• 仏教や儒教といった日本の精神性から教育や社会行動への大人責任を考える

仏教や儒教といった日本の精神性から教育や社会行動への大人責任を考える

国を維持・発展させてきた道理

先週のブログで戒律という仏教用語について触れさせて頂きました。これは弊社が定義するところの自律と規律にも重なる道理的な定義と言えます。人も組織も社会的に意義や維持を示すにはこの二つの道理をしっかりと認知し実践して行く必要があります。

さてこの戒律の様に社会を円滑に動かしていくため、世の中には様々な道理というものがあります。道理とは長い歴史での経験値として学習された人としての考え方や振る舞いです。

西洋においてキリスト教やイスラム教が国家の精神的支柱として今日までその影響力を発揮しているように、日本においては古来より国家社会を維持して行くために人として守るべき道理として、長らく武士道などがその役割を担ってきましたが、そういった武士道などの生成において支柱となった思想があります。

その顕著な代表が個人を高める仏教と社会を治める儒教です。日本人はこれに自然と共生する神道を加え、3つの道理で国民の精神的な支柱を形成してこれまで小国を維持して来ました。

 

天災の多い国として日本人にとって神道がベースなのは非常に合理的だと思います。ただここでは言及しませんが、神道も熊野信仰のような古神道と呼ばれる自然崇拝の精神と伊勢信仰以来の仏教と神仏習合した精神とは異なる思想観なので明確に区分けしておく必要があります。ここで紹介している神道は古神道の方です。

ところで神仏習合は有名な逸話ですが、これまた一見異なるように映る仏教と儒教は日本の精神性の形成においてどういった融合を果たしているのでしょうか。見ている限りでは仏教の中に儒教の精神性が根付いている方が強いように思われます。

確かに仏教の「この世は本来四苦八苦(つらいもの)である」とする考えと、儒教の「この世は本来は素晴らしいものだ」とする考えは、ある意味では対照的に思えます。

ところが仏教では、魂は六道のどこかで「輪廻転生」を繰り返すから、遺体は単なるモノにすぎないし、本来は特別拝めるということも無かったのですが実際はご存知の通りで拝みまくっています。

これにおいて儒教では「楽しかったこの世にまた帰ってこられるという『招魂再生』の思想」が根本にあり、この世に帰ってくるために遺体はそのまま土葬したり、その依り代として位牌を拝んだりします。

そして自分が亡くなった後の精神、あるいは肉体の一部も子孫に受け継がれるという「孝」の思想によって、これが亡くなった日の祥月命日にお参りすることに繋がっています。この辺りは今の日本人はもはや仏教の習わしのように思っている人の方が大勢ではないでしょうか。そう、間違いなく仏教の中に儒教の精神性が入り込んでいるのは確かです。

 

おそらくは仏教が中国に伝わった時、この相反性を何とかするべく、仏教にはそれまでなかった「孝」の思想を『盂蘭盆教』や『父母恩重教』の経典として新たに作り導入することで、中国での普及を図ったのではないでしょうか。

しかし中国ではやはり思想的に真逆の存在は完全に定着までは行き着けなかったのだと思われます。これはキリスト教も同じです。まあ中華思想の強い排他的な精神性を持つお国柄ですからねえ。このように仏教は中国で生き残るため祖先崇拝を取り込んだのでしょうが、日本ではそれが融合したままで率直に伝わっってきたという経緯があります。従って、日本の仏教では当たり前のように儒教の宗教性が入っているわけです。

ですから今日でも日本では亡くなった方の月命日に、仏壇に手を合わせる方も多いわけです。仏壇でご本尊自体を拝むことは仏教本来のものといえます。仏教では解脱出来た人以外は六道のどこかに輪廻転生するのが基本的な思想です。

ですから亡くなってから49日の間でどの道で修行するかが決まるということで、もう一度生まれ変わる時に一段階でも二段階でも楽なところに生まれ変わって欲しいと、初七日から七日ごとにお坊さんにお願いし、四十九日の法要を行うわけです。

