人に意識的な自由意志はないという脳科学の説を考える

新しい社会構造はウェルビーイングか?「意識」を扱うメソッドでより新しい社会をよりよく形作る支援をしたい

今年最後のソモサンとなりました。いやあ1年は早いものです。今年は本当に災難な年でした。JoyBIzも2月位から教育、特に集合教育でキャンセルが相次いで業績はガタ落ちになりました。

1年間いつまで持つか分からない中、コストを切り詰めて資金繰りを優先にしつつも、あくまでも顧客第一の姿勢を念頭にコンサルティングに集中して活動してきました。本当に水面ぎりぎりを滑空するような状態で、来年これが続けばまず力尽きて波に飲み込まれることは必定といったところです。

 

それにしてもおそらくこの疫害によって変化した社会活動の構造はその以前に戻ることはないと推察されます。これまで胎動していたネットを中心とする非対面的なコミュニケーションやリレーションのあり方は、これを機として集団や組織の体勢を大きく変容させ始めています。

いつの時代もマジョリティはマイノリティを凌駕しますが、今その価値の大転換を目の当たりにしているわけです。

そういった背景も後押しをして、JoyBizも事業形態を社会構造に合わせるべくリモートを中心としたプログラムを開発して攻勢に転じようとしています。

 

それが「コグニティブ・ギャップ・レギュレーション・メソッド(認知相違調整手法)」、通称「コギャル」です。

 

コギャルは

・対人問題を引き起こすアンコンシャス・バイアスの是正

・アンガー・マネジメントと言われる感情の効果的管理

・(内面の)レジリエンスの強化

 

を目的とした、いわゆる「意識」といわれる心の強化や管理、変容を目的としたアプローチです。

 

 

これまでJoyBizではカントなどが定義した「知情意」という心の三元素を基軸においてメンタルの管理やハラスメントやダイバシティへの対応を行ってきました。心は3元素がそれこそ三位一体として存在しているので、どれか一つを取ってそこだけにアプローチしても効果は出ません。

しかし企業をはじめとしてどこの集まりでも、感情問題は感情面に対してだけアプローチするとか意識問題を知識面でアプローチするといった具合で近視眼の誹り(そしり)を受けても仕方がない状況です。本当にむだな投資だと云わざるを得ません。

 

戦後の日本の教育システムは「要素還元論」という無機分析(全体は部分としての要素に分解して見れば解明できる)中心の考え方のみが科学である、といった米国の影響による偏ったアプローチを踏襲して今日に至っています。

そのため致し方のないところではありますが、この弊害は日本人がシステム思考が不得手である(戦前は得意であった)といった面で顕著になっています。

 

最近ようやく脳科学の分野などで「社会構成論」的な有機統合の考え方(部分としての要素を単に集めても一体的な全体にはならない。全体は全体で見なければならない)が求められるようになってきたことは科学の刮目として重要な出来事と云えます。それは知情意も同様で、知、情、意を区分けしてそれぞれを研究したところで、実在としての心は見えてこないということです。

 

 

私たちは「決定」しているのか?「決定」させられているのか? 脳科学、社会学、心理学、哲学から見た無意識・自動思考

 

さてその知情意ですが、前回は、情は知に優るということを取り上げました。物事を判断し決するのが意の役割ですが、コミュニケーションや内観において知が意に対して解釈という段階を踏むことで間接的に繋がるのに対して、情は波動のようにダイレクトに意に繋がるため、人は論理よりも情動や感情による影響を早く強く受ける他、知としての思考における解釈自体が情の影響に左右されるのは間違いない事実です。

 

そこで年末最後の話題は知と意の関係についてを取り上げてみたいと思います。

最近の脳科学の研究によって、人間の意思(判断や意思決定)は想起する自由な顕在的な論理の組み立てから生じる意志ではなく、無意識にある認知活動によって発せられるということが分かってきました。

例えば窓を開けるといった行動や意見を云うといった意志決定は、「我思うゆえに我あり」ではなく、そう反応させる前段階としての脳内の動きがあるのであり、人間に自由意志というものは存在しないということが明らかになってきたのだそうです。

 

ではこの無意識にある認知とは一体何でしょうか。

 

その一つは自律神経です。脳科学では人間の脳の90%は自動化された機能であると認識されています。確かに心臓の鼓動や内臓の動きなどが自動的に活動していないと大変厄介なことになります。

また情動も意識や思考に影響します。情動は主に本能的な欲求や衝動といった感覚に直結した興奮です。接近、攻撃、回避の3つが生存本能に根ざした基本情動です。一方感情は主として知的意識からもたらされる喜怒哀楽のような情緒で、学習によって身につける反応で情動と感情は似て非なる存在です。

 

この感情や思考の起因となるのが自動思考です。自動思考とは自分の意志とは関係なく自動的に湧き起こる思考です。自動思考は通常の意識的に熟慮する思考と異なり、無意識下で瞬間的に湧き上がり、刺激として感情、行動、身体反応などを左右させる脳の働きです。

