人痴人材の増殖とその裏にあること

幾分昔の話になりますが、私は人痴(にんち)という造語を作って、方々で使っていた時機があります。「人痴」とは一般に音痴と云われる考えの人間力版のようなものです。簡単に云うと人への関心や配慮に欠ける人のことです。ただここで気をつけて頂きたいのは、「人が気にならない」という意味では無いと云うことです。

人痴=利己主義である

人は社会的存在として一人で生きているわけではありません。しかし豊満かつ利便な時代において、人のお世話、引いてはお蔭様を感じなくても生活できる環境になると、徐々に人がいて自分がいるというごく当たり前の存在に対する有り難みが分からない人物が出てきます。

こういった輩は何でも自分だけでことをこなし、自分だけで生きているような錯覚をしています。こういう人材は大方が「自分が社会の中で活かされている」という感覚を育成されていない苦労知らずの人間で、その本質は人という存在の有り難さに感謝することが分からない甘ったれであると云えます。そしてそういう人は総じて生活に関する苦労を知りませんから、机上論やヘッドトリップの理想論を並び立てる頭でっかちが多く、その為周りの配慮や心遣いが分からず、単に鬱陶しいだけならばいざ知らず、多くの場合、人に配慮があって優しい人たちの気持ちを引っ掻き回します。また人の気持ちが分かりませんから、人からの意見や指摘を額面的な言葉だけに反応した受け取り方をしたり、自己保身が中心となったプライド意識によって人へ気持ちが廻りませんから、とにかく人それぞれのあり様が分からず、接触を避けたり、牽制して自分都合で過ごそうとします。

結局、心に刺激も学習もない状態が続くばかりで何時まで経っても成長できず、幼児性を振りかざすことによって周りにとって段々と負担になっていきます。こういった人材こそが真の意味で利己主義と称される存在です。

利己主義とは全ての基本が「自分のため」「自分にとって得か損か」という価値観でしか対人関係を捉えられない人の考え方の総称です。この考え方から生み出される行動は必ずしも積極的な利害的行動ばかりとは限りません。人は自分の存在を失ってしまっては心の病に侵されますから、自分を利しようとする発想は大切です。しかし利他的な発想が想起できず、ともかく自分にとって利となるか否かと云った自己中心的に利害的な判断基準に支配された行動は全て利己主義と云えます。最終的には自分にとってプラスになる人への親切も、無私を前提に「純然とそうすれば人が喜ぶから」と想起するのか、それとも打算を前提に「そうすれば自分に得な見返りがあるから」と想起するのかでは本質が全く異なります。

こういったことは、日常の中で自然と湧き出てくるちょっとした反応が「少々自分が損をしたとしても相手にとって利となるようにしてあげたい」と出るか「現実は自分の利は手放さないが、孤立はしたくないから一見利他的に振る舞う」といった違いに出てきます。こういった行為は利他的な価値観でクールに見ていると自ずと目立ちますが、お互いがそういう関係だと「狐と狸の化かし合い」の体となって見え辛くなります。問題はそういった輩が醸し出す負のエネルギーのハレーションです。

そういう人材はともかく気遣いや人との関係を良好にするといった面での深慮遠謀が働きません。人との付き合いに対する思いやり、思索が出来ないのです。昔は酒席などで相手に対して気持ちの良い状態を作り出し、場を和まし、ポジティブな時間を生み出すために、お互いがそういう配慮をしたものです。特にその場で内容に寄与出来ない立場の若手は積極的に、言われるからでなく感受性を働かせてそういった動きを取ったのですが、時代の進展とともに薄くなってきているようです。しかし大手の銀行や商社の人やそこからの出身の方などとそういった場を設けて頂くと、若手の方でもしっかりと対応されることを見る限り、これは道徳的な観点から見ても大事な動きのようにも思えます。躾とは「身を美しく」と書きますが、屁理屈ではなく社会文化が生み出してきた美徳は何でも時代と云う言葉で否定することではないように思います。

長幼の序という倫理意識 〜弛緩した人間関係では成長は生まれない〜

さて、そういう美徳の中に「長幼の序」という考え方があります。私が若い頃は親やそれに準ずる人に対しての振る舞いは緊張したものですし、一定の敬意を感じて対峙したものですが、最近ではまるで友達の如く振る舞う若者が増えています。問題はそういった弛緩した関係の中で「学習」や「気づき」が行われるか、と云うことです。

緊張しすぎて関係が遠ざかり、それによってコミュニケーションが阻害されるのは論外ですが、心理学的に人は一定の緊張がないと心に刻みが働かず、また分別が身に付かないことが分かっています。換言すると「意」は思考学習ではなく、「体感学習」を伴った総合学習なので、緊張感やある種の挫折感的な心の揺らぎがないと身に付かないわけで、友達関係のような好き嫌いが前提となった弛緩した心理状態の中では醸成されないということです。