しかし仏壇の中段にある位牌を拝むこと、これは儒教の基本的な思想です。日本人は崇仏と慰霊の二つを混合しながら、心では亡き父・母などご先祖さまを想いながら仏壇で拝んでいるわけです。

なお、仏壇に拝むことのほかに、お彼岸やお盆に祖先の墓参りをすることも、お盆の迎え火・送り火や大きい所では仏教の聖地でもある京都で行われる大文字の送り火も、実は儒教の宗教性から来ているものです。

仏花や仏壇の花も、本来は慈悲の心を教えてくれるものとして、拝む人の方に向けてお釈迦様が「月二回、手向けなさい」といったものです。仏になるために我々は手を合わせているというよりも、むしろその宗派の教祖の教えや亡き父母、先祖の教えを聞こうとしているのが目的で、それはある意味先祖崇拝の気持ちがベースにあり、それにおいて仏壇で手を合わせるといったところといえます。

声を「聞く」から日本では「菊」が仏さまの花として使われるようになったといわれていますが、我々の習慣はこのようなことから発せられているわけです。実際の仏教の教えでは、「法華経」などで、美しい花のように在ることとしてハスの花を大事にしていますが、本当に日本人は混ぜこぜというか、融合が大好きでかつ全くそれに違和感を持たない柔軟な国民性を持った世界では極めて異例な存在といえるでしょう。

このように日本人は建前では仏教を前面にしながら儒教思想に対しても、国民生活の維持や成長において効果がある思想はどんどんと融合させ取り入れてきた歴史があります。これこそが大和魂と称される日本人が諸外国から畏怖敬愛された精神性とそこから汲み出された道理の本質であり力の源泉であるといえます。

道理の伝承が断絶する時代

ところで、昨今この道理の教育が西洋的な哲学、一神教的な哲理の介入によってどっちつかずとなり、経年によってどんどんと希薄化してきています。

またダイバシティの台頭によってあまりにそれが強調されるあまり、道理が歪んだ形で伝承される状態となっているのも気に掛かるところです。これでは日本は早晩西洋的思想によって存在意義をも見失うこととなり、やがては傀儡化していくのみとなることは必定でしょう。

これは企業のようなビジネス社会も含め、日常の若手(といっても最早40代位まで含まれますが)の考え方や行動を見渡すと、その一端が至る所で見受けられます。

例えばその顕著な例として儒教の理念である「修身斉家治国平天下」という考えの衰亡があります。これは儒教の書である礼記の一つ「大学」に記されている考えです。

儒教的には「自分の身を修め、家庭をととのえ、国家を治め、天下を平らかにすることですが、輝かしい徳によって「天下」を安定させようとする者は、まず「其の国を治め」る必要があり、そのためには「其の家を斉(とと)のえ」る必要があり、そのためには「其の身を修め」る必要がある、という内容です。

これは仏教的にいえば、「個人が自分を律しかつそれによって自分の言動や振る舞いに気をつけることが、果ては社会全体の安定につながる」とか「家を斉える、つまりは家族をまとめたり、一人の伴侶をも幸せに出来ない者は事業を治めることなど出来ない」といったことを意味しています。

 

これは少なくとも私が幼少期までは幼心に親から薫陶された将来大黒柱になるべく支柱の一つでした。私が成人するくらいまでの日本は男性が主権であるという思想観でした。ですから未だ姉と話していても治国平天下から見た斉家という考えは出て来ません。

でも斉家に対しては非常に拘る言動が強く、寧ろ治国よりも斉家で、治国など自分達には関係ないかの如く主張する様相です。私はこれは姉が正しいとか間違っているとかではなく、教えられている基準の違いと認知しています。

天下国家を語るという言葉もありますが、男子は幼少からこの理念を訓令されて育つ環境にあったということです。女性はまずは「家を守るべし」といった思想の中で、訓令は斉家まで、或いは斉家以下であったということです。今日女性が同権として平等になりました。これは能力的に見て当然のことであり、推奨されることです。今後ももっともっと強化されるべきことでしょう。

問題は、そういった場合女性にもきちんと「修身斉家治国平天下」を幼少期から伝えていかないとバランス良く治国平天下を考え統治する社会安定の思想がどんどんと薄まってしまうのではないかという危惧です。

ただでさえ家庭教育を始めとしてこの治国平天下を教える場が失せてきているのが実状です。女性が台頭するのは大事なことです。しかし権利だけを主張して義務が伴わなければ大変なことになります。それには道徳や道理の思想のあり方が重要な意味を持ってきます。

治国平天下の考えがなくなる時代に何が起きるのか?