 

実は意識的に行う思考も自動思考によって方向づけられて行われるということが、脳波などの研究を通して証明されてきています。人の意思決定は意識的に想起した自由思考や自由意志によってなされるのではなく、無意識下で働く自動思考が予め意志を喚起するように発動した結果としてなされるということなわけなのです。

 

つまり意思決定に関する人の思考は、そう思ったから決めたのではなく、無意識的に価値判断をしたり、情動になった結果、反応的に決めたことを、選択に対する自己正当化としての理由を後付け再構成して意味付けてそう思い込んでいるというのが本当のところなのです。要は人は自分で決めたと思いたがる、自分を持ちたいという自尊心があるわけです。

 

自動思考は、例えば「やらなければならない」と意識しても、その量に対して「これらを一気にやるのは無理だ」と自動思考する習癖があれば、まず無力感や投げやりといった態度が先に出てしまうといった按配(あんばい)で、時には身体的に頭痛や腹痛が生じることもあります。

これは知としての論理的な思考ではなく、感情反応を伴った体感的、経験的といった五感学習による暗黙知や無垢な段階で刷り込まれた初期設定(インプリンティング/刷り込み)といった知情意が三位一体となった学習による効果として生み出されます。

 

この自動思考を応用して日常の繰り返し行動(ルーチン)を徹底させ、オーバートレーニングによって正確で迅速な反応が意思決定にも及ぶように行う訓練やゾーンと呼ばれる極度の集中化を持続させる心理状態を作り出す瞑想法を活用する業界もあります。

しかしこの自動思考の最も有名な例は、悪しき事例ですが「トラウマ」です。トラウマいわゆるPTSDは無意識に潜む恐怖心に根ざした自動思考です。

 

こういった人の意志や行動は社会学の見地からも同様の認識がされています。

社会学者のピエール・ブルデューはその著「ディスタンクシオン」の中で、ハビトゥス(人が持つ慣習行動の原理、傾向性)という概念を紹介しています。

 

人の思考は

・その人が持つ下地

・過去による経験遺産

によって影響されるという考え方です。

 

思考、つまり物事の認識法はその人が持っている文化的能力による認知の有り様に従うというものです。彼は実証を通して、人の持つ物の見方や感受性は家庭と学校(例えば学歴)が作る規定を軸として、置かれている社会環境と相関する、要はどう教養が訓練されたかによってハビトゥスは形成されると説きました。

そして脳科学と同様に人にとって真の自由意志はない。人にとっては社会的な規定の中でしか自由(意識・思考)の幅はないと提唱しました。みなさんお察しの通り、このハビトゥスは自動思考と同じ世界を示唆しています。

 

ブルデューはハビトゥスの元となる学習は「リアルな生活から紡がれる体感学習である」といい、「人には所属する社会における世俗からの体感学習に基づいた文化的慣習行動や選好がある。特に教育水準、出身階層が大きな要素になっている」と説いています。

その上で「経験のない中で創造によって理想化しない物の見方を身に付けなければならない」といっています。この辺りは社会学的な見方ですが、いわゆる学歴偏重主義のパワーエリートは記銘すべき見解です。

 

私は、エリートや高学歴者は自分の論理的な思考力を過信して、何でも分かったような振る舞いをしたがるように思います。面白いのはそれが自動思考的に出る時です。返事の仕方、物事の受け止め方など意識的には謙虚さや冷静さを装いますが、その後の行動や認識にあり方、意見を観察していると、反射的に分かったふりをしたり、現場知らず特有の「高望み(ヘッドトリップ)」を標準として信じ込む有り体が習性になってしまっているのを目にするとき、「これは苦労するだろうなあ」、それ以上に「周りは振舞わされるのだろうなあ」と慨嘆することしきりです。

 

こういう人は総じて何でも頭で解釈する癖があるのでその場で情報を収集する感性が磨かれていない人が多く鈍感です。思考が場にそぐわないのです。でも本人は思考力で何とかなると最早習癖になっているので、そのこと自体に気が付きません。

思考の成果は頭の回転力だけではなく、それ以上に持っている情報の量です。いわゆる高学歴なのに情報感度が鈍いがために持ち味がマイナスになっているのは勿体ない話だと残念に思うばかりです。

こういう人は本当の意味では、社会的に有用な人材としては頭が良いとはいえないと私は考えます。アルジェの戦いに従軍する中で社会学に啓発され、その地に留まって研究を始めた実践論者のブルデューの見解は慧眼(けいがん)に値します。

 

ブルデューは「見方は経験の産物である」と云っています。そして感情移入も認知行動としてのハビトゥスの一つであるとして事例を提示しています。

例えば、木の皮の写真を見て木の皮を単なる皮と見るか、美しい芸術と見るかには文化的な背景が影響する。ハイソサエティ出身は皮の中に意味を汲み取ろうとして美を認知するが、ローソサエティー出身者は実用性の観点から皮は皮にしか見えない。

