森元総理大臣の舌禍事件にみる無自覚的偏見と認知相違を考える②

森さんは、組織委員会のなかでは人望が厚いのだそうです。

「今回の件で内部の人たちはみんな泣いているんだ。一番こたえたのは武藤さんの言葉だったかな。『ここで会長が辞めれば、5000人の組織はどうなりますか』と詰められました」といっていました。

確かに今回トップの辞任を内部から要求するという動きは出て来ませんでした。一時はIOCまでもが不問にしようとしていました。東京都からも国からも独立していてその組織ガバナンスは外から見えにくい不透明な組織です。

こういった村社会的な状態が身内の論理を生み出す発端になっているのでしょう。しかし組織委員会は開始当時で3兆円に及ぶ予算規模を動かす重要な機構であるということを忘れてはなりません。この組織には社会的責任があるのです。

なあなあの組織になると馴れ合いが発生して、リスクなどへの厳しさが失われていくことになります。そして気が付くと前例踏襲的な硬直化した状態に陥っていくことになります。その典型が長老支配です。長老が良い気分になれる空気が蔓延する組織です。

 

また森さんは、義理人情に厚くお世話になった人も多いという話も多いそうです。彼自身は立候補時には泡沫候補として公認を得られなかったのが、近所の火事の時、森さんは決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たのがきっかけでトップ当選を得たのだそうです。

当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動が風向きを変えることになったのだそうですが、かつて田中角栄元首相同様に人の持つ性、論理よりも感情を優先するという機微に敏感な人です。

葛藤を好まない安定志向の村社会では最も重要視されるこの側面に長けていたのも森さんがのし上がれた理由の大きな要因でしょう。

 

森さんには都内に所有していた自宅を手放して派閥所属議員を支援する資金を確保したといった「面倒見の良さ」を示すエピソードがたくさんあります。とにかく身内で直接手懐ける人には優しい。義理人情の人です。

田中さんと云い森さんと云い、こういう人が重鎮となっていく政党組織の集団としてのアンコンシャス・コグニッション(無自覚的認知)や規範が浮かび上がってくる側面です。

 

オリンピックのような政治と巨大利権が絡む利害調整は、綺麗事では行かないことも事実であり、義理人情浪花節での調整役を必要とするのも現実ですから、こういった価値観や動きを全面的に否定するものではありませんが、やはり日常の中で一定の油断を生じさせるのは確かです。

 

当事者がよければよい? もともとの根底の価値観とグローバルな価値観との認知相違

今回の発言は山下会長によると、閉会を宣言して議事が終わった後だったのだそうです。正式な議事録としてルール上残る形ではなく、「面倒を見てきた」人に対して暗黙のメッセージとして伝わるように発言する。これも浪花節的な情実的で義理人情的なリップサービスだったのでしょう。

その油断が心のガードを下げさせ、戦前の封建的で村社会的な価値観を露呈させてしまったと私は考えます。

でなければ、オリンピックの会長がスポーツ庁の女性理事の割合を40%以上とする目標を掲げているガバナンスコードを軽視する発言を迂闊にもするわけがありません。

社会的にも識者の方が問題視しているのはポピュリストが騒ぐような単純な女性差別問題ではなく、「発言の趣旨は、ガバナンスコードの数値にこだわる必要がないという部分だと受け止めました。それを仮に『守らなくてもいい』と本気で考えているのなら問題です」という危機感の問題です。

「多様性と包摂(Diversity and Inclusion)」の理念を謳う組織のトップが、理念・ルールについて「うるさい」と発言していることは、コンプライアンス上、大きな問題になります。 義理人情浪花節の実行力は重視するところですが、組織の理念を毀損する存在としては到底容認できるものではないわけです。

 

今回の問題は男女のみならず様々な偏見が絡む典型的なアンコンシャス・バイアスによる認知相違的問題の好例です。要はここにあるアンコンシャス・バイアスやハラスメントは、全ては一緒で日本の社会文化の縮図が生み出したグローバル社会でのズレが本質問題であり、個人攻撃をしてももぐら叩きが続くだけであるということなのです。当事者に問題意識がない問題をただ叩くだけでは何らの問題解決も出来ません。

