本当の意味で頭が良いということはどういうことかを考える

前回は防衛機制からくる攻撃と云った幼児性の強い心理が生み出す誹謗中傷や歪んだ正義心についてコメントしましたが、これは知情意という心の仕組みで云うところの意と情という側面からの提言でした。

何故そこに視点を当てたかと云うのは、これまで何度も主張してきた知性偏重の日本社会のモノの見方や考え方では解決できない問題が多々あるにも関わらず、それこそ意もなく大勢に問題意識も持たずに物事を論ずる浅はかさを憂慮する思いがありました。しかしだからと云って知の側面を軽視して良いかと云ったらそういうことでもありません。

 

明らかに知性の欠如がもたらす原因も重要だからです。例えば大勢に迎合する意の在り方は、やはり知性による思考力の弱さが多大に影響しています。

知性が弱い、よく云う「頭が悪い」というのは厄介です。頭が悪い人の顕著なポイントは、①深く考えない、➁広く考えない、③遠く考えない、という三点です。またその無自覚が意に影響して二次的に劣等感を生み出し、①前向きに考えない、➁権威に依存する、③大勢に盲従するといった行為も生み出します。

特に面倒なのは、前回も取り上げた自尊感情という情からの側面が生み出す、意との相克から発せられる中途半端なプライドや様々なバイアスの作用です。心底「自分は頭が悪い」と自認する人は結構自分に自然体で拘りもなく楽観ですが、学歴社会のような偏った知の評価などの中で、一面自分は賢いと錯覚したり、賢くないといけないといった制限志向に罹っている人は自分に素直になれずに、それ故に苦しむ結果に陥っています。

本当はそれこそが「頭が悪い」所作なのですが、知が他の意や情と相互作用をしているが故の面映ゆさです。

 

ともあれ頭が悪いと、人の話を鵜呑みする、思い込みが強い、早とちりをする、先が読めない、深く考えられない、話が抽象的でも納得する、逆に人の話が汲み取れない、話の辻褄が見切れない、全体の関連が紐付けられないし紐解けない、話が飛ぶ、話を纏められないし話が長い、ものごとを極端から極端に発想し中庸的発想が出来ない、表現言語数が少なくて思いをきちんと伝えきれない、などと云った弊害がもたらされます。

またこれが意と絡み合うことから二次的に、騙されやすい、自分を見つめられないので軌道修正が出来ない、感情の統制が取れず感情に押し流される、思想や自分の考えが持てず扇動される、そして多くの場合、ネガティブが基調になって劣等感や防衛機制が先に立ち、誹謗中傷や虐めに走ったり、アンコンシャス・バイアスを横行させたりするといった非生産的な状態に陥ってしまい、自他ともに不幸にしてしまいます。

因みに時々勘違いする人がいるのですが、「頭が良い」とはシリアルキラーやサイコパスの様に感情がないとか感情が分からないのとは違います。ちゃんと感情があってそれを統制できるということです。パワーエリートにはこの辺が少しおかしい人がいます。

 

頭が悪いというのは一般に「愚鈍」と称します。知的障害のような先天的な領域には、今は使いませんが「魯鈍」と表したような段階表現がかつてはありました。愚鈍はこういった段階表現とは全く異なりますが、情的な発達障害同様に障害は双方ともに強弱の段階があります。

しかし後天的な障害、情的領域だと、愛着障害などはあくまでも教育的な瑕疵が生み出した問題です。現在新潮新書で宮口幸次治さんという方が「ケーキの切れない非行少年たち」という書籍でこういった「境界知能」を紹介していますが、皆さんも是非一読してみてください。

 

~活性化した組織や社会を生み出すには

さてこのような知情意が複雑に相互関連した心の在り様ですが、より多くの人の心がストレスフリーになり、かつ人と人とのコミュニケーションが出来る限り前向きで生産的なものになる活性した組織や社会を生み出すにはどうしたら良いのでしょうか。

アプローチの仕方は様々ですが、重要なのはバイアスを外して論理的に核を見極めること、そして順番、つまり核となる問題解決を後回しにしないことです。ものごとが縺れる紐のようだとしても、必ず紐の端はあります。問題解決の軸は何をおいてもきちんと的である端を掴んで科学的に絡みを解いていくことです。

ここでの焦点は知を知として教育する今の学校教育の姿勢ではなく、意と関連づけて道徳的に教育することの重要性と必然性です。基礎力の知として縦と横と論理(四則演算)は大切です。しかし真理として押さえるべきは、知とはあくまでも人のためにあり、人という要素、すなわち意を外した知の開発は意味を為さないという根本であり、今第一義にやるべきはそこへの回帰ということです。学歴偏重主義の国家教育は今大変な歪みを生み出して来ているようです。

 

今回の意のない人による誹謗中傷殺人は好例です。

テレビやメディアでは、これまでも出演者へのデマ情報の流布やSNSでの執拗なアンチコメントなどが問題視されてきました。そして女性プロレスラーの一件をきっかけに現在多くの人たちが誹謗中傷の書き込みに対する非難の声を上げ始めていますが、ある私立大学の情報学系研究者であるA氏(30代)のコメントは現代においてこういった問題が起きる原因の持つ深刻さを示唆しています。

彼がコメントしたのは今回の件を受けての学生からの唖然とするような反応に関してです。この痛ましい出来事を受けてもなお「何が問題なのか分からない」という若者たちが多くいるという実態への危惧です。