また老婆の手の写真を見て、その手から単なるおばあさんを感じるか、労役の中で経年で生み出された美と感じるかも同様である。ブルジョアジーは労役者が身近にいないから手のシワを見ても苦労としての実感がない。だからそれを作品として見る。作品としてしか見れない。人の感受性はどのような立場でどのような経験をしたかの暗黙知で生み出される。

 

まさに認知が自動思考を作り、自動思考が認知反応を生み出すということを社会学的に証明しています。

自動思考を信念として解釈する理論があります。これはアルバート・エリスを中心とした論理療法によって認知を矯正しようとする心理学アプローチです。心理学ではその後認知行動療法としてペンシルバニア大のアーロン・ベックを中心により広範な深層心理として自動思考という概念を提唱しました。

 

組織開発の底にある「無意識の認知活動」という難問に「自動思考」と「情動」から切り込む!

 

JoyBizでは

 

・個人のメンタルヘルス改善

・対人間の摩擦や葛藤といった非生産性的な活動の改善

・チームの凝集性改善といった実践学の探究

 

上記から、人の思考や行動を左右する根本として一般的には意識と称される領域の啓発こそが人や組織が最も生産的で快適な効果を得ることに繋がり、また抜本的で持続的な状態を生み出すという結論に達しました。

 

そして意識をさらに探究する中で、一般に無意識と言われる、意識を形成する深層心理にあるメタ意識が意識のあり方に影響するという事実に辿り着きました。

 

・思うけど出来ない、

・思うけど動けない、

・思いたくない、

・新しいことに踏み出せない、

・すぐに後ろ向きになる、

・保身が先に立つ、

・自分に拘る、

・気持ちが乗らない、

・気持ちのコントロールができない、

・他人と融和したいけど拘りがある、

・分り合えといわれるが意味が分からない、

・そもそも発想が浮かばない、

・気づき自体が出来ない

・頭で考えることと行動が一致しない、

 

とか人の意思決定や対人関係は意図的に想起すること自体に様々なメタ意識が作用しています。メタ意識の調整がない限り、意識の変容は望めません。

 

このメタ意識を信念というように解釈して活動している方々もいらっしゃるように伺っていますが、JoyBizではこれを自動思考と情動という観点からアプローチすることに意味を見出しました。そして生み出したのが、「コグニティブ・ギャップ・レギュレーション・メソッド(認知相違調整手法)」通称「コギャル」です。

昔流行したコギャルのように「気楽にハッピーに行きましょう」という意味が含まれているかどうかは定かではありませんが。

 

「コギャル」は、そのベースをベックの認知行動療法に置いています。これはペンシルバニア大のレジリエンス講座「ペンレジ」と同じ視点です。そこに対人関係改善技法や体感的な瞑想技法などを組み込んで、心技体という3方向から三位一体の知情意の有り様を調整し、特には拡張変容を促すことを目的としたメソッドです。

コギャルの元である認知行動療法の概念は、「人の感情や行動(そして身体反応)は、他者の言動や行動とか状況そのものでなく、それに対する解釈の仕方によって影響されて生じる」という認知モデルに基づくアプローチになります。

 

例えば、先にあげた「やるべきことがありすぎる」ときに「これらの全てを一気に終わらせるのは無理だ」という自動思考が生じるかもしれないといった場合、このような自動思考が本当に現実的(否定的幻想はないかなど)であるか、その自動思考の根っこは何か(何でも一人で抱え込む)などを検討し、「人の力を借りれば必ず終わる。また一気にやるのは無理でも理解を得た上で段階的にやれば間に合う。過去にもそれで何とか切り抜けた事例が周りにある」「一人で悩まず人に積極的に相談してみよう」と考えを修正することができれば、少しずつやる気が回復するだろう。

 

これを概念化すると以下のようになります。

 

技能や行動は思考に従います。しかし本質は思考は自動思考に従う、なわけです。ですから自動思考を野放しにしていくら知識供与をしても技能強化を図っても、端から受け付けていないので、それは無駄な投資になるわけです。

 

新年度からのソモサンは暫くコギャルについて言及していきたいと思います。また先週紹介させて頂きましたが、1月中にYouTubeで講座を開講しようと計画しております。様々な方々との対談も考えております。

中心は竹本が行いますが、時に私も顔を出すようには考えております。ただ出だしでもコメントしましたが、新しい取り組みを新しい方法で展開するには若手の勢力が一番です。これを機にJoyBizも「老兵はただ消え去るのみ」といった姿勢が必要だと感じています。それこそ変革が要求される来年です。新年に際して良い機会だと考えてます。

 

あっ、引退するとは言っていません。あくまでも新しい取り組みは新しい人たちの創意工夫が良いと言っているだけですので、誤解なきようにお願い致します。

 

それでは皆さん、今年もご愛読ありがとうございました。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。

来年が飛躍とまでは云いませんが、発展に転じる年になることを切に願っています。お互いしっかりやっていきましょう。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?