長幼の序とは単に年を食った方が偉いといった年功という意味ではなく、経験知への敬意を表した言葉です。人生を長期に展望し、「幼きを守り、永きを庇う」という弱いものを助けることから集団社会を維持させる仕組みを表す意味も持っています。元々は儒教の考えからきていますが、日本では「姨捨山の物語」でも有名な世界観です。

ルールとは縛るものであって促進させるものではありませんし、人は倫理規範によって社会契約的に活動するのが最も自由であると云えます。長幼の序とは倫理規範の一つと云えます。

ルールに縛られすぎるのはよくありませんが、倫理規範は最低限守るべき社会ルールと云えます。ところが最近では何でも自分たちを正当化するかの如く、社会の維持を軽視したその場の自由を謳歌することを優先した緩い社会契約を主張する動きがあります。そうしてそれが時代を積み上げる中で「危機感の無い」また「節度の無い」人材を輩出させることに繋がっているように思えます。その表出された現実が「ネット右翼と呼ばれる状態」と「ネット社会での過剰ハラスメント的バッシングの状態」と云えます。まさに「人痴」集団の暴走状態です。

そういう観点から現状を見ると、やはり一定の躾や長幼の序に対する現在の社会的な姿勢が、人痴人材の増殖や国際問題を無視しての国内政治騒ぎの様相を生み出す背景となっている様に思えるのですが、皆さんは如何思われますか。

社会の衰退と利己主義 〜個人主義に隠れた利己主義を見抜く〜

人痴人材は、利己主義であって個人主義ではありません。個人主義とは自己の価値観をしっかり持って人と接する存在ですから、元より人に関心はありますし、より人と良い関係を作るために自己主張と同じくらい他者理解に力を注ぎます。

利己主義は、自分だけが良ければよいという価値観ですから、欲望はむき出しで、またその抑制が苦手です。本性として孤独が苦手で、それを避けるために人と接しようと振る舞いますから、一見して目先での対応や自分のアメニティには敏感で表情や立ち居振る舞い、言葉遣いには棘もなく、むしろ丁寧で円やかです。しかし本質は人への関心がありませんから、行動を追っかけているとあちこちに人への不遜さや無礼さがにじみ出てきます。ともかく要は「自分が全てなのね」といった思考パターンなわけです。そう、どこか基底的に「意」がずれているのです。

こういった人材は同世代では似通った価値観が共感して、端からみると表面的にはつつがなく関係を作っています。最近はその傾向が強くなっていると思えます。しかし世代を跨がると大きな対人関係的な断層を現します。上下と云った観点ではなく責任者としての立場から見た場合、人痴人材は信用が出来ないと感じます。

責任感に対しての価値観が共有できないのが主因と考えられます。責任感とは人との関係の中で発生する観念です。当然人への関心が薄い人痴人材にそういう観念が生じるわけもなく、まして利己主義な人材が責任という観念に関心を持つわけもありません。そしてその結果、集団としての生産に通じる社会的行動が取れなくなってきます。

社会的には多くの場合、責任者は年功的に上の場合が殆どです。だからどうしても年長の人が年下の人へ役割を指示するという関係になります。年長だから偉いというわけではありません。長幼の序とはそういったことへの警鐘を意図した言葉と云えます。

責任意識のない年長者に従う必要はありませんし、大体そういう人材は人としてなにも学習してこなかった社会的な屑人材です。そういう人は概ね口ではその場しのぎを云って、その場になるとけつを捲るような見苦しい反応をします。正直何が責任かの分別がつかない反応をする人材は年長の中にも一杯います。

しかし時代を経るごとにそういった責任意識や経験知のある人材に対してどう接すれば良いかも分からない節度の無い人痴が増えてきており、どんどん節度の線がズレてきているように思えます。そして人痴人材がマジョリティーになっていて、日本社会はベンサム的に云えば、「悪貨が良貨を駆逐する」ような風潮に思えます。

人痴人材は、人との間合いが取れず、責任の取り方が分からないので、基本の思考が前例踏襲やエビデンス欲求です。当然挑戦はしません。面白いのは人には関心がないのに人からの評価には固執するということです。やはり発想が利己主義とセットになるからなのかもしれません。とにもかくにもマジョリティとなると本人に悪気がない状態になりますから始末に負えません。

そしてどんどんとそれが当たり前になり、誰もそこに目を向けない現代となりつつあります。もちろん社会はそれに応じて閉塞の一途を辿る一方です。

さあ皆さんはこういうことへの問題解決をどうしますか。

次回もまたお目通しの程、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

……そして時代は更なる意識改革をますます求めていく。