知と意の違いをじっくりと考えながらその影響を考察する

~論理力がすべてなのか~

論理的思考力の肝となるのが三段論法と呼ばれる流れにあるという事は周知のことかも知れません。ただその真理を押さえながらきちんと展開している人は非常に少ない様に感じています。まさに「言うは安く行うは難し」といったところです。三段論法とは「事実」「論拠」「主張」の流れです。物事を組み立てるにはまず事実を持って論拠を構成しなければならない。そしてそれに基づいて意見をするのが科学の原則である、というのが主旨です。

そしてこの三段論法において事実データの集積から蓋然的な合理を論拠として導き出すのが帰納的思考であり、一定の事実データを過去の一般的で普遍的な前提と照らし合わせて論拠として導き出すのが演繹的思考であるとして、この2つの論拠による因果関係の流れこそが論理思考という知力の源泉であり、この力を駆使出来ることこそが人が人たる所以である、というのが戦後の日本における社会的な実存のエビデンスになっているように思います。

 

事実現代の学校教育は、この三段論法を駆使する能力の有無や精度こそが何物にも変え難い意義として現場展開していますし、それによって社会での地位階層が決定づけられるという事実を見ても、この力を得るべく教化を図ることに国をあげて先進していることは間違いないところです。実際学校での評価も、その後の社会での評価もこの力に大きく偏って為されています。

そうして社会のインテンションの趨勢は、この力を如何に他者以上に身につけるかを目指して活動することが最重要であるとする潮流に向いています。そして多くの人は知のみあれば良いかの如くそこに邁進しています。それで人の良し悪しを判断する人も一杯います。確かに論理的に思考することは効率的にも能率的にも重要なことであることは確かです。

私もその必要性においては同意です。でも三段論法の技術を磨いたら本当に「人は人たる」のでしょうか。果たして人は知のみで成り立っているのでしょうか。そして知の根幹たる論理力は絶対無比なのでしょうか。今の学校教育が指導する様な単純な三段論法の技術を磨くだけで実際の社会問題は解決するのでしょうか。まず三段論法のエビデンスとなる事実について考えてみましょう。

 

事実とは現実に起こったこと、或いは既存のことです。中でも演繹思考はそこに加えて更に普遍的に証明された前提を被せますから、想像や可能性といった視能の筋に未知が含まれる事象は対象として入って来ません。しかし、現実の社会での問題解決は未知の情報や検証されていない情報を仮定した中で未来に向けて仮想的に論理を組み立てていくことが圧倒的です。加えて例え事実情報に基づいた論理で十分な事象であったとしても、元となる情報自体が限られたものとしてしか得られていなければ、その情報自体に偏りがあれば、論拠も非常に限られて偏ったものとなってしまいます。

そういった情報系の中で組み立てられた論拠から導かれる主張や結論は、現実の問題解決にとっては障害になる場合すらあります。いわゆる机上論という奴がその典型です。中身が充実していない論拠は論外です。三段論法にはそこへの言及がありません。論理的思考力とはあくまでプロセス、手段の理論に過ぎないということです。手段をいくら磨いても中身がなければ話は始まりません。手段だけでは実戦では役立たないということです。

そういった視点に立つと最近教養(リベラルアーツ)が非常に脆弱な人が増えています。情報が限定的だということです。そういう人は情報収集へのアンテナ(感受性)が磨かれておらず、情報経路が限定的でしかも精査する力がないために、それ故簡単に他人からの情報、特に権威を纏った情報や操作された偏った情報を安易に受け入れて、それを基点とした論理展開をする傾向がありますが、そういう人が自説に拘り社会秩序を乱すケースも増えて来ています。ところがそういう人ほど本人には全く罪意識がなく、自分は正義だと思っているのですから始末に負えません。

何故そうなるかというと、そもそも思考力とはどういう目的のために必要なのか、何に使うためのものなのかという中身、思想観がないから、使うべき手段が合目的的であるかの判断が出来ず、間違った方向であっても意思なく突っ走ることになるわけです。その場合思考力が長けていれば悲劇です。間違った目的地に高性能車で走るのと同じです。

 

昨今想像が貧困な人も増えて来ています。起点として多くの情報を持っていたとしても、その情報を単線的にしか組み立てられず、多様な発想が出来ず、多様なケースが想起出来ないために、その融通の効かなさによってこれまた問題解決を遠ざけてしまう場面を多々目にします。この場合は論拠の元になる情報系の脆弱さよりも論拠の組み立て方に複線、多様性が持てないところから発せられています。

