真実を見極めるのも信念を支えるのも品性 ~ソモサン第277回~

朝ドラの中で、主人公が取材された雑誌記事に対しての抗議がクローズアップされていました。内容的にはインタビューにおいてのコメントが一部の職種を誹謗していたという話で、その職種の人が怒鳴り込んでくるという顛末でした。その際主人公が発したのが「私はそういったことは言っていない」という言葉でした。正確には「そういう趣旨の話は述べていない」で、そこには「全く発言をしていないわけではない」という意味が含まれています。怖いのはここのポイントで、実際には「多少触れる発言はした」ということになります。しかし話の流れでは、主人公は実際に雑誌に書かれたような内容は口にしていません。記者に話題を振り向けられたとき、「大変でしょうね」といった口合わせ的なコメントをしただけなのです。ある意味誘導尋問です。そして雑誌記者はそれを針小棒大にあたかも誹謗したかの如く掲載したわけです。理由は何であれ(おそらくは記者自身の主人公への妬みとかネガティブ記事が話題になって雑誌の購買数が上がることへの打算といったところでしょうか)、実に品性のない振る舞いといえます。

でも先に私が「怖いのは」と表現したのは、少しでも同意的な返しをした以上、この主人公の発言は「嘘」にはならないということです。捏造の妙はこの点にあります。知性的な側面から見れば言質がある以上否定は出来ないということです。今のマスゴミの手口も凡そこのやり方にあります。証拠主義に基づく法律の落とし穴です。すべては「事実はどうか」です。

しかしこのやり取り皆さんは何か喉に引っ掛かりを覚えないでしょうか。この話、前回取り上げた「品性」というフィルターで見た場合、感情的に嫌悪を抱く人はかなり多いと思います。事実このドラマを描いたNHK自身が、当該雑誌記者を非常に下品で心が歪んだ人物として印象付けた取り上げ方をしていました。ただこのくだりで私が皮肉っぽく思ったのは、「NHK自身はどうなんですかね」というところですが、まあNHKも組織である以上、様々な価値観やキャラを持った人がいるのでしょうから、組織という言葉で物事を薄めて胡麻化さないことを切に祈るところです。

ところで私が着目するのはこういった本当にゴミのような品格の記者の振る舞いではなく、この記事に乗せられて怒鳴り込んできた人の一言です。主人公が「私はそういったことは言っていない」という反応に対して、「じゃあ雑誌が書いたことは嘘だというのか」という返しに対して一抹の苛立ちと懸念を持ったのです。

皆さんは 「オーバーヒアリング」 という心理学用語をご存じでしょうか。これは「自分への直接の言葉がけに対しては、誰しも一定の疑念を持ったり、距離をもってクリティカルに受け止めるが、噂話のような間接的な話題に対しては、それを信じやすくて、時には妄信する」という心理反応を云います。更にそこに狭い情報社会の中で、別々の人から同じ情報を聞くことで信憑性があると思い込む 「交差ネットワークによる二度聞き効果」現象 とか日本のような集団主義的社会の中でマスコミのような権威者からの情報を妄信する現象が加わると心理作用が暴走します。とくに有名なのは1970年代に起きた豊川信金取り付け騒ぎ事件です。詳しくはネットなど検索して頂けますと幸いですが、私的には日本人に最も多くみられる権威者と決めつけた存在に対する妄信的な反応です。

マスゴミは法に触れないように「嘘」は極力書きませんが、「法螺」のようなまやかしは平気で行うところがあります。自己防衛には敏感ですが、他者攻撃には無感覚な面があります。特に組織という防護壁をもって自己が責められないとなるとそれこそ万能感を持ってしまう人が出てきます。それを自制させるのが品性なのですが、それが原学習されていない人となるとヒーローイズムのレベルに嵌まり込んでしまう人もいます。組織は外に対して構成員を守る責務がありますが、同時に構成員を戒める責任を持っています。ところがマネジメントができない組織になるともはや中東の解放戦線の如くのカオス状態に陥ってしまいます。これは一見民主主義のように喧伝されるが実は衆愚化されている集団と同じです。こういった集団が似非的な組織体を装ってやりたい放題になると手に負えないことになります。

昨今の一部の出版社や放送会社のようなマスゴミ組織を見ると、寧ろ現場の方が品性を持っていて、ガバナンスするマネジメントサイドの方が品性を失った体を晒しているようにも感じられますが、これこそ戦後70年を経た中での品性教育を軽視した姿なのかもしれません。知性偏重で品性を持たない人が組織経営のガバナンス側にまで序列的な年齢に達してきている証なのではないでしょうか。

こうしたマスゴミと称される古くから承認されたことによる権力(情報的権威)者が常に正しいとは云えない昨今において、オーバーヒアリングの反応が非常に危険な行動であることだけは確かなことです。そう雑誌は「嘘も書くのです」。少なくとも「法螺を捏造します」。それが分かっていながらそれを妄信する多くの民衆。だから雑誌が売れるわけなのですが、それを是正するのはマスゴミ側も民衆側も最低限の品性、良心という心構えを復興させるしかありません。組織もそういった心構えなしの運営に陥ると全く統制が利かなくなるという現実を、上も下ももっと深く認識する必要があると思います。

今の心身の荒れた世情は、仕掛けるマスゴミが暴走するオーバーヒアリング、特にネット社会における「交差ネットワークによる二度聞き効果」現象に対する権力側としての無知と受ける民衆側の品性の劣化という無知がもたらしていると私は解釈しています。

