• 考えではなく思いやそこからの気持ちが人の心を動かし実践がもたらされる

考えではなく思いやそこからの気持ちが人の心を動かし実践がもたらされる

私もコンサルティングという生業に出逢って最早38年になろうとしています。そもそもは小学校2年の時に夏の夜人工衛星が頭上を通り過ぎるのを見つけ、それを作文にしたところ、それが県での賞を頂けることになったのがきっかけとなって宇宙物理学者を志すようになり、以来理系の道をひた走る中で中学の時にSF小説にはまり、その中でヴァン・ヴォグートが書いた「宇宙船ビーグル号の冒険」という作品と出会ったことに端を発しています。

その中で書かれていた「科学の使命とは理論と実践とを結びつけることである」という言葉にいたく感銘を受けた私は、以来そういうことが出来る生き方が生業となるような人生を送りたいと、科学者や弁護士といった世界を描きながら青春を模索的に送っていました。そのような折に出会ったのがマッキンゼー社のようなコンサルタントの世界だったのです。

英語が不得手だった私では外資系は望むべくもなく、国内のコンサルタント会社に身を置いて活動を開始したのですが、これが当初の私のイメージとは全く違い、日本では外資以外のコンサルタントに地位はなく、それ故に理論を発揮することなど夢のまた夢というありさまでした。しかしこれが幸いして今の私のコンサルティング活動における実践的ノウハウの開発に繋がっていくきっかけになっていったのです。ある意味皮肉な話です。

 

さて、今回はこういった過去の経験を通して今多くの企業や組織が何に取り組まなければいけないかを私なりに主張して行きたいと思います。言うまでもなくコンサルティングとは、一部のいかがわしいブローカを除いて、学者が構築した理論を縫製し直して現場に適応させ、効率良いあるいは能率良い実践活動の創出支援をする仕事です。

学者がいう理論とは、実社会で生じた様々な現象を科学的に分析整理してそれを一定の法則にまとめた合理的な概念です。知の結晶といえます。ですから未知の人たちがこの知を身に付ければ当然活動の合理は得られるはずです。多くの導入者もそれを当然として依頼してきます。しかし実際はどうでしょう。その大多数は理解されず受容されずという状況の中で水疱に帰していきます。

これは何故でしょうか。受容者が基本的な知に欠けるからでしょうか。でも巷を見回すと、先のマッキンゼーのような外資に頼んでも同様な末路に至るのが殆どなのです。彼らのクライアントなど綺羅星のような企業群が名を連ねているにも関わらず、社員もかなりの高学歴で知の巨人のような人たちばかりのはずなのに結果は同じなのです。挙句コンサルタントの性にされる始末です。

 

ここで最近ネットに上がった SNS情報を紹介させていただきます。一つはあるベンチャー企業の経営者のTwitterに関する内容です。人間は感情の動物だとよく聞きますが、皆さんも理性的に判断すれば「選択しない行動」を取った経験や、友人などを見たことはありませんか。これをツイートしたのは、メンバーズデータアドベンチャーカンパニーでカンパニー社長を務める、えりりんさんという方です。

「賢い人が社会で割と最初にぶつかる壁は、正しさや合理性では人は動かない」ってことだと思う。知性を頼みに生きてきた人間には耐えがたいことだけどこれを肌身に染みて理解して初めて、その知性を武器として生かせるようになる(@EriShiraiより引用)」。

このコメントに対して、「めっちゃ分かります、それ。人は理性で動いているフリをして、感情で動いていますからね。そして、人を動かすには共感と感動」「私は別に賢くないですが、ぶつかってる壁はそれな感です」「全員が同じゴールに向かっているわけではないのが現実の組織ですからね」「正しいことや正論を浴びせても人は動かなくて、『自分は正しいことを言っているのに』と何度も思い痛感させられました」「必ずしも正義だけが勝つわけではないと、学ぶことになりますね」など、たくさんの共感と納得の声が寄せられていました。