また今後の問題として、こういった教えは先の男性主権の思想の中で代々父親の役目でした。わたしもこれは母ではなく父に薫陶されました。

戦後の教育偏重における経年の中で今これを教えられる父親がいなくなると同時に、離別の増大によって父自体が居なくなってきているのが実態です。母親自体が道理教育を受けているならば問題ないのですが、多くの場合50代以上の母親は治国平天下的な教育はおざなりなのがこれまでの歴史です。

これは母親が悪いといっているわけではありません。母親自体がかつての時代には教えを受けていないのですから仕方のないことです。しかしだからといって看過は出来ません。

こういった背景によって若い人たちは男女ともに治国平天下的な思想を持った行いが激減し、世の中は前提が斉家中心になってきているような感があるからです。治国平天下を認知し語れる若者が消失する一方の社会になってきているということです。

組織とか組織的行動を無為に否定する若者が増加しているのもこの影響なのでしょうか。

 

これは言い過ぎかもしれませんが、昨今母子家庭が増えてきています。そういった家庭環境の人と対話する中で実感する面があるのも確かです。「父権の復活」という書がありますが、男女という意味ではなく、かつての役割という観点から見ると参考になることが多々あります。

家庭第一主義が悪いとはいいませんが、皆がそうなった場合誰が治国平天下するのでしょうか。また知力偏重の今日、こういった意が醸成されていない人が治国や平天下の立場に立ち、実際の権力を握った場合どうなってしまうのでしょうか。現実に企業など巷間ではそういったことによる弊害が出始めているように感じます。

そしてもう一つ。それは同じ儒教にある「仁義礼智忠信孝悌」という教えです。儒教における5つの道徳法則、および徳目です。 主として孟子によって提唱されました。この8つの言葉には順番があり、これが非常に大事な意味を持っています。

まず仁、思いやり、慈しみ。 義、人道に従い道理にかなう。礼、社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従う。 智、物事を知り、わきまえている。 忠、心の中に偽りがない事、主君に専心尽くそうとする真心を持つ。信、は人をあざむかない、言葉で嘘を言わない、相手の言葉を疑わない。

考、思い図り、工夫をめぐらす。親孝行する。 そして悌、兄弟仲を良くする。これは前にある五常の上に重なりますが、後の五倫があるという思想観で順番がポイントになります。それは身内の前に先ず自分を信じてくれた他人に儀礼を尽くせというのが道理だということです。まさに斉家の前に治国があるということで、中でもこの教えは斉家の内訳を書いています。

 

如何でしょうか。こういった人としての徳目に対する道理の教育が物凄い勢いで薄まってきており、それが現実の対人関係や家庭維持、引いては組織存続に対して大きく影響を及ぼし始めています。これはもう亡国の領域にまで至っていると慨嘆しています。

私は何人かの仏教関係者とやりとりしたこともありますが、古来それを教えるべく存在、「寺」ですら、最早その機能を果たせないどころか、若い僧侶などその道理すらが無知な状態におちいってきている始末です。これはやはり20代位までに触れないと染み込まない領域です。

かく言う我が家でも私の伴侶はまだこういったことを教えられて来なかった世代です。彼女的にも分からないことは実感もありませんし(そう云う意識で経験も積んでいない)、これは本当に私の重要な役目であり仕事だと、それこそ我が子の挙動を見ながら自戒すると同時に煩(うるさ)がられても伝えていく日々です。嫌われるのが父親と慰めています。これは社長として社内統治でも同様なことを考えるところです。

皆さんの会社、家庭では如何でしょうか。

 

さて皆さんは「ソモサン」?