。同じ次元に立ってしまうと愚痴の言い合いになりますから。

青木 秀子先生、愚痴は一旦言い出すと、止まらなくなるときがあります。

鈴木 愚痴は言ってもいいですが、悪口と同じで言えば言うほど、自分に返ってくるから要注意ですよ。だから相談に乗る相手というのは、相手と適度な距離を置くことができる、悩みを吸い込まない人がベストですね。

青木 はい。自分と同じ次元の相手には言わない方がいいですね。

鈴木 あなたは動物が好きでしたね。人に言うと止まらなくなるようなら、猫でも抱っこしながら、愚痴を言えばいいんですよ。

青木 確かに、猫とわたしは次元が違う感じがします。

愚痴を言うときに注意するのは、「事実・影響・感情」の順で話すこと。「朝からたくさん仕事して(事実)・疲れた(影響)・今日は何もしたくない(感情)」とかね。

青木 猫相手でもですか?

鈴木 猫相手でもそうです。話してみることで、自分を感じ、状況がみえてきます。

青木 うちの可愛い猫を抱いて試してみます。

 

この内容には「他人事」に引き込まれるなということが明言されています。まして誹謗中傷などに引き込まれるなど馬鹿馬鹿しい所業です。実際現実に皆さんの目の前に病んだ人がいて、その妄言や暴言に引き込まれるでしょうか。もし引き込まれるとしたら、その内容よりも引き込まれるよう心根や視座の狭さとか低さに心を配った方が良いと思います。それも鈴木シスターは言及していますよね。

私的にはそれに加えて、やはり

 

日々における人への関心の低さがもたらす悪影響も考えた方が良い

と思います。これは病んでいるといったレベルだけでなく、対人的に鍛えられていないということもあります。甘やかされてきたとまでは言わなくても、これまでの人生でそういったことを気にしなくても過ごせた環境やそういったことに目を閉ざしても過ごせた環境が修練の機会を奪ってしまっていたということ起因することもあります。確かに対人を課題にした思考は複雑でストレスフルです。学校教育のような命題解決的な竹を割ったような解が準備はされていません。一部のパワーエリートみたいに権力を利用してそういった面倒ごとを避けて生きられるならばそれもそれですが、多くの場合、その見返りは老後などに出てきます。やはり対人能力は社会的存在である以上避けて通れる話ではありません。

こういった出来事もあります。ある会社で採用面接をした際、辞退の申し出がありました。理由は自分が考える仕事とイメージが合わなかったということですが、たまたまその人に知人がいて、本意を伺うと、最後の場面で「私に何か聞くことがありますか」と質問した際に、「特に何もない」と返された。その時「ああこの人は私に関心がないのだな」と感じて、「これはここで働いても楽しくないかもしれない」と思ったということでした。確かに皆さんも自分が好きな人や惚れている人に対しては微に入り細に至るまで知りたいと思い、知ろうと動きますよね。これが人に対する関心です。巷を見ていても人が付いてくる人や人が慕ってくる人は総じて人を良く見ていますし、常に関心を持っています。これが利他の基本です。頭で利他といっても実は利己(我利とまでは行きませんが)の人の行動的な好例と云えます。

人のモメンタムを上げるための影響は、まず信頼関係の構築からです。これまでの話で皆さん何か感じられましたか。マネジメントの基本は「利他」という前に「他人への関心」です。私の師匠の一人は組織人ならば

 

「課長なら一日の70パーセントは人への関心、部長なら一日の80パーセントは人への関心、役員ならば一日の90パーセントは人への関心、そして経営者ならば95パーセント以上は日々人への関心でなければならない」

 

と教えられました。

 

私の場合はたまたま親の転勤の都合で各地を転々として生きるために対人技能を磨かざるを得ず、人への関心を重視しましたが、現代は生きるためのインフラが人を介さなくても済む割合が増え、ある部分面倒でもある人への関心や配慮が未成熟でも生活できるという環境になっています。しかしその弊害というか負の側面は間違いなく起きているわけです。やる気も何も「気」がマイナスにスパイラルするような社会環境の中で「気」をマネジメントするには、まず「気」というものを知らなくては取っ掛かりが出来ません。また「その気」がない人の原因が本人だけの問題でない場合、やはり外からの「気」のチャージは必須です。でも人の「気」は人それぞれの背景で千差万別です。病んでいる人、歪んだ人、無頓着な人、甘ったれた人。その人それぞれの特性に合わせての関りがないと「気」の注入口に弁が嵌まりません。

マネジャーがまず身に付けなければならないのは

「人を見て法を説く」技術

です。それには人への関心が入り口です。

 

それは働きかけることではありません。まずは受け止めることです。

そして人にはテレパシーがありませんから、

 

受け止めていると相手に認知させることです。

 

中でも大事なのは理屈の前に気持ちを受け止めることです。そう共感することです。そしてその気持ちを相手に感じさせることです。相手の立場に立って相手と気持ちの振れを同期させることが第一歩です。

 

①相手の気持ちを知る

状況と背景を知る

③相手の状況に合わせてやり取りする

 

が基本手順としての術です。

ところで、気持ちを知ったり共感する際に手がかりになるのが、

 

「シグナルマネジメント」

という術になります。シグナルとは人の気持ちが反映される「姿勢」「態度」「目線」「振る舞い」「言動」といった非言語的なメッセージです。それをキャッチするのがここで云うところのマネジメントです。

例えば言動というシグナルでいえば、まず人は日常言語の中で生活しているということが挙げられます。一例ですが、誰かが「雨が降りそうだよ」と言ったとき、それは次のようなことを伝えたかったのかもしれません。

「だから傘を持って行ったほうがいいよ」

また、そうではなくて、「ずっと雨が降っていなかったから、これで畑の野菜も助かるねえ」と言いたかったのかもしれません。

言葉は使用することによって初めて意味が確定します。だから言動では文脈がとても大切になります。言葉の一つの文節や単語の持っている意味は、それがどのような背景のいかなる状況について想起された文脈の中に登場しているかによって、相違してきます。そして言動はその時に感じている気持ちによってその視点も大きく影響されます。この言動を支配する文脈、コンテキストですが、人は多くの場合ノンバーバル(非言語的)に発せられます。いわゆる行間という奴です。これが読めずに内容だけに反応する人、言葉尻や言葉そのものに反応して頭でやり取りする人は、人の裏に秘められた心の動きに気が付きません。むろん人の気持ちは読めません。

人の本音や気持ちという行間は先の非言語領域で全体的に発せられます。

それを見逃さないためには、持続的な人の動きや態度などへの目配りは欠かせません。当然それが分かっている人やマネジャーは常に相手の顔や振る舞いを観察しています。一方人に関心がない人は沈黙的にパソコン画面を眺めていたり、人の視線を逸らすような構えを示します。人が苦手な人が人をマネジメントしようなどいくら頭で捏ねくっても、そうは問屋が卸しません。こういった学校では教えてくれない能力を自己啓発しない限り、マネジメントは覚束ないといえます。本来ならばそういった人をマネジャーに推挙してはいけません。これが日本の組織が衰退してきている元凶であり、イノベーションの足かせになっているのは残念な限りです。

ともあれ、まずは人の気持ちに充てを点けるのが第一歩です。そして次が傾聴です。

もう少し文章を進めたいのですが、かなり紙面を費やしました。「人を見て法を説く」というマネジメントの基本の技術に関しては次回から詳しくコメントしていきたいと思います。もちろんここで云うところの「法」とは「モメンタム」のことです。

それでは来週もよろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?