 

また、「人にはその他に、快不愉快、義理、共感、倫理観、宗教観、愛情などをもっていますから。そこは知性でカバーできるところと難しいところがあると思います」「人間性が大切ですね 論理的な正しさも誰が話すかによって響きが変わりますから」など、知性に加え、さらに必要なこともあるだろう、と指摘するコメントもありました。えりりんさん自身は、「若手時代、当時の上司から『あなたの仕事は合意を形成すること。正しいことを言うことが、必ずしもそのためになるとは限りません』と言われました。

それ以来、誰かに何かを言ったり働きかけたりするとき、何を伝えるかよりどう動いてほしいかを考えるようになりました。まさに、ツイート内容そのままの体験を紹介してくれました。そうした経験を踏まえ、相手の心を動かすことを心がけています。そのために、相手の望みや嬉しいポイントを知らないといけないので、それを知ることや想像することを意識しています」と明かしています。

 

もう一つは、元外資系で働いていた方の内容です。

「外資系企業では、『ロジックこそ命』と叩き込まれました。なぜなら、多国籍の人たちが集まるチームで働くためには、「習慣や文化」を前提にした感情的な話し方よりも、数字や事実に基づいていて客観的に筋の通った話し方で説明する方が説得力を増すからです。一方で、ロジカルな主張がハラスメントに当たるとされる時があります。

ロジハラとは、「ロジック・ハラスメント」の略で、共感が必要な場面でも正論を振りかざして、相手を追い詰めることを指します。自分はロジカルな話し方を一生懸命に習得したおかげで会社を辞めるころにはプライベートで恋人にも「私があなたを好きな理由は3点あって~」と話すロジハラ人材になっていました。

例えば、「どうして相手によって態度を変えるの。スタッフ同士仲間なんだからみんな平等に接しないと」と、現場の事情も踏まえずに公平さを要求するとか、「このミスは誰が起こした。〇〇さんどうしてできなかったのか説明して」と本当は理由を確認したいだけのつもりでも、状況に配慮の無い発言がミスをした人を精神的に追い詰めてしまう。

或いは、彼女に対しても「私はあなたへの不満が3つあります。1カ月以内に是正されなければ、お別れします」と一方的に通告するとか、「君の金遣いの荒さは結婚した場合、支障をきたすと思う。僕は君と同じくらいの年収だけど、〇万円を毎年ためているよ。なんで君にはできないの?」と、奨学金や親への仕送りなど、事情を踏まえずに相手の生活設計に口出ししてしまう。友人に対しても「いつまでそんな恋愛してるの?そんなことだから、結婚できないんだよ。結婚したかったら〇〇をやって」と相手が望んでもいない解決策を押し付けたり、向こうは軽く愚痴ったつもりなのに「それってさ、〇〇ちゃんにも悪いところがあるよね」と共感ではなく正論で返したりするなど相手の状況に配慮するといった言動ができなくなっていました。

この頃の私は「正しいことが、どうして悪いの?」と思っていました。その時の私には、物事には「絶対の正しさなんて無い」という点を知らなかったのです。恋人が「結婚後も妻以外に彼女を持ちたい」と言ったとして、不倫は民法上不貞行為に当たるので法的には「正しくない」ことになりますが、もしその夫婦が不倫を公認していたら、そして2人の間でお互いに外で恋愛をしても良しとしていたなら、それはそれでアリ、というような発想が出来なかったのです。ロジハラ人材は、「そもそも民法上では不貞行為とされているのだから、2人の間でのやり取りについて考えるなんて無意味」と片付けてしまいがちです。そして、正論で相手を追い詰めてしまうのです。

 

ロジハラ人材は全てのことに「正解」があると思っています。そして論理的であることは「正しい」と信じているのです。ロジカル・シンキングは、仕事や家庭生活を円滑に回す1つの方法に過ぎず、ロジカル・シンキングに頼り過ぎるのはある種の信仰であることに気付けないとロジハラ人材から抜け出すことはできません。そう私は30年近く前にこの問題にぶち当たったのです。

