人痴(にんち)か発達障害か

前回のブログで、自分だけで生きていると錯覚している人材がいるが、その大半は「自分が活かされているという感覚を持たない、感謝が分からない甘ったれである」と記述しました。そしてそれを基軸に「人痴」という世界観を紹介させて頂きました。今回はその続きとして「人痴」を超える社会問題について話を綴っていきたいと思います。

そもそも今回のブログを書くきっかけになったのは、採用基準が余りに「知」に偏っているために「意」への裁定がおざなりになり、結局は1年以内の退職者が頻出したり、現場が「ウツに陥った人材」への対応によって業務が停滞してしまうと云う愚挙を繰り返す人事の在り方に苦言を呈したかったことに起因しています。

確かに現実飽食が当たり前の中で「飢えから逃れるための行動」という動物本能レベルでの反応が劣化してしまい、更に将来不安がもたらす事が原因なのか「集団での共生行動まで忌諱する」という、ほ乳類としての生存本能も稚拙化している人たちの社会的行動が目立ってきた昨今と云えます。

ところが、実のところよくよく調査してみますと、最近ではその「意」に関わる問題が、想念としての「意思」というよりも、もっと深遠な「生理的」レベルにおいての「意識」面で社会的な影響が起き始めていることが見えてきました。それは発達障害の増加という問題です。今この問題が企業経営や組織活動どころか社会活動において多大な障害をもたらし始めています。

 気づきづらい広汎性発達障害の増加と対人関係の危機

一言で「発達障害」と云っても「知的障害」などそのパターンはかなり広いですが、最近社会活動上で問題になっているのは対人関係を築くのが不得意な広汎性発達障害、通称「自閉症スペクトラム症」という領域です。以前はアスペルガー症候群と称されていました。特定の分野に強い拘りを示したり、そこには異常なくらいに集中しますし、運動機能に軽度の障害が見られる人がいる以外は、知的障害も言語障害もありません。

発達障害には他に不注意の多いADHD(注意欠陥、多動性障害)や知的な遅れはないのに読み書きや計算が困難なLD(学習障害)がありますが、発達障害の人はこれらが単独、もしくは複合的に出てきます。

発達障害の人はともかく対人やコミュニケーションに関心が乏しく、その為人と行動が咬み合わず、次第に集団的に阻害されるようになり、二次障害としてうつ病や強迫性障害になってしまうこともあります。本人的に大変なのも確かですが、受け入れる社会や組織集団的には業務に多大な支障が生じるのは云うまでもありません。

この発達障害は知的障害を伴いません。というよりも知的には却って優れた人が多数います。これは例えば視覚障害の方が、聴覚で人一倍優れているといった脳内の補完機能によるものかもしれません。いずれにせよ学歴や成績が優秀な人が実は発達障害であったと云うことが至る処で起きています。以前にも記述しましたが、某日本一の元帝大の人の大多数が発達障害であったという研究発表も存在しています。私も企業における経営開発のお手伝いの途上、こういった障害を持っている人材が起こす問題の解決に苦慮することが多々あります。現在は脳医学においてこういった障害の原因が解明されつつあります。例えばセロトニンが影響しているとかオキシトシンが有効であるといった研究ですが、いずれ近未来的にはかなりの是正が行われるものと思います。またこういった科学的分析の結果は、私たちが注力している禅などの技法の有効性を裏付けるものとしてもありがたいことと云えます。

しかし緩和はされても根治するわけではありませんからその点は要注意と云えます。

むしろ私が気になるのはそういった人が増加しているという事実です。何故、昨今になってこのような障害が増えてきているのでしょうか。一部ではこういった概念が普及したことによってあぶり出しが増えただけで、元からこういった人はいた、と云いますが、社会的な閉塞感の実態から見るとやはり問題点が増加していることは確かだと云えます。とにもかくにも今後は知的障害者の方と同じくらいの比重で注視して社会的にケアしていかないと、至る処で大問題が頻発し始めるだろうと憂いる次第です。発達障害はどちらかと云えば先天的な問題ですから、対応は見極めとケアと云うことになります。

 擬似発達障害とも言うべきアダルトチルドレン

ところで様々な現場活動においては、疑似発達障害という問題も生じています。実際はこういった特性を持った人による問題の方が多いように思います。こういった症状の人を「大人の発達障害」とか「アダルトチルドレン」と称します。「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」人と定義されています。つまり先天的には問題ありませんが、後天的な事情(特に幼少期の家庭や学校)によって心的外傷を持った人のことです。破滅的な思考や完璧主義、そして対人関係が不得意と云った特徴を持っていて、成人しても無意識的に人間関係の在り方に影響を及ぼします。これは自己認知の問題ですから修正(キュア)が可能な領域です。しかし今日の社会、特に企業のような組織では、先述したように先天的な問題に対しても後手の状態ですから、後天的な人への対応も殆ど手つかずなのが実態です。

チープアダルトが社会を動かす時代 〜チープアダルト人材に意の開発を!〜

さてJoyBizがこれからの経営開発として最も注目しているのは、この「アダルトチルドレン」に準ずる「チープアダルト」人材です。「子供大人」とまでは行かないが、「安っぽい大人」と云った人材です。

