• 集団思考や集団圧力をアンコンシャス・バイアスという視点から改めて考える

集団思考や集団圧力をアンコンシャス・バイアスという視点から改めて考える

ソモサンも108回目を迎え、ちょうど煩悩の数と同じになりました。1回1回鐘を打ち鳴らし続けて来ましたが、節目としての今回で、少しでも読者の皆様の慧眼のお役に立っていれば最高と考えます。また108は水滸伝では英傑の数でもあります。英傑たちが山に籠って当時の皇帝徽宗に善政を訴えた物語の如く、一話一話が各英傑のような力強さを持ってメッセージを届けられていたのであれば幸いです。

今回はアンコンシャス・バイアスと集団圧力の闇なる関係がもたらす非生産性について、自説をコメントしたいと考えています。

~斎一性の原理について~

集団圧力とは専門的には「斎一性の原理」と云って、「集団の内部において誰がという個ではなく、全体の場の空気が異論や反論などの存在を許容せずにある特定の方向に突き進んでいく事象」を云います。これはグループシンク(集団思考)のもたらす弊害の一つとして1952年に米国の心理学者A.ジャニス博士によって明示されました。

集団思考は集団浅慮と称されることもありますが、これが起きると集団内が閉ざされた意識状態になり、集団による自己弁護の相乗的な苛烈化や集団外部に対する集団的な偏見が生じ始めます。またそれに伴って均一性への圧力という現象が起き始めます。これは自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲して意見を黙してしまう行為や、自分の意思決定が多数派の見解と一致するよう留意して捻じ曲げてしまう全会一致の幻想といった行動を云います。

その顕著な例が自薦の用心棒の出現です。これは集団心理や社会的影響の結果得られた規範を擁護しようとする人で、異論や反対、水を差す行為を封殺しようと発言者に対してネガティブ・キャンペーン等を行い、それにより異論の影響力を弱めようとします。まさに自粛警察やマスク警察、正義中毒者の行動そのものです。

 

米国ではこの集団圧力によって起きた事例として「スペースシャトルのチャレンジャー号爆発事故」というのがあります。チャレンジャー号は上昇中にエンジンと燃料タンクとを繋ぐOリングと呼ばれるジョイントが氷点下に耐え切れずにガス漏れして、そこに引火したことから爆発をしたという大事故で、搭乗者全員が死亡した悲惨なものでした。ここで問題になったのはOリングが破損したという理科的な問題ではなく、現場の誰しもがこの事故を予期しながらも全員に「斎一性の原則」が働き、皆が黙してミスミス事故を引き起こしたということでした。

NASAではこういった体質の改善がOリングの改良よりも時間が掛かり、再開が大幅に遅れたという経験をしています。残念ながらこれが改善したと思われたにも拘らず、「災害は忘れたころに」ではありませんが、再びコロンビア号で同様の事故を起こしたという出来事は、この問題改善の難しさを物語っています。

また斎一性の原理が発せられる過程を明確にした研究として経営学者ジェリー・B・ハーヴェイによる「アベリーン・パラドックス」があります。「アベリーン・パラドックス」は集団内のコミュニケーションが機能しない状況下では、個々人が勝手に「自分の思いは集団の思いとは異なっているが集団を大事にして和を乱さない方が良い」と思い込み、集団的な決定に対して誰も異を唱えないため、結果として集団は誤った結論を導きだしてしまうことがあるという集団思考の好例です。

アビリーンのパラドックスは「事なかれ主義」の状態を明確にしています。この考えの重要なポイントは、集団の抱える問題は「不和」から生じるのと同様な位に「同意」からも生まれてくるということです。これは何でも集団で合議すれば良いというわけではないということを指し示しています。民主主義では「すぐに話し合う」ということを提唱しますし、コンセンサスが他の意思決定方法より精度が高いということを主張しますが、きちんと心理学を身に着ければ、建前論の危険性が浮き彫りになってきます。

日本人は世界的にも稀有な集団主義国家です。その為に上記のような集団思考の弊害を始終露呈させる国民性があります。しかもそれが歴史の中で染み付いてアンコンシャスに働きます。前回も紹介しましたが、戦後の欧米的な教育による思想観はあくまでも個人主義をベースにした世界による建前論です。それを、欧米崇拝的に諸手を挙げて持ち込むのは非常に危険なことなのです。

~形だけのジョブ型管理のリスク~

最近こういった集団主義の深層も疎かにまたまたブームの如くマネジメント的に新たな主張が始まってきています。「ジョブ型主義」です。ジョブ型とは従来やってきた日本の職能主義から欧米的な職務主義へ転換しようという取り組みです。職能主義が人物基準であるのに対して職能は仕事基準と云えます。