理論と実践とを繋ぐもの。そして私は一心に人の持つ感情的な側面の理解と研究に注力していきました。幸いにも私が在籍した会社は組織開発という人と組織のプロセス、特に心理的感情的な側面を活性化させることを主業としていましたので、研究材料や資料には事欠きませんでした。しかしどうもその会社のノウハウでは思うような結果が生み出せません。私はまたまた隘路に嵌ってしまうことになりました。感情は移ろいやすくまた捉え所がありません。「人は知だけではない。しかし情だけではマネジメントできない」。

そして彷徨うこと10年。もともと青春時代に「宇宙」という哲学的概念の流れの中で触れていたインド哲学を「禅」という仏教的な概念からふと再考したときに、心の三要素としての「知情意」という区分けに行き当たり、「そうか本来知と意とは異なる要素であり、知と情との二元論で区分けするところに限界があったのだ」ということに気がつく中から、知に近い理論と実践に近い感情とを取り持つ意思の存在を抜きにして思考と行動は繋がらないという自明の理に至ることから、私のコンサルティングの基軸は一貫することになりました。知情意。

この概念は西洋哲学でも基軸となっており、古くはアリストテレスが提唱し、カントによって確立している三要素です(カントはそれぞれ純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判という三つの文献で探究しています)。

 

平たくいうと、知とは「考え」、意とは「思い」、情とは「気持ち」のことです。考えと思いは異なる。いくらキレキレの考えを持っていても、それに思いがなければ行動には繋がらない。考えに気持ちはないが、思いには気持ちが込められる。考えだけでは動きは起きないが、同時に気持ちだけでも動きは起きない。動きには考えと気持ちの両方が必要で、それを合わせる作用をしているのが思いという存在である、ということです。

以来私はこの三者を同時に開発すべく、特に思いの開発をすべくコンサルティング活動を営んできていますが、これを理解する方は中々いません。理解者の多くはオーナー的な経営者です。また先のSNS例にあるように若い人ほど、エリートといわれる人ほど、素地が作られていないのかピンと来ないようです。私は戦後の学校教育や親の家庭教育の歪みを問題視しています。ではここで私の経験から思いが開発出来ていないとどういうことになるか、特に組織としての思いが人や組織にどのような影響を及ぼすかということを、古い事例を通して紹介させていただくことにします。

もう10年以上前の話です。その会社は化学系の100年以上の歴史を持つ商社でした。100年も経つのに会社の規模は30年間ほど変わりません。業績も同様です。私的には100年続くということ自体が凄いことなのですが、社長的には今のご時世、この位の状態が続く限り未来が不安定であると非常に真摯に悩んでおられます。確かにお伺いする限り社員に今一つ覇気がありません。

色々とヒアリングしてみると個々には思いを持っている方もいらっしゃいますが、組織というものに思いがないのです。特に役員層がそうです。目先の業績には反応するが組織の将来を見据えた思いを持った人がいない。ですから群雄割拠のような体となっています。そして部課長には思い自体が感じられません。考えもそうですが、何よりも気持ちがない。組織に気持ちがないのです。

社長的にはそれを何とかしたい。そこで始めは何とか目先の業績を上げる考えを身に付けさせてくれないか、という依頼になりました。私は事業開発の考えを提供しましたが、やはりそれに直面した人たちの動きになってもそれが全体のうねりに繋がって行かない。組織としての思いがないということは根がないということです。根を持たなければならない。全体の活性にはどうしても全体を束ねる思いの創出が必要である。そこで社長との話の中で会社全体の中期経営計画を作ることにしました。