 

例えばここには老若の考え方の相違によるアンコンシャス・バイアスにおける認知相違的問題も発生しています。これも単に老若における価値観の相違だけでは済まされない社会的バイアス構造があります。まさに昭和と令和の世代間ギャップです。ですから単純にパワハラと切り捨てるのも危険です。

元々日本においては、江戸時代における武士道の中での朱子学的影響があり、長幼の序という考えが定着しています。その為目上の人に対して、女性に限らず男性の若手が発言する時でも服従的な空気感と無言の圧力が流れることが多々あります。

尊敬とか畏怖ではなく明らかに服従です。それ故か多くの年長者は、自分は長々と取り留めもない話をその場で考えながらダラダラと話しながらも、若手や女性が自分の予定調和でない文脈で話を始めると、突然不機嫌になるといった様子をよく見かけます。

先のJOC評議会での森さんの挨拶は実に40分でした。挨拶というものは通常長くて10分程度のように思います。実際ラグビー協会にいた人によると、森さんの話が一番長く、自慢話ともつかない話が冒頭から延々と続くのだそうです。

しかしそういう年長者は日本中にたくさんおられます。多くの同族のような村社会的な組織では、高齢化しても役職者はやめず、妖怪のような存在になっていくといったケースが後を絶ちません。

若手は機会を与えられず、組織内では若い時にリスクを負ったことのない人が積みあがっていきます。これは社会的な風潮でもあります。そのため徐々に若手自身も保守化していき、そういった人は益々萎縮し、そのうちに思考停止していきます。

政界などでは、60歳は鼻垂れ小僧、70歳になって一人前などと云うそうですがこれは戦後の日本の特徴です。戦前では30歳代が大きな改革をしていたのが日本の国力でした。

むろん素晴らしく発想が柔軟で新しいことに挑戦しているご高齢の方もいるし30代でも発想が老け込んでいる若手もいるのが現状ですが、日本の組織では高齢者が脇の甘さが故に失言をしたりハラスメントを犯したりすることが多いのは否めません。

いっぽう所変われば考え方も変わるで、韓国では未だ儒教観が強く、日本は何をいっているのだ。当たり前だろうという風潮もあります。しかし韓国でも都市部と地方部では感覚が異なります。今は非常に複雑な時代です。自分の価値観だけを押し通しても歪みは強まるだけです。

 

森さんの問題発言はその場で笑いが起こったことも批判の対象になりましたが、こういった話は世間一般でも結構あちこちで耳にします。私がお伺いする農協組織のような閉鎖社会に行きますと顕著です。

村社会で年功序列の長老支配で権威主義、古い日本の社会構造の巣窟です。会社や寄合といった会合などで場違いなウケ狙いをして、反感を買うケースも少なくありません。

 

いたるところで認知相違が起こる

このような事例があります。

衣料品販売会社で起きた話で、そこに勤めるある若手の女性からのクレームです。

「会社のゴルフコンペの表彰式で、ある部長が締めの挨拶に立ち、『本日はおつかれ様でした。今日はここでお開きですが、夜の19番ホールは各自、思い思いにお楽しみください』と言ったときには、あ然としました。

ところが周囲にいた男性の部下たちは“イヒヒ”と笑っているのです。こわばった表情の私たち女性社員をよそに、受けたとご満悦な表情を浮かべていた部長の姿は、本当に気持ち悪かったです。小さな会社の内輪のコンペとはいえ、女性も同席しているのにびっくりしました」。

老若問題として若手男性社員からブーイングの声が上がったのは、年配の人から口癖のように発せられる「オレの若い頃は」という説教です。機械工具販売会社に勤務する若手がこう嘆息します。

「コロナが流行する前は会社の上司からよく飲みに誘われました。予定があるので断わると『オレの若い頃なら、何があってもお供したよ』と言われるし、『付き合いも今日までだな』なんて冗談まじりに脅されることもありました。

父親くらいの年齢の目上の人だから謝るしかないんですけど、心の中ではそこまでして付き合ったところで現実貴方から学ぶことは殆どありません、とツッコミを入れています」といった具合です。

 

