老害の真相を考える ~ソモサン第278回~

最近「老害」という言葉が巷を席巻し始めています。この言葉は昔から使われたモノで私が若かった頃も良く口にしていました。しかし昨今の使われ方はかなり苛烈でかつ「えっそんなことで」といったレベルで頻繁に口に出されているようです。ある放送作家は「ソフト老害」なる言葉で、近頃は40代や50代の人までを対象に使われているようです。皆さん如何思われますか。40代で老害ですよ。この使い方は男女差別の如くに長幼差別が為されているかの様な印象を感じさせます。SGDsやLGBTQといった概念が声高に云われる状況ですが、こういった概念の本質も認識できない稚拙な方が、時には利己的に概念のモチーフだけを取り上げて歪んだ平等感の主張をしているような感じもしています。昨今ではマルハラという言葉まで出てきており、なんでもハラスメントになってしまう感もあります。ジェネレーションギャップもますます拡大するばかりです。

それにしても何故にこのような「長幼の序」すらも蔑ろにする風潮になっているのでしょうか。「今の若者は」という言葉は江戸時代には既に取りざたされていたという記録もありますが、昨今は集団維持のための道徳観すらも無知蒙昧化させた状況になってきています。もはや年代格差というよりもアメリカの様な「分断」的な体になってきています。

若い人がとにかく年長者を面倒がる。時にはバカにする。そして年長者の言葉を頭から否定したり嫌悪したりして耳を貸そうとしない。確かに言下に押し付ける年長者もいるし、そういった姿勢は如何なものかと云う面もありますが、大体そういった人は自尊心が低かったり、虚勢を張っている場合が殆どなので、感情的な面を看過していれば、内容的には真っ当なことを云っている場合もあり、役立つことも多いのですが、その感情が処理できない未成熟な若者が、成長機会を失うようなケースも多々目にするところです。これではある意味弱者の横暴を許すか如く、世の中の集団社会の維持や集団社会的な成長をも阻害しかねません。

脳科学的に

「ある程度のストレスや障害が人の心的な成長を促す」とするPTGと云う概念

がありますが、嫌なことやネガティブに感じる内容を否定したり除外し続けると精神的な成長を阻害することにも繋がります。何でもかんでも自分に楽なことだけに傾倒すると、堕落を誘引して自他ともに結局は損することにもなりかねません。でも現行の風潮のままに推移すれば、この長幼格差によって経験的な教えはどんどんと排除され、伝承はなくなっていくことでしょう。

最近ではマナーや礼儀、果ては口の利き方に至るまでガタガタになってきています。これは世界的な傾向と云う面もありますが、それでも欧米の先進国では宗教的な躾などもあり、それすらが希薄になった日本の若者はハイソサエティーの品性からみて相手にされなくなるという傾向が強くなってきている感も見え隠れしてきています。

寿命が延びたことによって高齢者が増えてきていることから生じるストレスを間引いてみても、やはり年長者を敬った姿勢がなくなっていくのは社会的な品性の劣化によって集団の維持を加速度的に崩壊させていくことでしょう。

もはや昔話に出てくる「姨捨山」伝説を知る若者など五指にも入らない状態です。「灰で結った縄」の作り方や入り組んだ穴に糸を通す方法など知る由もありません。それでもこれらは未だネットで検索すれば出てくるかもしれません。しかし人間関係上で生じる感情的なズレを撚り戻す持って行き方や状況を見据えながら人をあやしたり乗せる手口などと云った失敗から鍛え上げたような経験的な暗黙知などは継承されず、世の中はどんどんと孤独化の度合いを高めていくことになるのでしょう。そしてそれがスパイラルして心理的な格差や孤立感は社会集団を一段と病ませることになることでしょう組織内でも個々の利己主義が暴走し、組織においてマネジメントは不在の度を高め、凝集性も活性も失われて、それは外に対しての競争力の喪失に現れます。そうして組織はどんどんと崩壊していくことでしょう。最終的に集団力で世界に打って出た日本は、その集団力の喪失によって国際的社会の劣位にまい進していくことは火を見るに明らかです。残念な話ですがこれが長幼の序という道徳観を放棄した社会の現実的な末路であると思います。

