共感的理解力を磨く論理的思考とは

緊急事態宣言が一か月延長されました。

まさに三浦瑠璃さんが云う「健康不安は9割に迫る人が感じているので政権はその世論には左右されやすい。しかし雇用不安がある人の意見は政治に届きにくい。雇用不安は自民党への評価を下げる一方で最大野党の立民の支持には繋がらない。それは雇用不安を抱える人が政治に関心を持つ余裕がないからではないか。

しかし失業は拡大する。4月末時点では半数が雇用不安を抱えているが、もし1ヶ月緊急事態宣言を伸ばすとすれば、さらに立ち行かなくなる企業が出て解雇は広がる。見通しが立たず廃業するところも。現時点の民意に押されて延長すれば来月には逆に失業と倒産を拡大させたとして叩かれることになるだろう」という考えが気になるところです。

三浦さんの意見に対して、感情を優先させてその感情に基づいて論理を組み立てて反論する輩が多くいますが、こういう人たちこそが、先週の理解で云うところの「評価的理解者」です。

 

逆境下におけるストレス状況での人のパターンとしては、

  1. 世の中の大勢に従って、ただじっとしている。
  2. ただ悲嘆にくれている。
  3. じっとしているだけでは退屈だから、やたらに文句を言ったり、他人を非難したりする。
  4. 困難な状況を受け入れながらも、打開策を見つけるために奮闘している。

 

に大別されますが、4.以外は何れも論理とか知的な行動選択ではなく、感情的な行動選択です。反論者は3.が当て嵌まりますが、感情的な人の特徴は論理としての要である「因果的な思考」とか「三段論法(事実、証拠、主張)」が出来ず、論理が飛躍して、極端から極端へと思考が走ってしまうことです。

「ではお前やってみろ」とか「当事者でないのに分かるのか」といった言は、自分が本当に当事者で事実や証拠を持っている人ならば出て来ません。当事者は具体的論理的に反論できますから意外と冷静です。感情論の人を相手にしていても問題解決はしません。無視するのが得策です。恐らく三浦氏は自身の言にもある如く、意見を届けるため意図的に経済寄りに偏らせた上で、そして多少過激な表現を使っているのでしょうが、評価的理解しか出来ない頭の悪い人にはそれが見分けられないのでしょう。

困ったことに論理のなさは判断なき感情に動かされますので、評価的理解レベルであるにもかかわらず同情的理解の人たちを巻き込んでしまい、それが大勢になってしまうことが良くあるということです。これが、衆愚が出来上がる構造です。理解において怖いのは、評価は論外として、分析よりも同情的理解の趨勢です。人の行動、特に集団的な行動をリーディングしていく上で感情的な側面を軽視することを戒める真意がここにあります。

 

このように私たち行動科学のエンジニアリングを生業とするコンサルタントは、コミュニケーション(意思疎通)を主観的(バイアス的)か客観的(ファクト的か)かという軸と間接的視点(ある意味利己的)か直接的視点(ある意味利他的)かという軸で理解していますが、これは論理的か論理的でないかという軸と感情的に他者に向かって内包的か外延的か、強いて云えばネガかポジかと云うことと同義と云えます。今回は、その中で論理的か論理的でないか、という側面に焦点を当ててコメントをしたいと思います。

先週この件について私と同じ視点を述べられている方のコメントを見つけました。それは立命館アジア太平洋大学長の出口治明氏のコメントです。私が同じと云っても巷間では「お前如きと同列にするな」と云われそうですので、学長の権威の「ふんどし」を借りるといった方が良いかもしれません。またさすが学者は表現が上手ですので、その尻馬に乗っかるといったことも当て嵌まります。ともあれ、出口氏は論理的であるということを以下のように見ています。

日本における教育の2つの目的は、

  1. 自分の頭で考える力を養う…自分が感じたことや自分の意見を、自分の言葉で、はっきりと表現できる力を育てること(人格の完成)。
  2. 社会の中で生きていくための最低限の知識(武器)を与える…お金、社会保障、選挙など、社会人になるとすぐにでも直面する世の中の仕組みを教えること(社会の形成者として必要な資質を備えること)である。

 

「自分の頭で考え、自分の言葉で表現できる人間になる」とは、他人の意見に左右されることなく、自分の頭で考えるということである。自分の頭で考え、自分の言葉で「こう思う」と自分の意見をはっきり表現できる人間になること、つまりまっさらの状態から自分の頭で考え、人とは違うアイデアを紡ぎ出す力を培うことこそである。

考える力とは、探求力、問いを立てる力、常識を根底から疑う力などと言い換えることができる。自分の頭で考える力がなぜ必要なのかといえば、社会や技術の進歩のスピードが速くなり、将来において、何が起こるか誰にもわからなくなったからである。もし将来起こることのすべてが現状の延長線上にあるのなら、別に自分の頭で考えなくてもそれに対処できるかもしれない。今と同じ状態でとどまっていればいいからである。

だが現在の人類はわずか数年先さえ見通すことができない。新型コロナウイルスがいい例であるが、世の中がどう変化するか誰にもわからないときに一番大事なのは、原点から考える力である。

変化に対応するには、他人の意見に左右されず、自分の頭で、自分の言葉で、データ(事実)を使ってロジカル(論理的)に考えるしかない。そして「考える力」を身につけるには「先人の真似」から入ることが第一である。スポーツでも芸術でも、何らかの技術を習得しようと思えば、練習が不可欠である。人間は不器用な生き物なので、練習しなければ力を高めることはできない。脳も例外ではなく、考える力を鍛えるには練習が必要であるが、その考える力を育てるには、一流の人の真似をすることから始めるのが一番である。