意思というフィルターがなく物事を正解探し的な数学的論理でしか捉えられず、思考過程が単純なために多次元的な角度で見ることが出来ないのです。そういった人は直線的で収束的な処理型思考は俊敏で秀でているのですが、拡散的で開発的に多様な解を見出して、その中から正解ではなく最善解を取り上げていく様な思考は不得手です。

 

未来型で開発的なアプローチには創造性が必須ですし、それを推し進めるには意思決定していくためのマインドやインテンションが求められます。ところが論理思考という手段を目的化して成長して来た人には、裏付けの脆弱な論拠を支える意志や気持ちがありませんから自説の展開という新しい合理を想起する拠り所がなく、また判断をする拠り所もないので創造的で想像的な思考展開ができないのです。

一般に意思といわれる世界はメンタルとマインドとインテンションの3つで構成されています。それぞれが有機的に絡み合って自己概念を形成しています。この3つは順に情的領域から知的領域に影響していく心の要素です。そして成長に合わせて発達し人間らしさを形成していきます。メンタルは生理的ですから形成は誰しもが自然に持っている領域です。

マインド以降は後発的に開発されていく領域です。マインド領域の形成は受動的なもので、しかもその殆どが幼少期の原体験の擦り込みに基づきますから、修正するのは大変ですが得るのはそう難しくはありません。一方、最も人間としての知性に影響するインテンション領域を得るには力が掛かります。インテンションとは思考や論理の起点や流れを左右する「思い」のことです。「自分は自分である」という自己認知としての思いをアイデンティティと称します。アイデンティティはインテンションの中でも中核を担う思いです。これがないと人は自己判断ができなかったり、他者の思いに安易に流されたりすることになります。

アイデンティティは独自の「思想」と実感的な「確信」とが合わさった「自信」で組み立てられます。思想とは哲学です。確信は体験によって醸成される実感によって得られる暗黙知です。体験とは五感で感じる体感の蓄積です。確信を育むには感受性が必要不可欠になって来ます。

 

ともあれインテンションを得るには前提となる思想的な知の習得だけではなく、それと共に感性を働かせるために腕を伸ばして未知を触ろうとする感情のエネルギーが必要になります。従って感受性の乏しい人はいくら博学で思考力は長けていても、インテンションは非常に脆弱なものや偏ったものになりがちです。ですからなかなか実践としての問題解決に寄与できないことになります。いつまでも自信がつきません。

それ故そういった人は悪循環に陥ります。自信がないので防衛的になり体験を避けたがり感性が磨かれていない分机上論が強く、反面レジリエンスが弱く、自説に拘泥して閉鎖的です。そういった自分を否定するからかネガティブ的です。最も顕著なのは広い視点から社会や自分を見る力が育っていないということです。

 

そしてこういう人は自信が鍛えられていないので、いつまでも意志薄弱さがありますから、一旦思想的に意思の結界を突破されると非常に脆いわけです。このような人は思考力は磨いて来ていますから、裏付けある情報を駆使しての論理展開には耐性を発揮しますが、体系だった未知の思想をぶつけられ、それが自分の構築する論理を超える情報系であると混乱して気を失い、いきなり従順になり、それが進むと盲信が始まります。

特にそれが自ら体感として確信が持てていない情報系による体系的な思想であればあるほどその度が強まります。面白いのは思想がなかった人ほど一旦それを受け入れると防衛機制としての合理化が始まり、自分のバックボーンであった論理性の方を正当化すべく、今度は与えられた思想をさらに高めるべく、あたかも持論の如く尖兵化していくわけです。そうです。自分に自信がない人ほど迫りくる信念体系に贖えずそれを丸呑みすることで自分を安定化させようとし始めるのです。切なくなってくる様な話です。

頭は良いが思想のない人、皆さんの周りにはそういった人はいませんか。しかしながら今の日本はこういった人材を大量生産する様な教育体系、社会行動を推進しているのが実際のところです。知能強化さえすれば「人は人たり得る」という思想観。皆さんはどう思われますか。

~ある事例~

さてそこでとある宗教の話です。実際にあった話ですが、インテンションがない自分の中にアイデンティティがないとどういった歩みになってしまうかの一例です。アイデンティティとは自分としての「思い」「考え」です。人間はどんなに自分は普通と思っても「思い」がぶれることがあります。余程しっかりとした意思を持っていないとあっという間に異なった意思に飲み込まれて行くことに繋がります。

どの宗教でも特有の「教え」というものがあります。そう「思想」のことです。その宗教では「体に悪いものをとってはいけない」という教えがありました。そして薬も悪いものとされており、病気になっても、熱が出ても、薬を飲んではいけないということになっていました。ある方がその宗教に入信していたのですが、その理由は伴侶の病気でした。伴侶はずっと入退院を繰り返していたのですが、その看病ストレスもあって日々すごくイライラしていたこともあり、精神的な安らぎを求めていたことも含めてその宗教の「教え」が健康にいいというのをどこかで耳にして入信したわけです。

