人を動かす3つの原動力 ~ソモサン第272回~

人間関係として人が人に影響する力には三つのパターンがあります。一つは共感力です。この力の源泉は「友愛」でポジティブな影響を及ぼします。「したいからする」というパワーです。二つ目は権力です。この力の源泉は「強制」でネガティブな影響を及ぼします。「せざるを得なくてする」というパワーです。そして三つ目は論理力です。この源泉は「合理」でニュートラルなパワーです。「すべきだからする」というパワーです。ここで言うポジティブやネガティブとは感情の動きですから、人が論理的に動くということは余程の精神的安定性を抱く条件下にある場合に限ってきます。無論相手も論理的状態にある場合は論理的コミュニケーションがスムーズに成り立ちますが、現実の社会でこのようなコミュニケーションが成り立つのは稀ですし、動機づけにおける動機はポジネガ同様に感情の起伏の世界ですから、論理的コミュニケーションはあくまでも静態的な机上のやり取りであって、実行レベルで人を動かすようなコミュケーションと云えば、共感や権力ということになってきます。また例え論理的なコミュケーションであっても、論理とはクリティカル(批評)な思考に依りますから、感情的にはネガティブになってきます。だから論理的思考という内在された領域ではニュートラルであっても、コミュケーションとなると意識的にポジティブな物言いをしない限り影響は為しえません。ともあれ論理に拘る人は、人の気持ちを動かすことはかなり難しいことでしょう。

更に人は生来ポジティブな性質(特に自分に対して)を有していますから、権力よりも共感力で強く動機付けられるのが心理です。

ところで、にも関わらず、どうして人は権力に固執するのでしょうか。その一つは集団社会における自我地位欲求という本能に起因があります。人は集団社会でより自由であるために、地位を求めます。それ故に権威を欲する性質があります。

ただ人にはその上位に自己実現の欲求を持っているので、しっかりした自己実現への目標観を持っている限り必要以上に権力に固執することはないのですが(因みに自己実現欲求が権力取得の場合はこの限りではありません)、目標観のない人は権力保持しか目標観が持てずにそこに執着するという状態に陥ります。

実は自己実現を権力に置く人も、自己実現が描けずに権力に拘る人も根っこは同じです。目標には結果目標と過程目標とがあります。結果目標とは「戦争をなくすための実践をする」とか「飢えをなくす手立てを作る」といったビジョンが想起できる目標です。一方過程目標とは「一番になる」とか「お金を儲ける」といった「それでどうするの」といった活動自体を目標とする考えです。

両者の決定的な違いは結果目標が「利他」的であるのに対して、過程目標が「利己」ということです。利己とは「自分中心」の考えです。世の中にはもうひとつ「自利」という考えがありますが、自利は「自分軸」という世界で、両者はベクトルの方向が真逆です。自利は外向きで利己は内向きです。利己はまずは自分、或いは自分だけという思考ですから、周りとの関係は利害中心になってきます。簡単に言うと「金の切れ目が縁の切れ目」という関係が中心で、非常に浅いものになります。「みんなのために」ではなく、「自分がそうだから相手もそう」といった同調的な思考で、ここに権力が絡むと(論理という無機的な関わりも大同小異です)、受け手はもう悲劇です。利己の押し付けになります。それもやってる方が無自覚なのが手に負えません。

このように人にとって最も影響力が「共感力」であるにも関わらず、昨今なぜ共感が出来ない人が増えているのでしょうか。その一つは過剰な競争社会の弊害で劣等感を持つ人が増えると同時に権力意識が勃興していることにあります。権力の源泉はコンプレックスです。「実る穂ほど頭を垂れる」という格言や西欧の「ノブレス・オブリージェ」が指し示すようにコンプレックスのない人は非常に利他的で共感的です。これがコンプレックスが強くなるほどにどんどん感情的になり、行き着くところは高圧的な恫喝になります。

次に多いのが学習不足です。特に親の教えです。共感力とは身体的な知能に宿ります。身体的な知能とは経験の積み重ねによって得られる暗黙知ですが、無論そういった意識はまずは受ける経験から作られていきます。人から友愛的に共感される経験が利他の精神を育み、その利他の精神が今度は共感の発する考えや行動を生み出します。でもこういった学習はまず最初にそこに意識を持つような導入教育が必要です。例えば利己的な考えに染まった親の教えや尊敬出来ない親の姿をみて畏怖的な感情を親に持てずに育ってしまった人には共感の種がありません。こういった人は結果として人を動かすことが出来ず、それを補おうと論理を強めたり権力をふりかざすことになります。それでも論理ならばまだニュートラルな影響として人は動きますが、動機が働きませんから、相乗的な働きや積極的な動きは殆ど望めません。利他がなく利害中心の関係ですから必要以上の動きは取らないわけです。まあやってもそれを感受してくれないのですから当然の話です。当然こういう人に感受性豊かな人や利他的な人、アグレッシブな人は付いてきません。自明の理の帰結です。

またよくある話ですが、共感力のない人は、自信と慢心の端境が分かりません。本来慢心とは横柄で傲慢な態度というよりも、自噴の表れです。だからこそ余程共感力を磨いて自己チェックしていないと、本人は慢心と思っていなくても、その奮起心故に周りからは慢心と見られてしまいます。そして気がつくと孤立です。自噴心は本来「俺はこれだけ頑張っているのに」という意識ですが、その気持ちが時として「お前は努力が足りていない」という意識に繋がり、それが顔に出て相手からすれば睥睨されてる感を生み出します。本人は「俺は凄い」ではなく、「俺は頑張っている」なのですが、特に感情の差配が出来ない人の場合、その表現がストレートで無感情なので、相手からは上から目線に映るわけです。そして当の本人は身体的知能が未成熟ですからそれに気が付きません。何れにせよ損なことは間違いありませんね。

これでは艱難辛苦を乗り越えれる人とは会合出来ないでしょうし、成功する組織づくりは望めません。

世の中には組織というフレームのお陰で無能者がコンプレックスのままに権力を振りかざしたり、人の気持ちが分からない鉄面皮(何故かこういう人は無表情が多い)が理屈を捏ねて、それを如何にも自分の論理は正しいの如く闊歩している姿を目にしますが、まことに同情的でジョイビズな生き方には程遠いのは必定といえます。組織は共感的繋がりによってこそ高生産で持続的な世界を作り出すという基本の基本を見失わないでいてほしいものです。

 

今週は39度を超える(多分インフルエンザですね)熱の中での執筆なので、これ位で終えたいと思います。

皆さんも健康には真摯にご配慮頂けますと幸いです。

 

さて皆さんは「ソモサン」?