誹謗中傷殺人という事件から心へのアプローチを考える

やっとこさ緊急事態宣言も解除される運びとなり、各企業ともに動態的な活動ベースになることでしょう。と云うことでソモサンもこれからはやや軽めの内容に移行しようと思います。

1999年ですからもう20年以上前になりますが、私の住んでいる街で痛ましい事件が起きました。それを機に街の名前が全国区になったのですから市民的には少々複雑な思いがする事件でもありました。その名も「桶川ストーカー殺人事件」。犯罪者は被害者に執拗に付き纏い、嫌がらせをし、最後は刺殺してしまうのですが、この事件の闇は何度警察に相談しても親身になって対応してもらえなかったと云う、いわば官憲による見殺しがなされたと云うことでした。

この時はマスコミの一記者が立ち上がって、問題を大きく提議し、これによって漸く国政の重い腰が上がり「ストーカー規制法」が成立しました。それでも未だストーカー事件は頻出しているのが現状です。人の闇とは根深いものです。それにしても、誰かが死にでもしない限り動かない行政の問題意識の低さにはまいど閉口です。

~ネットバイオレンスはなぜ起きるのか

そういった事件がまたまた起きてしまいました。「誹謗中傷殺人」です。ネット社会では指先一本で人を殺せると云うことで既に「指殺人」と云う蔑称まで付いている大問題です。これによって一人の若き女性プロレスラーが、無記名者の責任なき言葉の集団暴力によって自殺に追い込まれてしまったのです。今回はマスコミも共同正犯の片棒を担いでいます。

こういった言葉による集団暴行はネット社会が始まった時から問題視されていました。2チャンネル問題から始まり、最近では自粛警察などもその一つといえます。こういった問題は社会活動の大きな歪みとして方々から長らく指摘されていたにも関わらず、警察は愚か、取り締まりも規制も為されず、積極的な施策は打たれて来ませんでした。一体日本はどうしてこの様に誰かを人柱にしないと物事に取り掛かろうとしないのでしょうか。

まさに集団主義の弊害がここに集約されていると思います。これを機にネットの投稿が一定の規制を受ける様になることを期待するところです。責任のない自由はありません。日本人は言葉足らずの個人主義教育によって利己主義と個人主義の区別もできない歪んだ自由を学習していますから、再教育もさることながらここまで歪みが酷くなっている以上、一定の規制は必須と考える次第です。

さてこういった誹謗中傷はどうして起きるのでしょうか。

まずは対面をしていないことから来る痛みといった五感的な感覚の欠落があります。特に若者になるに従ってこの五感的な学習自体が欠如してきています。パソコンやゲーム機に感情や感覚はありません。心の痛みは身体的な痛みの様に直接的ではなくイメージ力が大きく作用します。

その為例えば人が死への痛みを共感として感じるのは対面経験のある近親者の場合だけであって、心理学の分野では、自分自身や対面経験のない人にはイメージが出来ないために共感的にはなり切れないと云うのが分かっています。

そこに加えて匿名による責任意識の不在が拍車を掛けます。責任意識自体の強弱もありますが、ある程度責任意識を持っている人でも、仕返しを受けないと云う認識が利己主義に暴走を加えるわけです。

~ネットバイオレンスが起きる根本要因

しかし最も大きな根本要因は2つです。

その一つはネガティブ思考です。物事をネガティブにしかみられない悲しい性を持った人が非常に増えています。所謂「悲観論者」です。悲観論者は、特に人に対してネガティブです。その本質は防衛機制です。

人は、生来は楽観的ですが、幼児教育といった原体験で歪みを持つと楽観であるはずの自己を悲観的に認知する様に抑圧してしまいます。しかしそういった悲観的な自分を受容すると精神的に障害を持ってしまうので(その手前がウツです)、自己を正当化しようと生理的に反応します。それが防衛機制です。

この原体験によって悲観論者になってしまうことを「愛着障害」と称します。核家族や共働き、地縁の欠如、親の競争意識の転嫁などで対話不足や愛情不足、日々のネガティブアプローチなどが愛着障害を生み出します。現在では愛着障害者が子供を作り、子供を更に深い愛着障害者として育て上げると云うマイナスの循環が生まれ始めています。こういった人達が人との交わりをうまく出来ず、その上引きこもりや閉じこもりといった生活習慣を基調にした時、どの様なマインド形成がなされるかは推して知るべしです。