しかし伴侶の病状は徐々に悪化していったそうです。たまに入院をしても教えにより投薬を拒否しているのですから当たり前の話です。しかしその宗教の論理では「よくならないのは医療がよくない」という話になってしまうのです。この方は病気を治すために2人でその宗教の道場に1カ月ほど滞在したこともあったそうですが、効果はありませんでした。因みにこのときの奉納額は、約100万円だったそうです。この方と一緒に入信した兄弟は、それほど教えに縛られず、「平気で煙草を吸ったり」していたそうですが、この方は幼い時期から先に入信していた身内の教えの影響を受けたせいか、あるいはもともとの性格か、教えは教えで「ダメと言われたものは、もう絶対にダメ、と思っていた」そうです。これが意思や思想の力です。

 

その為この方はさまざまな「教え」に20年もの間強く縛られて生きてきたそうです。その影響は宗教を離れてからも続き、なかなか病院に行けなかったのだそうです。「教えを破れば悪いことが起きる」と、つい考えてしまうからです。この宗教の教えには良くある教えもあったそうです。それはお金についての考え方、教えです。この方はお金を持つことにも長い間罪悪感があったのだそうです。原因は「ある分だけ神様にご奉納しないといけない」と思い込まされてきたからです。

お金というのは神様から貸し出されているものだから、返さないといけないと思っていたのだそうです。とにかくお金に関しては、大した額ではなくても「とにかくご奉納しないといけないかな」と思ってしまうのだそうです。ずいぶんと宗教側にとって都合のいい「教え」に見えます。信者の多くがこう思っていれば、お金を集めることは、とてもスムーズだったでしょう。それが先の100万円の真相です。どうであれこの宗教にはこの宗教なりの思想があり、それに基づいた、それを強化する論理が存在するわけです。自分としての意思や思想がなければそう簡単に論破は難しいわけです。

 

こうして教えに従わなければ悪いことが起きるし、逆に悪いことが起きたときは、その人の行いが悪かったせいにされる、という考え方が365日、四六時中、つねに“脅迫されっぱなし”のような状況で身体中を駆け巡ることになり、やがて「それが自分本来の思想概念なのだ」として疑問すら湧かなくなっていったそうです。更にこの宗教では「魂が曇る」からという理由で、「怒り」をもつことも禁じられていたそうです。もしそういう感情をもってしまったときは、神様にお詫びをしなければならなかったそうです。

一見合理にも写りますがこれは心理的には非常につらいところです。いくら「怒りをもつまい」としてもそれは理屈としての意思です。でもそうすればする程その感情的な側面の行き場がなくなることになります。結局この方は「よくないことが起きると、なんでも『自分のせいだ』と思うことで自分を治めるようにしてしまったそうです。怒る気持ちが出たら『こんな気持ちになってごめんなさい』って神様に謝るんだそうです。

そうやって自分で自分の気持ちを打ち消し、打ち消し、やっていたわけで、それによってひたすら自己評価が低くなるような思考の癖がついてしまったそうです。これこそが前回紹介した、「歪んだインテンションがマインドを侵食し、マインドがメンタルを侵食し、そしてそういったメンタルによってマインドもインテンションも更におかしくなっていくという負の循環の典型です。

 

人はある程度インテンションが歪められたり圧せられたりしても、マインドがそれを合理化しようと作用してメンタルのバランスを取ろうと作用します。しかしその圧力がマインドを侵食し始めると相克の中でメンタルが疲弊磨耗し始めます。これがウツや境界性精神障害の原因の一つです。

そしてそれでもマインドを強くしてメンタルが疲弊しながらも更にそれを我慢してアンバランスを自助で押さえ込もうとすると、体調や体質に影響し始めます。心身症とはそういった病です。近年ではホルモンが異常分泌となり、そういった身体的な作用が癌の原因の一つになっているのではないかという見解も出てきています。それ位人の心身は一体であると同時に、インテンションはマインドやメンタルに強い影響を及ぼす存在なのです。

 

さて、今回の事例の宗教にはもう一つのポイントがあります。家の中に常に信者が入り込んでいたんだそうです。田舎では檀家筋もそれに近い行動をするかもしれません。いずれにしても、それはもうとても落ち着かなかったそうです。そうしてその人たちがあらゆることに対して悪気なく「教え」を優先に行動を強いてきたそうです。