理念も大事ですが、まずは目に鮮やかな目標の提示を求められたわけです。その時に特筆することが起きたのです。中期計画とはいっても今回は思いです。ですからビジョン的な要素が求められます。それには10年後を睨んで、その為の7年後、そして3年後といった積み上げ的なリアルさが求められます。部課長で作ったのですが、皆さん10年後はある意味無責任に意見を出してきます。

ところが3年後といったら途端に口を紡ぐのです。色々と分析もしてもらい、考えとしてはこうやって結果幾らいくらという話は何となく纏まります。しかしそれでは10年後は達成できません。どうしても自分たちに責任がかかることになると及び腰になるのです。そこで3年後の最低必要となる数字を達成するために何をする必要があるか、という議論をして貰うとそれなりに考えを出してきます。厳しいなりに理は立っているわけです。

しかし全く思いが入っていません。気持ちが乗っていないのです。私は「理屈は良いと思います。でも本当にやるんですね」と問いかけました。すると「どうだろうか」という返事。ならば「気持ちが入るような考えを練って下さい」と差し戻すわけですが、これが6〜7回繰り返されます。何度やっても思いが入ってこないのです。責任者として「良し、理は立っているのだから、後はやるだけだ。やってやろうではないか」とはならないのです。そして何人かは役員に「良いといってみたり、ダメといってみたりで一貫しない」とまで吹聴される始末です。

役員ですらが思いの何たるか、気持ちの何たるかが分かっていないのですからどう仕様もありません。挙げ句の果て、「役員会で部課長はどうか」という社長の質問に役員ならば責任者として部課長の指導は当たり前という判断から私が「部課長は思いがない。気持ちがない。今一つ立場に対する認識が甘い」と箴言したら、その直後に殆どの役員が酒席で部課長に「あのコンサルタントがお前らの悪口をいっていたぞ」と票集めなのか立場の認識がないのか、陰口をいう始末。

それによって役員から勢いづけられた部課長はまさに「我意を得たり」とばかりに、自分たちを正当化し誰も私の言葉に耳を傾けなくなってしまいました。思いが違った方向で成立し、気持ちが別の所で力を持ってしまった瞬間でした。未だにその会社の当時の部課長は思いが何か、気持ちが何かが分からず、考えだけで物事を捉え、「あの計画は始めから無理があった」という考えに終始しているようです。

成長する会社や壁を超えた会社にあるような「無理でも何でも乗り越えよう」という思いやその成功体験がない限り、組織はイノベーションは出来ません。まずは、組織は知が必要であるという、すなわち考えさえ整えば成長するという歪みに気がつく必要があるという話です。

 

以前にも書きましたが、思いや気持ちに基づいた中身のないところに、幾らロジカル思考を与えても、それは暖簾に腕押しということです。時々前述のような大企業にいた人材はそれを錯覚することがあるようですが、大企業のように構造化した組織の中では人は駒ですから思いが逆作用することもあります。しかし今半沢直樹が流行るように、限界突破はまず気持ちが籠った思いが出発点です。

結局この会社ではその後、思いを持った人材を覇気のない上司が自己保身で潰してしまい(会社的には上司を守るのが筋なので役員は苦慮していましたが)、組織の若手の空気が前にも増して個人の思いに拍車する状態になってしまいました。上司は退職する際にそれを気にして手紙をくれましたが、誠に残念な話でした。

私的には思いを持った社長は好きでしたが、役員にはどうしても前向きになれずに、「ここで私が関わってもあの内部態勢では結果は出せないだろう」と次第に足が遠のいてしまいました(プロとしていけないことかも知れません)。思いや気持ちを開発することの難しさを示す事例として参考にしていただけますと幸いに存じます。

思いには特にリーダーの姿勢がモノをいいます。気持ちや行動は直接メンバーの心を直撃します。幾ら考えが立派でも思いがなく、気持ちのボルテージが低い人間が上にいる組織では計画は実践には繋がりません。

私は経験の中で強くそれを学び、それを重要視しています。

 

さて、皆さんは「ソモサン」