それにしてもどうしてこのような事態になってしまったのでしょうか。その一つは年代を若くなるにつれ、

「刹那的な発想が中心になっている」

ということが挙げられます。先を見ても不安定だし、とにかく今を楽しくといった感情的な思考に大勢が囚われていることが影響しているというということです。元々「長幼の序」と云う思想は、世の中が漸進的で連続的な変化をし続けるという前提の下で、習熟力による年功が最も権威を持つという視点によって生み出されたものです。いわゆる予めレールが引かれており、その盤石なレールをひたすら走れば将来は約束されるという考え方です。そういった背景で重視されるのは年功序列であり、前例踏襲であり、出る杭は打たれるから我慢を前面にとにかく付和雷同的に振舞うという行動様式になります。そこにおける年長者は尊敬などは関係ありません。あるとすれば人一倍他者よりも我慢して職人的能力を磨くという姿勢とそれによって得た社会的な権威です。ある意味「変えない」能力と云えます。時代の好みに合わせて多少の改善や改良は求められますが、まずはその集団が持つ規範に如何に準拠するか、その準拠力が評価基準になります。保守が一番なわけです。これをクローズ・システムと云います。決められたことを決められた通りにきちっとやる。そのきちっと度合いが能力として査定されるわけです。そこに自分と云った要素は要りません。むしろ入れてはいけません。如何に「らしさ」を捨てるかが勝負です。そしてそういった中で頭角を上げるには「その集団内の人間関係を如何に泳ぐか」それを通して「如何にその集団内で政治的な立ち位置を作り出すか」だけになります。もう集団外の動きなど関係ありません。戦略や問題解決力などといった論理思考は邪魔なだけになります。そうして自我地位の欲求を満たすのが、それを満たすために集団内でまず守らなければならなかったのが長幼の序だったわけです。実際日本の企業や組織体を見る限りそこら中にこの動きが溢れかえっています。外資などでもブランド企業などは同様の動きが顕著にあります。一発商品やビジネスモデルが当たれば組織はただただそれが維持し続ければ成り立つ。組織とは余計なことを何もしないためのもので、マネジメントとは何もさせないための行動です。実際それでビジネスも組織も成り立っていたという事実もあります。そうしてこういった思想は当たり前のものとして定着し、いつの間にか文化となり、行動は癖づけられていきます。皆さんも10年も同じことを問題意識もなくやり続けていれば、それが習性となって疑問すら浮かび上がらくなることでしょう。余程の野心があれば未だしも、一定の満足があれば脳は活動をしなくなり、疑問すらわかなくなってしまいます。そしてそれが30年続けばどうなるでしょうか。日本の高度成長は1948年の朝鮮戦争以後1973年のプラザ合意までと云われますが、改善と海外進出によるバブルでの引き延ばしで1991年まで右肩上がり傾向が持続しました。まさに「日本の春」です。そう約28年間日本は従来の延長で保守的に過ごしました。

皆さん、

28年って分かりますか。22歳で就職して50歳ですよ。

今更過去を清算して頭を切り換えられるものでしょうか。そしてそういった人材が年功的に重責を担う立場になり、かつ権威を持つ立ち位置にいます。更にそういったバブルと云われる浮かれた時代にさしたる勉強や苦労も知らない世代の人材が競争もなく組織に入った状態です。もはや云われるままの現場がそこからまた17年ほど続きます。そして2008年のリーマン崩壊によって世界経済が行き詰まるに及んで完全な前例否定と先行き不透明な時代に突入します。高度成長期の人材は逃げおおせた人もいましたが、バブル期に入社した人の多くはまともに戦略も組織マネジメントも教えられずに右往左往するばかりになりました。リーマン以降の人材、というよりも日本のビジネスが斜陽になる2000年代前後の若手人材は流石に入社前から将来を鑑み、シビアな考えを持ち始めていましたが、ここでも自力更生を企図する人材と諦め人材(殆どは親の教えが影響)とが二極化を起こし始めていました。でもそれ以上に大きく意志的に乖離したのが将来に向けての意識における年代格差でした。問題解決力がなく、人間関係力だけで組織を渡って来た世代。またコストダウンを軸にした従来の延長的な技術による改善や改良までしか頭が及ばない人材(そういった風潮の時代でも気概があった人は皆海外に出ていった)と問題解決力がなければ未来が築けず、また創造的な開発、イノベーションが出来なければ経済が復興できない中で真剣にもがく世代。