日本は何度か職務主義に転換しようとしたことがあります。最も大きなアプローチは今から20年前の成果主義です。グローバリゼーションの台頭の中で労働分配率を欧米並みにして、護送船団時代の高すぎる報酬水準を是正しようという中で取り組まれました。その次はタレント・マネジメントが着目された時です。人材の定義を明確にして十人十色的な能力を各自十分に発揮して貰うべく取り組まれました。何れにしても職務主義は仕事内容に対して明確に定義します。成果や求められる能力などが明確に出来ます。

それによって活動の見える化が促進されるわけです。こういった建前的なメリットが、今回のコロナ禍によって促進されたリモートワークにとって必要なのではないかと着目され始めました。在宅による日常のプロセスが見えなくなる中で、人を評価するにおいて活動を見える化するには職務主義は非常に扱いやすいという声が上がり始めたのです。

 

では果たしてジョブ型、つまり職務主義は本当に役立つのでしょうか。実際これまで上手くいったのでしょうか。ここに日本人の集団主義によるアンコンシャス・バイアスが大きく陰を落としているのです。実際20年前に成果主義を導入した企業において共通して可笑しな動きが起き始めました。まず現場指導や他者援助、チーム活動という組織を作り出す基底が崩れ始めました。

評価が個人や成果であるということ、見える活動だけが評価されるということは、自分以外の誰かの成果が評価されるということに手を貸すということは自分の評価には繋がりません。また他者と協力して集団的な生産性を生み出すということも評価は曖昧になります。そういった組織のシナジー(相乗)に関する仕事を誰もしなくなっていきました。個人主義の教育が行き届いた欧米では協働という活動の職務的な見方が出来ますが、集団的な日本人は職務になった途端に間合いも咬み合わせも分からくなり、いきなり利己主義的な行動に偏重していったのです。

中でも専門職的な採用ではない若手は仕事の内容も分からない中で先輩たちからいきなり放ったらかされる状態に追い込まれたのです。時代は国際的な競争が高まり、只でさえ殺伐とした雰囲気が漂い始めた職場環境です。あっという間に会社へのロイヤリティーも社員の繋がりも吹き飛んで行ってしまいました。この時の遺恨を抱えている企業は今も沢山あります。

 

また職務主義の時に特に重視されたのが目標管理です。これまでの人は誰しも能力的には同じ可能性があり、差がつくのは努力であるという「頑張ります」的なことでは十分に期待成果は図れないということから、一人一人の仕事を明確にする中で必要な能力を特定し、能力をきちんと発揮出来たかどうかを見定めるべく導入されました。これも確かに名目はその通りです。

しかし就職ではなく就社的であった日本のビジネス風土においては、いきなり個人の目標やキャリア的な能力と云ってもこれまでのローテーション自体がそうなっていませんし、考えたこともありません。組織自体がそういった扱いをして来なかったのです。欧米とは立脚点が全く違うわけです。

そういった会社の体勢は今回のリモートで部分的に変化の兆しが出て来ましたが、全体としては殆ど何も変わっていません。最も顕著なのが採用です。日本では相変わらず大卒未経験者の定期的な大量採用です。しかも能力的な選抜でもありません。学歴社会で学部の専門性よりも大学名ですし、入った後の配属も専門選定は殆ど考慮されません。日本のビジネス環境は仕事能力よりも人間関係です。中核はコネです。

これは学校段階から始まり、幼稚園から始まるような壮大な集団維持の関係社会によって支えられています。そしてそれを前提とした集団行動こそが基盤で、それこそそもそも何故日本が職能主義になったのかの真因と云えます。日本はそれ位深い集団主義行動が染み込んだ行動様式ですから、集団行動に関してはその殆どがアンコンシャスになっています。

誰しもが「他所がやっている」「他所はやっているか」ですし、最もアンコンシャスなのは「内だけがやっても」です。こういったバイアスこそが、最も深淵なアンコンシャスなバイアスなわけです。ですからそうそうイノベーションは起きませんし、集団圧力は無くなりません。日本は集団思考が思考形態の前提として働く、海外から見ると特殊なバイアス社会です。都会のリベラル派の意見に乗せられると大変です。未だに地方に行くと「やれ結婚しろ」「やれ子供を作れ」といった家思想が横行し、ダイバシティ―など宇宙の果ての如くです。

日本社会をグローバル的にするには、本当に真摯に発想や計画よりも浸透や実践を睨んだ取り組みを行うしかありません。特にビジネス社会にいる頭でっかちな人ほど現場を知るところから始める必要があると思います。今の人は耳学問が過ぎて分かったような気になっている人が本当に多いと危惧する昨今です。

さて、皆さんは「ソモサン」