彼が学生に今回の件について尋ねたところ、思わぬ反応があったそうです。例えば『番組のファンだった』という女子学生の一人は、「彼女が亡くなったのは彼女の個人的な問題なのに、何故番組が叩かれるのか。番組を作っている人と、番組のファンが被害者である」と言ってきたと云うのです。

そして他の学生も「ネットの言葉なんか無視するべき、スルースキルがあれば起こらなかったと思う」とか、「アンチも養分だと思わないと。正直続きが気になっていたし、新しく加入したメンバーがかわいそう」などとコメントをしてきたと云った具合で、Aさん的にはかなり肩透かしを食らった気持ちだったということです。

彼的には「ここまで言葉の持つ力は軽いものなのか」と思ったそうです。重要なのはこれがある程度理非分別が付いてきているはずの大学生の発言だと云うことです。未成熟な中高生の発言ではないと云うことです。

 

確かに私もネットで「番組を再開して欲しい」とか「続けて欲しい」といったコメントが結構あり、一部から「単に自分が続きを見たいだけであろう」と非難されている投稿を見た時、その真意が測りかねる思いをしていました。

A氏は、20代前後の視聴者の声を聞き、自分自身の考えが甘かったと猛省したそうです。日本のリテラシー教育にかかわる研究者、教育者として、ここまで根深い問題があるとは、今回の件まで理解できていなかった、というのがその理由です。

さらにA氏は学生へ向けて「芸能人や著名人のSNSにコメントをする(リプライを送る)ことはどう感じるか。リプライしたことはあるか」と尋ねたそうです。すると多くの学生から「友だち感覚でリプを送る」とか「つまらない芸人には、リプで全然面白くないと送ったことがある」、「ふざけてDMを送る友達も多い」などという反応があったそうです。そこには全く罪意識がなく、寧ろ同じツールを使う者同士、フラットな対人関係にあると錯覚しているのではないか、と感じているそうです。

ここには2重の問題が潜んでいます。一つは人を傷つけたり貶めたりすることへの無感覚さ、利他精神の欠如です。そこにはやはり利己主義と個人主義の履き違えがあるように思えます。もう一つは自分の立ち位置と相手の立ち位置に対するステージ感覚の無さです。最近の握手できるアイドルなどもそうでしょうが、ネットワークの持つボーダレス的な日常の存在が、何処か自分もセレブやグローバル人材と同じである、という立場への錯覚を生み出している様です。

 

要は深く考えないということです。また自分の立場を履き違えるのは社会的な道徳観の欠如です。彼らには武士道も、西欧の「ノーブレス・オブリージェ」の教育もなく、従ってそういう発想も浮かんでは来ないのでしょう。長幼の序や礼儀と云った社会を維持する意の教育を怠った結果がこれです。それで良く組織開発とか活性化などと云ったものです。

今回テレビに関しても共同正犯として過剰な演出や台本の有無などが話題にされていますが、「議論をそこに矮小化しないで欲しい」とやはり私立大学で社会学を教えるB氏(40代)は語っています。

彼は「視聴者のリテラシー不足を非難する前に、そうした激情型で現実と空想の世界を区別できない(理非の利かない)様な視聴者を煽り立て、そのネガティブなエネルギーでコンテンツの価値を増幅させようという制作意図自体に限界が来ていたのも間違いのないところで、経済学でいう『アテンション・エコノミー』(※注目や関心の高さが経済的利潤を生むという概念)が悪い形で発露した事例ではないだろうか。

番組構成の段階で人がある種のステレオタイプのもとに対象を見たいように見る側面を利用して、例えば番組制作サイドも視聴者も個人ではなく、女子プロレスラー、即ちハッキリと意志表示する強い女といった要素やカテゴリーで彼女を切り取ってそれを増幅させ、か弱く守ってあげたい受動的な女性像とは真逆に演出した配慮の無さ、無神経さ、無関心さ、無責任さが生み出した悲劇である」というように分析しています。

その上で「一部の人たちの間には、こういったカテゴリーの女性ならば非難して良いんだ、という認識があり、そういう人たちは誹謗中傷する者にとってはリアルかバーチャルかはどちらでも良く、ただ叩きやすい要素、盛り上がれる要素があれば良いと捉える。そしてそこにはジェンダー的な問題も潜んでいるということを、もっと私たちは自覚しないといけません」と評しています。

これはまさにアンコンシャス・バイアスの急所を突くコメントです。

それにしてもマスコミはこういった歪んだ人材、無教養で道徳観や利他の精神と云った人間にとって社会生活上の根幹である意を持たない人材の存在を認識していなかったのでしょうか。

分かりながらやっていたとすれば、最早マスコミは不要な存在と云えます。しかし、学校秀才が集まる今のマスコミにおいてこういった問題に目が向いていないとすれば、A先生やB先生が云っていることへの関心自体がないということであり、今やマスコミのスタッフも事例に出る大学生の知的レベルと云うことになります。まさに意と繋がった知の開発不足がここまで社会に悪影響を与えているのか、といったところです。

そして多くの教養や頭が伴わない人たちは、ご多分に漏れずマスコミに先導されて額面通りの解釈で反応行動をします。NHKでタレントの岡村さんの降板投書に考えもなく、感情論で、或いは面白がって投票する10000人にも及ぶ悲しい人たちの如くです。

果たしてこれからの日本や企業はどうなるのでしょうか。パワーエリートさんたち、もっと重要な知恵を身につけてください。本当に祈念します。

 

さて、皆さんは「ソモサン」