実はこれが世代間格差の端境期であり、その世代から下の層は上の層を総じて「老害」と称するようになったと私は見ています。要はバブル世代が能力不足で、上にはヘイヘイして、下には自分の解決力がないのをごまかすために高圧的な態度をとった結果下の世代から不信感をもたれ「老害」という言葉に集約されているのです。そうバブル世代はその入社時から問題視されていました。でもそれよりも上の世代は問題視しながらも組織やマネジメントの改革が出来ず、自分の引退までのシナリオまでしか責任を持たなかった。その高度成長による利己主義の思想が右肩上がりがバイアスになっている思考が今を生んでいるのです。そう考えると「老害」と揶揄されるのは仕方がない話です。「老害」層はとにもかくにも責任を担っていないのです。若い人に対して何かを云える存在ではないのです。

自分の時代に責任を持たず、今更に「今」の損得や自己満足でモノを語る。確かに「老害」です。そして何よりも、バブル入社の世代の人材。50代後半から60代前半の人たち。そうこの層こそが真の「老害」の軸層である。70代や80代ではない。50代後半。未だ現役の人たちがいます。そしてもっとも重責の立場になっている人が大多数です。そこが老害の元凶なのです。結局バブル世代は入社時から最後の最後まで物議を醸しだす存在でした。

若い世代の方々。もう少し待ちなさい。後数年でバブル世代は去ります。でもその時に今度は自らが「老害」と云われないようにして下さい(もうソフト老害と云われてはいますが)。

その時に鍵となっているのが、無意識での教育汚染です。いわゆる学校秀才への憧憬です。上に対しては「老害」などと揶揄しがらも自分は結局従来の延長的にしか動けない。創造的な思考や挑戦的な実行が出来ないでは話になりません。そうモメンタムがないようでは「若害」と云うことになります。そこには一定の責任意識を持たなければなりません。意識的なモメンタム、いわゆる

燃焼モメンタムは目的と責任から成り立っています。

その思考を阻害するのが学校で徹底され、また組織の底辺層で刻み込まれる「命題」発想です。目的と命題は別物ですが結構若い人と話しているとご茶にしている人が相当数います。命題とは真偽がはっきりとしている問題のことです。目的は未来に対する曖昧とした問題と云えます。今の若い人、特に学校秀才(くそが付く真面目と云われる輩達ですね)は命題とその証明的な思考に染まりまくり、それに支配されています。しかし世の中の問題は曖昧なものや真偽がはっきりしないものばかりです。更にはAIの技術がそれに拍車をかけています。AIの思考パターンは命題処理の論理なので、AI思考に依存すると白黒的な二値的発想しか出来なくなってしまいます。でも現実は曖昧が前提な中で(正解は一つではない)経験で得られる暗黙知のような命題処理でない思考が出来ないと現実の問題には対処できません。

そういった観点から見れば、やはり「老害」と二値的な見方をする「若害」に陥らないように、経験者から様々な経験的な暗黙知を引き出すことは外せないところです。それにはやはり敬意は大事です。これは何よりも自分がその立場になった時に答えが与えられるという全人生的な問題提示なわけです。やり直しが利かなくなった時に振り返ることになるという禅的なテーマです。皆さんに置きましても、それだけは頭の何処かにおいておかれることをお勧めします。

特にバブル世代の方々。残りの人生を楽しく生きるにおいて笑って過ごせる振る舞いをしていって頂けますと幸いに思います。因みに全部がそうだと云っているわけではありません。でも行動様式は存在環境からもたらされます。自分の世代が端境期なのだなと云うことを「老害」と云う言葉と共に現役最後の世代として率先して若い人たちと絡んでいかれることを切に願う次第です。そして若い人も「他山の石」という諺を胸に、「準老害」とこれまた無知無経験の輩からまで揶揄されないような振る舞いを修練して貰いたいなと思う次第です。それには「品格」を意識し、「知性」よりも「品性」を身に付けることです。

最後にこういうことを書いている私がまさに「老害」なのでしょう。結局「老害」とは人間的距離間から発せられるセリフだということです。私も「老害」と云われないようにもっと若い世代と距離感を縮めるべくモメンタムを挙げていきたいと3月の出版を機に試みる所存です。

3月13日に「心の勢いの作り方」というモメンタム本を精神科医の川野先生と共著で出します。ご興味の折の方はぜひ手に取って頂けますと幸いです。

 

では来週もよろしくお願い申し上げます。

さて皆さんは「ソモサン」?