換言すると、「意」のない人、「意」の足りない人、「意」の歪んだ人、「意」のズレた人のことです。「自閉症スペクトラム」や「アダルトチルドレン」で分かるように、人は「知性」のみで生きているわけではありません。生きていく上では「感情」と云った性質やそれを制御する側面も持った「意性」が重要な働きをしています。そして「知」と「意」は相互に複雑に関係はしていますが、それぞれ別の独立した機能を持っていることが分かります。特に「情性(感情)」は「知性」では制御できません。「意性」がその役割を担っていますし、また「知性」の働きに対する方向付けも「意性」が司っています。人にとって「意性」はコンピュータで云う中央処理装置、コントロールタワーという極めて中核的な機能を担っています。にも関わらず、多くの企業現場や人事部門はここに対するアプローチを極めていい加減かつ後回し的に扱い、結果組織にとって非効率的かつ問題を発生させる元凶となるような状態を創出するに及んでいます。

経験的な意見で恐縮ですが、特に大企業において目に付くのは何故なのでしょうか。知的に優れた人達の集まり“なのに”なのか、“だから”なのか本当に不思議に思います。

発達障害の人を理解する上で分かり易い事例があります。

Aさんは最近発達障害であることが分かりましたが、二次障害であるウツを患い今は会社を休職しています。Aさんは子供の頃は自分を天才だと思っていたそうです。 テストは常に満点。暗記が得意で、中学の時など百科事典の内容を覚えてマニアックに過ごしていたそうです。そしていつも「周りは馬鹿ばかりだ」と見下していたそうです。こういう態度ですから級友とはうまくコミュニケーションが取れません。また時折衝動的な言動によって対人関係でトラブルを起こしたり、何かが気になるとそれに執着して落ち着かないということがありました。それでも高校まではそこそこの成績で、少ないが友人もいて大過なく日々を送っていたそうです。ところが今一つ集中することが苦手で、志望した大学には入れず、格好を気にして指して興味もない中堅の大学の経済学部に進学しましたが、大学に入ると同時に社会的な活動が増えるにしたがってマルチタスクが出来ない自分に気付いたそうです。その為専門性が身に付かず、何事も中途半端なために就職も上手くいかず、せっかく入った会社でも対人力がなくて無愛想だと思われ、コミュニケーションが上手く取れなかったり、注意力が伴わず仕事が覚えられなかったり、指示された意図を誤って受け取ってしまったりとミスが続くに連れて転職を繰り返す状態に陥ってしまったそうです。そして遂にはウツになってしまったという話です。

この様に一見論理的思考に関わる知的な面には問題は見られませんが、注意力とか対人的な解釈力(最近流行の忖度力)といった社会的な活動上に問題があるのが発達障害の特徴です。当然学歴や履歴書、或いは流れ作業的な面接では見過ごされる所です。

ただ今回私が真にメッセージしたいのは、発達障害という先天的な問題ではありません。

それよりも後天的で寧ろ人為的に近い、アダルトチルドレンやチープアダルト人材の問題です。

特にチープアダルト人材は、その殆どが親の甘えや社会的な鍛錬不足からもたらされる社会的問題です。知的開発に偏重した教育制度やそれに盲目的に従った親が子供にきちんとした意の教育をしないままに育成を施した結果が招いた弊害です。頭は良いが人と関係が作れない。情報処理は出来るが判断が出来ない。先読みはするが挑戦が出来ない。感情のコントロールが出来ないと云った、意に欠落や歪みがある人材が知的な評価でのみ登用され、そういった人材が社会を動かす立場に上がっていくことによって社会的な歪みを引き起こしています。

巷を見回すと、知的に偏重した親が意を子に教えず、そうやって育った子が意がないままにまたその子を知だけで育てるという中で、人間社会の共生活動に大きな亀裂を生み出し、それがどんどん悪循環を招いています。企業なども何のために存在しているのかという意義を見失って、ただただ利己を追求した活動に導いてしまっている経営者が続出し始めています。大人子供が社会を牛耳る姿を想像すると空恐ろしい感がします。

幼少期に対人の機微が十分かつ前向きに経験されていない中で、ストレスをマネジメントする力が開発されていない人材が、表面的なスキルだけで対人関係をこなし、根っこにある対人嫌いを押し隠して過ごしている。そういったネガティブ人材は、自己を真摯に認知することが出来ていないので、きちんとした自己概念が構築されておらず、そのため人生に対して目標意識や責任意識も未熟で、他人への関わりも上っ面で信頼構築を作り出す術も備えていません。そういう人材は総じて表面的にはアメニティーが高く、あくがないので付き合いはし易いのですが、深い関係は作れませんし、協働は出来ません。従ってそういう人材はいつまで経っても心が安定せず自信が持てませんから豊かな人生は歩めません。しかしそれ以上に、社会にとっては何事も任せられませんからそちらの面からも安定が生み出せません。果たしてそういった社会状態を看過していて良いのだろうかという不安が出てきます。それこそ大宅壮一が云った「一臆総白痴化」という未来予想が現実のものになり始めているという危惧を抱くところです。

そして今やそれがマジョリティー化し、誰もそれを問題意識として持たない世情になっている、特に知的エリートほどそういった問題意識に対して無自覚的になっていることの恐ろしさです。最近の若手(といっても40代位まで入るが)を見るに付け、意の教育が疎かになった弊害は思う以上に大きな借金として利子付きでかえって来るのではないか、と戦々恐々とする今日この頃です。

 

さあ皆さんはこういうことをどう思われますか。

 

次回もまたお目通しの程、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

……そして時代は更なる意識改革をますます求めていく。