先週のネットに以下のような記事がありました。それはプリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社代表取締役秋山進氏による、個人の意思が主因ではなく、経年によって個人が所属する社会環境からもたらす品性劣化の典型に関する話でした。とても合点がいく内容でしたので要旨を転載させていただきます。マナーや敬語以前の品性に関する話です。

「マスコミや関係する会社などから、記事に関連する追加コメントや別の記事の依頼などが、筆者の元へそれなりに来る。せっかくの申し出なので、基本的には受けることにしているが、スケジュールの都合や自分が適役ではない場合、丁寧に理由を述べてお断りすることにしている。その際、驚くことに、私が断りの連絡をすると、その後のやりとりがパタッと途絶えることが多い。以前ならば、『承知しました。次回、また何かあればよろしくお願いします』という短い返事が先方から送られてきて、そこで終了という流れになるのが普通であった。しかし、最近はそのような返信がない。“一往復半”のやりとりで終わるのではなく、“一往復”で終わるのが、現在のビジネスパーソンにとっての常識となっているようなのだ(もちろん、全員ではないが)。不思議に思って、周囲に聞いてみたら、同様の経験を持つ人は多く、皆それなりに違和感を持っていた。そこでさらに探ってみると、どうも最後の返事をしない人が問題なのではなく、すでに、若手社員の間では、一往復で済ませることが常識化しているようなのである。その背景として、

 ①今日ではチャットや短いメールなどが広まり、簡潔で直接的なコミュニケーションが一般的になっている。この変化により、従来のメールで期待されていた礼儀正しい言葉遣いや、礼儀正しいやりとりが大幅に省略されている。

 ➁リモートワークの普及で、オフィスでの面と向かってのコミュニケーションが減少した。これに伴い、非公式なコミュニケーションスタイルが増え、ビジネスマナーに対する意識が薄れてきている。

 ③労働時間管理が厳しく言われるようになり、できるだけ効率的に業務をこなすことが求められるようになった。短く効率的に仕事を進めることが最優先なので、余計な作業はできるだけなくそうとする。最後の返信を省くことは、現代のビジネス環境においては、不適切ではなく、タイムパフォーマンスから見ても正当化でき、相手にとっても余計な時間を費やさせない正しい行動である、と若手社員は考えている。

ということが挙げられる。

 ただ、世代や会社によって、正しい振る舞いは大きく異なるから、過去の慣習を軽視することは、相手との長期的な関係構築において、不利益をもたらす可能性があることは認識しておかなくてはならない。最後の返信を返さないことについても、それが会社にとって得であるか、または本当にコストパフォーマンスの良い行動かどうかを再考したほうが良いと考えられる。人は最初の依頼を断ったことに対して、人は心理的な負い目を感じる。次回何らかの依頼(最初の依頼よりもハードルが低く譲歩した感じがあるもの)があった際には、受け入れる可能性が大きく高まる。したがって、『承知しました。次回、また何かあればよろしくお願いします』というメールを送付する30秒程度の時間投資は、将来の期待値を考えれば十分に元が取れるのである(お前になんか二度と話を聞くことはないから期待値は下がらない、ということかもしれないが)。『一往復』で終わるコミュニケーションスタイルではなく、『一往復半』のスタイルを取り戻すことは、個人にとっても会社にとっても大きなメリットがある。これは、それなりにビジネス経験を積んだ人にとっては、十分に理解されることだと思う。ただ、若い人がお客様とどんなメールのやりとりをしているかは見えないから、30秒を惜しむことで発生している期待値低下の実態を、管理職もよく知らないのであろう。

 しかし、何より、「タイパ(タイムパフォーマンス)」重視のはずが、長期的な『タイパ』の悪さを自ら招いているというのは、若い人自身にとっても、もったいない話ではないか。

 このように考えると、今回取り上げた『一往復』のやりとりだけでなく、“いま”、“ここ”だけの近視眼的なコストパフォーマンスを重視した行動様式が、会社や個人の期待値を低下させる多くの失敗につながっている可能性は高い。会社は、長期的に見て期待値を下げる行動を現場の社員がしていないか、しっかりと点検し直すべきであろう。これは単なるビジネスマナーの問題ではなく、ビジネス上の成果に直結する重要な改善につながるのである。」

如何でしょうか。この話は単に中長期のコスパ的な話以上に、知性偏重の合理性傾斜によって人の品性が相当に劣化しているという現況や、それが徐々に社会環境化(暗黙裡の集団合意化)して、誰もが疑問に思わなくなってきていて、それが社会的な感情的コミュニケーションを侵食し、ストレス社会やメンタルヘルスの原因、ひいては誹謗中傷社会の遠因になっている、という現状を物語っているのではないでしょうか。

そしてそういう実態やそれが生み出す闇に対して、大衆の視点がもはや気が付かないレベルにまで鈍してしまい、それが社会的、組織的なモメンタムの源泉を枯渇させているという今を示唆する好例であると私的には思えるのですが。

現代の組織は、その社会責任と未来存続に向けて、最優先に知性よりも品性の復活が求められているのではないでしょうか。これこそが喫緊の組織教育の柱であると私は主張するところです。

皆さん、特に経営者や人事系の方々。如何にお考えになられますでしょうか。

では来週もよろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?