彼らにとっては、余暇はもちろん、仕事だって「教え」に比べればどうでもいいことだったそうです。彼らは信者ですから自分の行為に悪意はありません。ですからその人たちは強いるというよりもそれこそが正義の如くその行いを信じ切って善意でしかも率先垂範で求めてくるのだそうです。まさに集団圧力です。相互に自分たちの考えを共有し増幅させ、集団思考として迫ってきます。自分たちの論理が絶対であり、集団的なアイデンティティとなります。しかもそこから醸し出される感情の同調的熱エネルギーがもたらす侵食のパワーは絶大です。

一旦強力なインテンションで結束したコミュニティに入り込むと、自分ではどんなにおかしいと思い始めても集団圧力によって容易には抜け出せなくなります。そうなるとストレスは凄い状態になります。もう病気になるか自棄で生きるかになります。その様な中、この話題の方は最終的にはその世界から何とか脱出できたそうです。

その理由は、「神様、神様といっている人たちなのに、“略奪婚”があったり、家庭が幸せそうじゃない人も結構いたりしておかしいんじゃないかって気づき始めたこと」がきっかけで、だんだん違和感が出てきたんだそうです。また身内が宗教幹部のいうことばかり聞くのにも傷ついていたのだそうです。

彼女が関係者からセクハラ被害を受けたときも、身内は彼女に断りなく宗教幹部に相談してしまい、ますます身内を信頼できなくなってしまったのだそうです。いつでも宗教のことしか頭になく、身内である自分のことを見てくれないし、自分の気持ちにも無関心という状態をずっとつらく感じていたのだそうです。

そしてあるとき出会った心理学のカウンセラーに「宗教に毎月お金を払っているのがおかしい気がしてきた」と話したら、「本当に神様がいるんだったら、お金を払わなくたってちゃんと(信者と)つながってくれるはずだ」といってくれたのが心を打ち、『ああ確かに』と思ってそれが自分の中で1つの区切りになったのだそうです。この助言した人は別の意味で薬を使わずに治療する専門家で、彼女はこの人の指導でトラウマに悩まされず、病気が治癒したことがきっかけで、自分の悩みを相談する信頼感を持った様です。

一見宗教と同じ思想観のアプローチで安心をさせながら、問題解決を生み出したことで信頼感を作り上げたわけです。そしてそれを梃子にその人が足りない思想の補強をしてくれたのです。その助言が彼女のメタ認知を底上げして、その人に新しい思想醸成の息吹を形成してくれたのです。この方は元々感受性が豊かで常識の観点から論理に疑問を持つ素養があったのも幸いしています。しかしその自分の論理を後押ししてくれたのは頼れる専門家の思想と論理だったことは確かです。

その人への信頼が、宗教が展開していた論理を打破する原動力になったわけです。意思の醸成は孤軍奮闘では何ともならないこともあります。自分の轍に陥っているわけですから、抜け出すのは容易ではありません。また道具立てや情報もないままに一から想像しろというのも酷な話です。この方はトラウマになる位にある種の思想に心を侵食されて来たわけですが、心の奥底のどこかにそれを「おかしい」とか「嫌だな」と感じる感性を持っていたことが力となりました。両親による原体験の作用が働いたのかもしれません。また出会いが幸運を運んでくれました。でもこういう人ってかなりいるのではないでしょうか。

 

この様にインテンション、意思という存在はまるでフィクサーの様に思考の方向づけに影響して来ます。ですから論理という処理能力はいくら高くても、論理を方向付ける意思や思想のない方は、結局は起点の方向づけを過去からの定型や他からの指示に依拠するしかないということになり、それが前例主義や縦割りの原因にもなっているし、創造性の欠如や挑戦心の欠如を生み出している原因にもなっているといって過言ではないと思う次第です。

我がビジネスでもこの思想や信条は論理の展開に大きな影響を及ぼします。お客さんと共に問題解決をするのか、お客さんを利害対象としてしか見ないのかでアプローチは大きく変わります。お客さんの心情や立場、その会社の状況を考えて、一緒に問題解決をしようと考える姿勢でのお客さんとのやり取りと、ビジネスライクや自分本位での押し付け的な姿勢でのお客さんとのやり取りでは全く異なる論理展開になります。

無機質な付き合いか有機的な付き合いか、意思には情的な感性が入って来ます。対人への感受性、状況への感受性の有無が大きく作用します。問題解決は問題への感受性だけでは実践では成果は導き出せない。これが私の体験的な見解です。成果という観点から見たとき、外資系のコンサルタント会社や官僚的になってしまった会社の急所はここにあるのではないかと、改めて法人という言葉を噛みしめる今日この頃です。今回は4連休もあったので長文で掲載することにしました。

 

さて、皆さんは「ソモサン」