知性は育っても感性が未熟な人間の意性とは如何な状態になるか。最近の高学歴ではあるが、人と敵対したり、相手を罵ることしかできない心ない元経営者などはその典型のように映ります。こういった人は感情のコントロールが出来ません。歪んでいる上に未熟さが加わって来ますから厄介です。

 

この未熟さは大きな着眼点になります。防衛機制には幾つかの表出パターンがありますが、最も未熟な発露が「攻撃」と云う防衛機制であると云うことも心理学で紹介されています。ここに誹謗中傷行動の核心の一つがあります。彼らは誰かを誹謗中傷することで、自分の人生の正当化を図るのですが、日々の不安定さの中で常に誰かを攻撃していないと自分の心の安寧が得られないのです。

しかし認知の歪みはそれでは解消できるはずもありません。ですから彼らは隘路の深みに嵌まって行くことになります。これはヘイトや差別といったバイアス行動と同じです。彼らはこういった行動で一瞬気分が良くなった様に思えるでしょうが、実際は自分に問題があるわけですから、決して解消されることはありません。むしろ悪化することになります。

最近人への関係問題として社会的に発達障害者がクローズアップされ始めました。これまで知的障害は取り沙汰されましたが、ようやく情的障害にも目が向く様になったわけです。そういった中で無知な人は、人とコミュニケーション障害を持つ人は何でも発達障害の如く表する人がいます。発達障害はあくまでも先天性ですから調整は困難ですが、実際のコミュケーション上で物議を醸し出す人の多くは寧ろ後天的な愛着障害者です。

発達障害者は前提として人に関心が乏しく、感情統制ができないわけですから、元より悪意あるコミュニケーションをしかも感情的に行うはずもありません。愛着障害は後天的な歪んだ学習の結果です。ですからこういった人は調整可能です。その手法が認知行動療法です。何にしても現代は知性の教育以上にこういった意性の調整を行う教育が重要だと思われます。

 

そして2つ目の要因。これがストレスによる心の歪みです。人にとって心が自由な状態は「自己選択、自己決定、自己責任」が持てている状態です。これが出来ない状態にいる人は必然としてストレスとなり、心に歪みが生じ、防衛機制が発動し始めます。これが愛着障害者となるとその着火点はかなり低いものとなります。

自由意思は愛着障害のみならず、自己概念に対する自動思考(思い込みと云うバイアス)によって自分で足かせをすることから生じる人もいますが、実際に外圧によって為される場合も多くあります。今回の様な緊急事態宣言などもその一つです。親からの期待や職場環境、生い立ちの条件など原因は様々ですが、何の場合も不自由でかつ不安が支配する心理状態に陥ります。

この時抑圧の度合いや、その人自身のレジリエンスの度合いによって、すぐに折れる人そうでない人に差が出てきます。そして折れた場合、前述した防衛機制が発動されることになります。防衛機制は心理的に言語化され場合もありますが、身体反応で出る場合もありますし、行動に出る場合もあります。

過食症とか心身症や内因的な病気の発症(最近の癌研究では癌もストレス性があると云う説があります)の様に身体的に出たり、ついやってしまった万引きの様な自制が効かない行動もストレス性による無意識的な反応の一つです。そしてそういったストレス解消の無意識的反応として他者攻撃、弱いものいじめがあります。

こういった行動は一見意識的の様に見えますが、理性に抑止が効かない無意識的で感情的な欲情が働き、我慢が出来なくなると云う事態が生じてしまい、我に返った時には既に遅しといったことになるわけです。でも、いずれにせよそれで人を追い込んだり、過失致死を犯したりしてはいけません。

~意識に対する教育の重要性

人の心はまだまだ解明仕切れていません。何でも理性で切ればいいというものでもないわけです。

無論意図的な殺人は言語道断ですが、自粛警察や誹謗中傷の多くは不安感や歪んだ正義感(自分は正しいと云うことを証明したいバイアスに陥った自信のない心)による防衛機制的な攻撃によって過失してしまったわけで、やってしまった人達をこれまた逆に攻撃するのではなく、そう云うことが起きない様なセーフティネットを今後は準備することによって殺人や致死に限らず、この様な事態が起きない様に抑止することが重要です。

過失致死でも罪は罪です。罰則規定は必須でしょう。また、もっと心や感情、意識に対する教育を組織や社会は真摯に考えないとちゃんとした抑止にはならないと私は考えています。

さて、皆さんは「ソモサン」