面白いのは、こういう空気の読めない発言をする人って、男性女性に関わらず、年配の、特に役員クラス以上の上司に多いという所です。これも森さん同様の古い社会的な商慣習や組織体質での成功体験が生み出したアンコンシャス・バイアスが故の所業かも知れません。重要なのは男女を問わずという所です。

私が経験するところでは男女差別問題もそれを取り上げるのは結構若い女性の方が多く、年齢を取るにしたがって声を上げる人が減っていく面もあるように思います。それは単にあきらめの境地というだけではない感覚を得る面があります。

 

このような話もあります。「自分が経験してきた会社には男性だけでなく女性の役員も普通にいる職場が多かったのですが、ある女性役員からは『え!彼女いないんだ!じゃあさ、〇〇ちゃんとかどうなの?ほら、仲良さそうにしてるじゃない~。』とか、うちの部署の女性マネージャーからは『〇〇くんはまだ人生経験が少ないからねぇ…そうだ!結婚したらいいよ!よし!今年1年の目標に”結婚相手を見つける!”を入れよう!』なんてことを言われたことがあります。

当然その上司たちは、一定の年齢層以下の社員たちから影でドン引きされてましたが、表立って何か言われることはないので、もう常に言いたい放題です。森さんも組織の中では、同じような感じだったんじゃないですかね」。

 

いかがでしょうか、男女問題なのか、老若問題なのか。何れにしても認知相違の問題は一通りではなく、複数の認知要素が交差している問題であることだけは確かなことです。単純な論理で対処しようとすればかえって事態を複雑化させて抜き差しならなくなる恐れがあります。

 

今回の森さんの問題でいえば、更に難しい問題が隠れています。 オリンピックという世界的なイベントをコロナ禍が継続する中で半年後に控えるという特殊な状況で、それを抜け切るのにどうするか。

今回の問題を目先の単純な論理で断罪して、その後処理をどうするのか。自分が当事者なのか、評論家なのか、という立場の違いも大きな認知相違を作り出しています。

 

招致成功以来、5000人規模の寄り合い所帯が施設設営、ロジスティクス調整等、膨大な調整業務の作業を行っています。コロナが収まっていないのに、オリンピックどころではない、2週間のスポーツイベント開催よりも国民の医療体制を守ること、安心・安全が優先だという国民感情は間違ってはいません。

但し、当事者として準備にあたっている方々とオリンピックの主人公である競技者のこれまでの努力への敬意も大事です。競技者からは、国のために闘っているのに、何故闘っていると非難されているような「ベトナム戦争のアメリカ兵の気持ち」という声も出ています。

オリンピックは問題も課題も多いが、基本は多くの人が一度は待ち望んだ東京2020オリンピックだったはずです。 開催準備に既に相当なコストを投下し、開催に向け努力している人たちと参加に向けてトレーニングに励む世界中のアスリートがいる以上、最後まで開催に向けた努力を簡単に諦めるべく切って捨てる話ではないと私は思います。

そういう意味では森さんは、本当に命がけで「7年やってきた」のは事実ですし、そのオリンピック開催に向けた当事者意識に対しては敬服してもいい話だと思います。

 

ただし、くどいようですが、今回は東京2020大会の基本コンセプト「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」を組織トップそのものが重視していないことを露呈し、スポーツ庁の女性理事の割合を40%以上とする目標を掲げているガバナンスコードも軽視するよう会議体に圧力をかけたという深刻な話です。

ですから世論や選手、協賛社から非難の声が相次ぐのも確かで失言では済まされないことは確かです。

 

皆さんもアンコンシャス・バイアス、そしてそこから生み出される認知相違が引き起こす問題の深さや複雑さをもっと真剣に捉え、自組織や所属する個々人のパフォーマンスの低下を防ぐ手立てを積極的に講じる必要性をしっかりと確認して頂ければ幸いに思います。

本当にこのテーマに関しては、基礎をしっかりと学習して丁寧にアプローチする必要があります。

かつて夏目漱石はその書「草枕」の冒頭で云いました。「知に働けは角が立ち、情に掉させば流される」。真摯に向き合っていく問題だと思います。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?