考える力は、料理をつくる力と同じである。まずお手本となるレシピ通りにつくってみる。食べてみる。味見をして、「ちょっと塩辛いな」と思ったら、醤油や塩を減らす。味が薄いのなら、醤油や塩を足す。その繰り返しで、おいしい料理をつくる力がついてくる。同様に考える力を身につけたいのなら、料理のレシピを参照するように、まず優れた先人の思考の型や思考のパターン、発想の方法などを学ぶことである。

アリストテレスやデカルト、アダム・スミスなど、お手本となる超一流の先人の著作を読んで、彼らの思考のプロセスを追体験し、他の人と議論を重ねながら、考える癖を身につけていく。これが、考える力を鍛える最も普遍的な方法なのである。人間はそれぞれ顔が違うように、異なった価値観や人生観を持って生きている。つまり人間はそれぞれの価値観や人生観という色眼鏡をかけて世界を見ている。従って誰しも世界をフラットに見るためには方法論(思考の枠組み)が必要になる。

「考える力が弱い人」にはそういった「枠組み」が欠けている。だからまずは自分の中に枠組みを作る必要がある。そしてその枠組みを増やすことが大切になるのである。山で例えるならば、「山の土質を固くする」のである。山は枠組みや思考法という土質とデータやファクト、知識という裾野の広さによって高くなるのである。

 

ここからが出口さんの真骨頂ですが、彼は「タテ・ヨコ・算数」という3つの枠組みを提唱しています。

「タテ」は歴史、昔の人の考え方を知ることである。人間の脳は、この1万年ほどまったく進化していないといわれているから、弥生人と私たちの喜怒哀楽や判断力は同じである。だから昔の人の考え方が参考になる。「ヨコ」は世界、いうまでもなくグローバルな人のことである。ホモ・サピエンスは単一種で、黒人や白人といった違いは単に気候の差から生じたものにすぎないことが遺伝子分析等から明らかになっている。例えば学校で源頼朝は北条政子と結婚して鎌倉幕府を開いたと習ったので、日本の伝統は夫婦別姓であることがわかる。

しかし世界を見ると、先進国クラブであるOECD37カ国の中で法律婚の条件として夫婦同姓を強制している国は(わが国を除いて)皆無です。この2つの事実を知れば、「夫婦別姓のような考え方は日本の伝統ではない」、あるいは「家族を壊す」などと云っている人は、単なる不勉強かイデオロギーや思い込みの強い人、つまりバイアス思考であることがわかる。

 

そして「算数」は、「エピソードではなくエビデンス」で考える、あるいは「数字・ファクト・ロジック」で考える、と言い換えることができる。平成の30年間を考えると日本の正社員の労働時間は年間2000時間を超えており(まったく減少していない)、平均成長率は1%あるかないかである。アップル・トゥ・アップル(同じ条件のもの同士を比べること)で人口や国土、資源(の有無)等の条件がよく似たドイツやフランスと比較すると、彼らは1400時間前後で平均2%の成長を達成している。このデータ(エビデンス)から類推される結論は、「日本のマネジメントがなっていない」ということである。こうした明白なエビデンスがあるにもかかわらず、日本的な経営(マネジメント)が世界を救うなどと云っている人がいるのは情けない限りである。根拠なき精神論ほど社会を害するものはない。

そのうえで出口氏はこう付け加えています。タテ・ヨコ・算数の中で、「タテ(過去、歴史)」についてもう少し述べるならば、人間は単純な動物だから、「今日よりも明日がいい」「明日よりもあさってがいい」と、一直線の考え方に馴染みやすいが、実際の歴史を見るとまっすぐに進んでいるわけではなく、ジグザグと蛇行したり、行ったり来たりを繰り返している。世界がどの方向に進むのか、正直、誰にもわからない。

しかし未来はわからなくても、過去に起きた出来事をヒントにしながら、将来の選択を行ったり、類推したりすることは可能である。ダーウィンの「進化論」が指摘しているように、人間が動物である以上、生き残るのは「賢さ」や「強さ」ではなく、「運」と「適応」(適切に対応)以外の条件はない。即ち運(適切なときに、適切な場所にいること)を活かして上手く適応できる人のみが生き残る条件なのである。結局、将来を想像するには過去を見るしかない。

悲しいことに人間には過去以外に教材がない。だから本を読んで歴史を学び、先人をロールモデルとする必要があるのである。知識はもちろん大切である。しかし、時代の変化に適切に対応するためには、自分の頭で考える力こそが重要である。将来を想像するには、過去を見るしかない。だからこそタテ・ヨコ・算数を鍛えることで、どのような状況が訪れたとしても、自分の頭で考え、決断できるようになれば、自分の道を自分で切り開けるようになるのである。

新型コロナウイルスについては過去の3大パンデミック(14世紀のペスト、15世紀のコロンブス交換、20世紀のスペイン風邪)が参考になるかもしれない。パンデミックは多くの犠牲を伴ったが、新しい世界を切り開く原動力ともなった。例えばペストはルネサンスを生み出したのは事実である。

 

如何でしょうか。ここで出口学長が云う「頭の良さ」、自分で考える力は「創造力と想像力」という「論理力」のことです。与えられた情報を分析するだけの論理力ではありません。分析的理解力を磨こうというのではなく、「共感的理解力」を磨こうと云うものです。私が加えるのもおこがましいですが、今の学歴主義や人材登用を見る限り、実際の日本は出口氏が云うような学校基本法に則った教育になっているとはどうも思えないのですが、皆さんは如何考えますか。「タテ・ヨコ・算数」思考で行きたいものです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」